« 芸能花伝舎 | トップページ | 淀橋 »

2014年5月 4日 (日)

十二社の熊野神社

「せっかくここまで来たんだから」と、新宿中央公園の脇から十二社通りに出ました。
交番を左折するとすぐにあるのが熊野神社です。
十二社の熊野神社
お宮参りをしている家族がいました。

十二社の熊野神社
室町時代の応永年間(1394~1428年)に中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷である紀州の熊野三山より十二所権現をうつし祠ったものと伝えられます。
あるいは、この地域の開拓にあたった渡辺興兵衛が、天文・永禄年間(1532~69年)の熊野の乱に際し、紀州よりこの地に流れ着き、熊野権現を祠ったともいわれています。
明治維新後は、現在の櫛御気野大神・伊邪奈美大神を祭神とし、熊野神社と改称し現在にいたっているそうです。
氏子町の範囲は、西新宿ならびに新宿駅周辺及び歌舞伎町を含む地域で、新宿の総鎮守となっています。
新宿に勤務している頃は、成子天神と熊野神社にはお参りを欠かしませんでした。
また、この辺りは、かつて大きな池と滝があったそうです。
Page0102
十二社の池は、慶長11年(1606年)、伊丹播磨守が田畑の用水溜として大小つの池を開発したもので、現在の熊野神社の西側、十二社通りをへだてたあたりにありました。
大池(中池・上の溜井)は南北126間・東西8~26間とされ、水源は湧水であったようです。
池の周囲には享保年間(1716~35年)より多数の茶屋ができ、景勝地として賑わいました。
明治時代以後は、大きな料亭ができ花柳界として知られるようになり、最盛期には料亭・茶屋約100軒、芸妓約300名を擁したほか、ボート・屋形船・釣り・花火などの娯楽も盛んに行われましたが、昭和43年(1968年)7月に埋め立てられました。
大池の北側に隣接する小池(下池、下の溜井)は、大池の分水で、南北50間・東西7~16間ありました。
昭和の初期より一部の埋め立てが行われ、第2次大戦中には完全に埋め立てられました。
Page0103
さらに、十二社には、記録や古老の話からいくつかの滝があったことが伝えられています。
このうち十二社の大滝は、「江戸名所図会」「江戸砂子」などに熊野の滝・萩の滝と記され、高さ三丈・幅一丈と伝えられます。
この滝は寛文7年(1667)に神田上水の水量を補うため玉川上水から神田上水に向け作られた神田上水助水堀が、熊野神社の東端から落ちるところにできたものです。
池とともに景勝地として知られたもので、明治時代の落語家三遊亭圓朝は自作の「怪談乳房榎」で、この滝を登場させています。
滝の多くは、明治以後、淀橋浄水場の工事などにより埋め立てられました。十二社の熊野神社
そうなんです。
「乳房榎」のクライマックスシーンは、ここの大滝なんです。
今は、そんな面影は全くありません。
十二社の熊野神社
超高層ビル建設の波が、このあたりまで来つつあるようです。
・・・確か、堀之内のお祖師様にお参りするはずでしたが、随分道を外れてしまいました。
でもまぁ、特に急ぐわけでもありませんから。
ここから、十二社通りを青梅街道に向かいます。

« 芸能花伝舎 | トップページ | 淀橋 »

徒然」カテゴリの記事