また桂歌丸師匠の記事
東京新聞でも、桂歌丸師匠の記事が掲載されていました。
落語家の桂歌丸が先月、「落語中興の祖」三遊亭円朝(1839~1900年)作の長編人情噺「塩原多助」(前半)に挑んだ。
今年1月にはインフルエンザで入院し、体調に気遣いながら長講を演じた。
後半は来年4月の予定だが、その前に今夏は円朝の怪談噺も披露する。
「私の財産」という円朝噺に向き合う78歳の歌丸の境地は-。
4月11日から20日、東京・国立演芸場の中席。
塩原多助の前半「青の別れ」を10日間、連日約一時間、熱のこもったネタ下ろしとなった。
「円朝ものは筋立ても場所も人物も入り組んでいる。名前を覚えるだけでも大変なんです」。
「青の別れ」の登場人物は十数人に上る。
「間違えるかも」と不安もあったが、高座を重ねるごとによどみのない噺に仕上げた。
「塩原多助」は江戸期の実在の人物をモデルに円朝が創作した。
上州・沼田の豪農の養子として育った多助が、江戸に出て炭屋で大成する立身出世物語だ。
愛馬の青を残して江戸に出る多助のラストシーンで、歌丸は立ち上がらんばかりに手ぬぐいを握りしめ、青との別れを情感込めて演じきり、客席を魅了した。
師匠の五代目古今亭今輔から円朝噺を教わったのは十代のころ。
「師匠がいつか役に立つことがあるだろうと…」と振り返る。
歌舞伎の演目となった円朝噺も多く、その時は「『型と間を見ろ』って。今それが役立っています」。
修業時代に下地ができた。
「塩原多助」はほかの落語家があまり演じない演目のネタ下ろしなので、資料も少ない。
六代目三遊亭円生と五代目古今亭志ん生の音源が残っていた。
これらも参考にしつつ、昔の「円朝全集」の速記本(口演筆録)を現代語に直し構成した。
しかし、正月早々の入院もあり、稽古を始めたのが退院後の一月後半から。
歩行もままならない状態だったが、「多助」を極めたい一心で、自宅で昼食後から夕方まで稽古に没頭した。
円朝噺の初演は1994年の「牡丹灯籠」より「栗橋宿」。
以来20年余、「牡丹灯籠」に加え、「真景累ケ淵」など、長編の怪談噺を何度も語り直してその都度内容を深めてきた。
国立演芸場の8月中席で8年ぶりに「怪談乳房榎」を口演する。
「新しい切り口を見つけ、稽古に入ります」と気合が入る。
来年4月には「塩原多助」の炭屋で大成する後半の上演を考えており、意欲は尽きない。そこには約半世紀出演し続けるテレビ番組「笑点」の歌丸の顔はない。
テレビで人気者になっても「噺家である以上、きちんとした仕事を残して『噺家の歌丸』で終わりたい」と、強い信念がある。
昨春「慢性閉塞性肺疾患」の大病を患い、体調と折り合いを付けながら活動を続ける。
日常生活では車いすに乗る機会も少なくないが、高座はいつも気迫で乗り切るところが歌丸の真骨頂。
ライフワークの円朝噺は「息が続く限り挑んでいきたい」と言い切った。
三遊亭円朝は落語の名人であり、名作と呼ばれる落語を数多く創作した。
特に怪談、人情噺の分野で大作、長編を生み出し、現代にも受け継がれている。
「落語の神様」とも称される。
「塩原多助」はじめ歌舞伎の演目となった円朝噺も多い。
特に「牡丹灯籠」など怪談は夏季のヒット興行として定着した。
61歳で死去した円朝の大名跡はその後、襲名者は出ていない。
墓がある東京都台東区の全生庵では、命日の8月11日に「円朝忌」があり、法要と落語の奉納などがある。
命日のころには現在も、円朝をしのび、各種の落語イベントが開催されている。
・・・「三遊亭圓朝」は、偉大ですね。
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