雲光院
日本文化研究会という団体が主催する「雲光院で柳家さん喬師匠を聴く会」は、昨日が13回目の公演になったそうです。
この雲光院が名刹で、とても雰囲気のあるお寺さんなんです。
ホームページの紹介を読んでみました。
徳川家康公の側室阿茶局の菩提寺として、慶長十六年(1611年)阿茶局自らの発願により、増上寺の高僧であった潮呑上人を開山上人(初代住職)として仰ぎ開創されました。
阿茶局の法號「雲光院」がそのまま寺の名称になりました。
開創地は中央区馬喰町付近でありましたが、明暦三年(1657年)の大火に被災し、神田岩井町に替地となり、天和二年(1682年)現在の深川の地に再び替地となりました。
阿茶局の徳川家、江戸幕府への比類の無い功績のため、家康公はじめ三代の将軍より、手厚い擁護を受け、朱印社領(しゅいんしゃりょう)も賜り、一時は寺領内に塔頭寺院( たっちゅうじいん 末寺)を十九カ寺(後に合併して十カ寺)、埼玉にも末寺を二カ寺擁した本坊寺院でありました。
堂内には、神君家康公肖像、阿茶局肖像など多くの宝物、什物が安置されていました。
雲光院開基阿茶局は、弘治元年(1555年)に、武田氏の家臣 飯田氏の子として、甲府で生まれました。
今川氏の家臣神尾孫兵衛忠重に嫁ぎましたが、忠重の死後は、徳川家康公の側室となりました。
武家出身の女だけに、馬術や武芸にも優れ、才知も比類なく長けていましたので、側室でありながら、家康公の懐刀として信頼を得、戦場や政治の中枢にも身を置きました。
政権奪取への緒戦への随行はもとより、大阪冬の陣、夏の陣では、和睦の使者として歴史に残る活躍をされました。
二代将軍秀忠公の娘和子(東福門院)入内の折には、母代わりとして供奉し、天皇家からも信頼を得て、「従一位」に叙せられました。
家康公の全幅の信頼得ていた阿茶局は、家康公の死後も、出家を許されず、三代の将軍に仕え、江戸と京都の宗教的連携、宗教政策の充実、幕府と朝廷間の融和政策推進など、無類の手腕を発揮され、幕府にとって必要な女性であり続けました。
寛永十四年(1637年)一月二十二日に八十三歳で、京都にて逝去されたと伝えられ、晩年の活躍の場であった京都東山金戒光明寺に葬られ、京都では上徳寺を菩提寺とし、江戸では雲光院が菩提寺となりました。
・・・という。
名刹で聴く、若旦那と花魁の恋物語「雪の瀬川」、乙なものでございました。