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2015年4月 9日 (木)

米朝師匠のこと

米朝師匠のこと
こんな新聞コメントを見つけました。
上方落語の第一人者、桂米朝が先月、89歳で亡くなった。
米朝は自著で「落語は大道具も小道具もなく衣装もメーキャップもない、話術という噺家の術によって、聞き手の頭の中に作り上げてもらうお芝居だ」と書いていた。
入門した頃は「上方落語は存亡の危機」と言われた時代だった。
それを見事に蘇らせた功績を、新たに見つかった資料やかつてのインタビュー映像などをもとに振り返った。
米朝が落語の世界に魅せられたのは小学生の時だった。
父親に連れられて寄席に通ううち引き込まれたという。
しかし、間もなく始まった戦争が大きな影を落とした。
昭和20年2月、19歳で徴兵されたのだ。
それでも落語への思いを抱き続けていた。
自宅に残されていた当時の日記には、兵士たちの前で上方落語の名作を繰り返し披露した様子が綴られていた。
<夜、遂に余、落語に話を転じ、久々に芸の話をしたりし、『立ちぎれ線香』を遂に一席やってしまふ>
本格的に落語家を目指したのは終戦後である。
四代目桂米團治に入門した。
ただ、当時は漫才ブームで、しかも入門して4年後に米團治は亡くなってしまう。
米團治が米朝に宛てた手紙が今回の取材で発見された。そ
こにはこうあった。
「貴君が私の志を継いで、私の止まったところから、さらに前進してくれるよう切望する。私のために、私に至るまでの多くの先輩のために・・・」
米團治に続いて上方落語を支えていた多くの先輩たちも亡くなり、「上方落語は滅んだ」とも言われた。
この時、米朝は自分たちの手で上方落語を復活させようと誓ったという。
「どん底の時から噺家になったんですから、狂気の沙汰かも知れん」「世の中が落ち着いてきたら、必ず見直されると思ってました」(かつてのインタビュー)
道のりは容易でなかった。
米朝は引退した噺家や寄席に通った人を回り、江戸時代の古文書も収集した。
50年の親交のあった落語研究家の小沢鉱司さんはこう話す。
「上方落語はこういうもので構成されていたのだなということがわかる『真摯な学者』の米朝師匠であったと思います」
そうした姿を身近で見ていた江戸落語の桂歌丸も同意見だ。
「米朝さんは落語界の百科事典。何千、何万の参考書がなくなったのと同じだと思います」
固いばかりじゃない。
復活させた落語に時流 に合わせた話題を盛り込んでいった。
代表作の一つ「地獄百景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」を平成2年に演じたときは、亡くなったばかりの松田優作や美空ひばりなどの名前もちりばめて親しみやすさも演出した。
米朝が復活させ発展させた演目は180にも及 ぶ。
生涯5300回の高座で描こうとしたのは普通の人たちの日常だった。
自らはそれを「落語国」と呼んでいた。
この日のゲストは対談などで米朝さんと親交のあった大石静さん。
国谷裕子キャスターが 「会話を重ねる中で、とくに印象に残る言葉はありますか」と聞く。
「『芸人は目先の評価でなくお客に育てられるものです』とおっしゃった時、言葉を失うくらいドキッとしました。私たちは目先の評価、視聴率というものに迷わされて生きてきたので、『本物だな、この師匠は』と思いました」
地獄百景亡者戯は1時間半にもなる大ネタだ。
最近は中堅、若手の上方の落語家が挑戦し て人気になっている。

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