高座の徳利
師匠の創作「高座の徳利」は、師匠が実際に寄席でお聞きになったことを噺にされたそうです。
こんな逸話の記事を見つけました。
「人形町鈴本亭」の席主は、腹はいいんだが口に毒のある人で、一度芸人のいる前で、「うちなんか人形町の目抜きの場所なんで、高座へ徳利をのせとくだけでも客は来る」と言ったらしい。
これを(柳亭)春楽という芸人さんが覚えていて、その後何年かたって何かの都合で芸人の楽屋入りが遅れて楽屋には春楽一人しかいなくなったことがありました。
寄席では、後の芸人の顔が見えるまでは前の芸人がつなぐというのが楽屋のおきてですが、そんなことおかまいなしに春楽は自分の高座だけすますと、どこから探して来たか高座の布団の上へ徳利を一本のせて、どんどん帰ってしまった。
師匠は、こんな話をしてくださいました。
昔、歌舞伎の声色などを得意とする春楽という幇間上がりの、あまり受けない芸人がいて、それを口の悪い「人形町末廣」の席亭が、「下手な芸人を上げなくても、ウチぐらいになればね、高座に徳利を乗せておくだけでも客は来る」と言っていたと聞いた。
その話を元に創作したんだよ。
ここに出て来る春楽という芸人さんは、この人かもしれません。
柳亭 春楽(1901年3月30日 - 1948年1月22日)。
五代目柳亭左楽の門下で新楽、1922年に師匠の前名の春楽を名乗る。
真打に昇進したかどうか不明。
左楽の門下になる前から歌舞伎の声色をやっていた模様でかなりの腕だったという。
大正から昭和の終戦頃までの声色で十分に高座を勤めた人物。
女形の声色で人気者だった山本ひさしと組んで掛合い噺を演じたのが好評になり、初代中村吉右衛門、二代目市川猿之助、二代目實川延若等の声色を得意とした。
・・・この人のことかなぁ。
ところで、師匠の高座本には、架空の名前で「人形町鈴本」と出て来ますが、一般的には、「人形町末廣」を連想する人がほとんどだと思います。
しかし、「人形町鈴本亭」という寄席も実在していたそうなんです。
江戸時代には「元吉原」があった所でしたが、明治期の人形町近辺は、大小の問屋・商店が立ち並ぶ商業地で、店主と家族、住み込みの従業員等で人口密集地帯でした。
近隣を流れる日本橋川に架かる日本橋西南岸には関東大震災で壊滅するまでは魚河岸が控えており、さらに日本橋兜町には東京株式取引所が設置され、個人商店を含む大小の証券会社が開業しました。
こんなふうに増加した居住者に娯楽を提供すべく、明治期には人形町に寄席が4件あったそうです。
「人形町末廣」、「大ろじ」、「人形町鈴本亭」、「喜扇亭(浪曲席)」。
「人形町鈴本亭」は、明治から大正にかけては、東京で屈指の客の来る寄席で、常時500〜600人の客で満員となり、入場しきれない客が場内を覗こうと隣家の屋根に登って苦情が出るほどの賑わいだったと言うことです。
隣町の日本橋久松町には「明治座」も開場しており、近隣は明治期に芸能が盛んになった土地だったんですね。
ところが、関東大震災で「人形町鈴本亭」が閉場、「喜扇亭」は漫才等の色物席として存続しましたが、戦後閉場。
そして、「人形町末廣」が孤塁を守っていましたが、結局閉場してしまいました。
・・・そんな寄席を舞台にした、しかも寄席の席亭と芸人さんが登場する噺です。
師匠の高座本に少し肉付けをして、15分ぐらいの噺にしたいと思います。
「落語・噺・ネタ」カテゴリの記事
- 稽古をした演目(2020.09.09)
- 十八番(2020.07.13)
- 「紺屋高尾」と「幾代餅」(2020.06.18)
- 落語DEデート(2020.05.24)
- 古今亭志ん朝を聴きながら(2020.05.23)