清水次郎長の生家
郷里の近くの有名人?に清水次郎長という人がいます。
正直なところ、仁侠の世界の人というイメージで、何故こういう人がもてはやされるのか・・・、物凄く違和感があります。
講釈や小説や映画でも英雄になっている訳がわからない。
大政、小政、森の石松・・・なんて、子分たちも有名です。
亡くなった人に申し訳ありませんが、高倉健や菅原文太の役柄などは、個人的には嫌悪感すらあります。
しかし、昔は、どの世界でも、清濁紙一重というのか、ある秩序を作り守るための必要悪という部分なのだとすれば、仕方ないことなのかもしれません。
天保水滸伝の大利根河原の平手造酒、赤城の山の国定忠治、土地土地の英雄は、ほとんどアウトローです。
考えてみると、後に大名になって、いかにも権威がありそうでも、実は、土地のならず者ややんちゃ者がルーツだったりというのが、人の世なのでしょう。
さて、清水次郎長の話題。
後世に残したい建物をフェイスブック上で投票するコンテストで、静岡市清水区にある清水次郎長の生家が全国の首位争いをしているそうです。
「あなたの残したい建物コンテスト」という、住宅の耐震化を促進する全国の約200の工務店などでつくる実行委員会が主催しているイベントにエントリーしているそうです。
事務局によると、約400件の応募の中から書類選考で8件まで絞り、9月から決選投票を受け付けていて、1位になれば、耐震改修工事をやってもらえるそうです。
次郎長の生家は各方面の支持を引き寄せて、1位争いをしながら最終盤を迎えているとのことです。
次郎長の生家は建築から190年以上経過しているとみられ、老朽化が激しく、台風などで屋根も傷んでいるそうです。【清水次郎長】1820-1893
幕末-明治時代の侠客。
文政3年1月1日生まれ。
本名は山本長五郎。
駿河国清水の船頭雲不見三右衛門の3男。
母方の叔父の米問屋山本次郎八の養子となり、次郎長と略称。
博徒となり,東海道を縄張りにして甲斐の黒駒勝蔵、伊勢桑名の穴太徳らとあらそう。
維新後,山岡鉄舟らとまじわり、富士山麓の開墾、清水港の整備などにつくした。
明治26年6月12日死去。74歳。
嫌いな人のことを話題にするのは、実は、次郎長が富士川舟運にも関わっているということと、次郎長の後半生にあります。
山岡鉄舟との接点です。
旧幕府海軍副総裁の榎本武揚が率いて品川沖から脱走した艦隊のうち、咸臨丸は暴風雨により房州沖で破船し、修理のため清水湊に停泊したところを新政府海軍に発見され、見張りのため船に残っていた船員全員が交戦によって死亡した。
その後逆賊として駿河湾に放置されていた遺体を、次郎長は小船を出して収容し、向島の砂浜に埋葬した。
新政府軍より収容作業を咎められたが、死者に官軍も賊軍もないと言って突っぱねたという。
当時、明治政府の静岡藩大参事の任にあった旧幕臣の山岡鉄舟は 次郎長の義侠心に深く感じ入り、これが機縁となって次郎長は明治において山岡・榎本と交際したとされているのです。
さて、山岡鉄舟と言えば、三遊亭圓朝を語る時に、なくてはならない人です。
次郎長は、圓朝(1830-1900)とほぼ同時代に生きたんですね。