先代馬生師匠のこと
先代の金原亭馬生師匠に関する本の中で、長女の池波志乃さんがコメントしている、噺家「馬生」像を面白く読みました。
誰か、若手噺家さんのツイートで見つけました。
西洋史から美術史からフランス文学まで読 んでいるから、お父さんは「雪の瀬川」みたいな、フランスの不条理劇みたいな落語も、実験的に表現出来たんでしょうね。
お父さん本人の中にそ ういう感覚があるのと、表面だけの噺の稽古じゃなく、頭の中の稽古、感受性の稽古をしてたのかも。
「こんなにやってます」みたいなのは、表現者として違いますよね。
結果、それって上から目線ですからね。
(中略)
学校の勉強みたいに噺を捉えるのではないから 、噺に出てくる人の名前とかはよく間違えましたけれど(笑)、細かいことを意識するのではなく大きな捉え方をする。
名前とかがコロコロ変わっちゃう時って、何かを演ろうとしてるとか、何か引っかかってる、研究し尽くしたうえで変えようとしているか(笑)。
あとは、お客さんとの対話が上手くいかなかったかでしょうね。
それは稽古をしなかった結果ではなく、いわゆる「稽古をしている」とは違う次元で噺をしてい たんだと思います。
私たち俳優でも、「セリフを一生懸命読んで動いてみます」というのとは違う 「稽古」があるから分かるんですけれど、動いてセリフを言うのは最終的な表現であって、その前に埋めなきゃならない行間がある。
そこの勉強を 「稽古」というならば、「稽古」を相当にしていましたし、お父さんの噺は、舞台に立ってから戦ってるみたいなものでした。
内容量が桁違いに大きいというか、もっと大事なことを考えていたと いうか。
一生懸命、「落語としての稽古」をし過ぎちゃうと、お客がどうあれ、自分の体調がどうあれ、 場がどうあれ、空気がどうあれ、一方通行になっちゃう、「そういうのは、大学の落研の生徒さんみたいなもの」と考えていたんじゃないでしょうか。
・・・物凄く、何となく良く分かります。
今、圓窓師匠から稽古をつけていただいている私にも、感覚的には非常に共鳴できます。
何かこう・・・、噺を覚える、覚えた噺を演じる・・んじゃないんですよ。
私自身では、「大学の落研の生徒さん」からは卒業出来ているとは思っているのですが・・・。
そう言えば、こんな「馬生語録」をご紹介したことがありました。
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2014/10/ranshikingant-3.html
「なんでもいいんだよ。でも、どうでもいいんじゃないよ。」
「たとえば富士山に登るとき、五合目まで車で行ってそこから歩いてもいい。
勿論最初から歩いてもいい。
場合によっちゃヘリコプターで降ろしてもらうなんてこともできる。
方法は自分にあったものならどうでもいい。
ただ、てっぺんを目指すという志だけはおろそかにしていけないんだよ。」って・・・。
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