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2014年4月 9日 (水)

吾妻橋

rouge「吾妻橋」と言えば、「文七元結」での名場面が印象に残ります。
師匠がオチを変えたのを私が演らせていただいた「薮入り」では、この橋のたもとに捨てられていた亀ちゃんを熊さんが拾って育てる設定にしています。P10207191
で、今、この橋をめぐって、専門家の 間で「赤色が鮮やか過ぎる」と議論が起きているんだそうです。
橋は近く塗り替え時期を迎えるそうで、現在の色は地元自治体の 色彩基準からも外れていて、「違う色にすべきだ」との声もあり、橋の色を考えるシンポジウムも開かれていて、今後は住民 も巻き込んだ景観論争に発展する可能性があると。
吾妻橋は江戸時代につくられ、関東大震災で焼け落ちた後、1931年、当時の東京市が3連のアーチが特徴の現在の橋を架けた。
今の色は93年、隅田川の橋を「地域色豊かな色」にする都の「著名橋整備事業」で決定された。
白鬚橋は 名前のヒゲの印象に近い「灰色」に、蔵前橋は地域が米蔵で栄えた歴史から稲穂をイ メージした「黄金色」に決まり、吾妻橋は「雷門」の色を採って薄い青から「赤」に塗り替えられた。
専門家によると、橋の塗り替えは塗料の耐久性から、約10年ごとに行うのが望ま しいとされ、2003年に塗り直しが行われた吾妻橋は、すでにその10年を過ぎて いる。
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一方、05年施行の景観法では、一定規模以上の建築物などを大幅に塗り替える場合、建設事業者が地元自治体に届け出ることが義務づけられた。
吾妻橋が架かる台東、墨田両区はその後、独自の「色彩基準」を盛り込んだ景観計画を定め、届け出の色も、「周辺の景観から突出しないよう、明度や彩度を抑えた色彩を用いることとする」(台東区の景観計画)などと規定した。
現在の吾妻橋の色の鮮やかさを示す彩度は、台東、墨田両区の色彩基準「4以下」 を大幅に上回る「12」。
「もう少し落ち着いた赤にするなど、様々な考え方があ る」(台東区)、「基準がある以上は、地元でもしっかり考えをまとめたい」(墨田 区)と、色の変更にも含みを持たせている。
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・・・・なるほど、"色々"問題があるものなんですね。
確かに、鮮やかな赤は目立ちますね。
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【吾妻橋】
創架は1774年(安永3年)10月17日のことで、それまでは「竹町の渡し」と呼ばれた渡し舟があった場所であった。
江戸時代に隅田川に架橋された5つの橋のうち最後の橋であり、1769年(明和6年)4月に浅草花川戸の町人伊右衛門と下谷竜泉寺の源八の嘆願が幕府によって許可され、着工後5年で完成したものである。
長さ八十四間(約150m)、幅三間半(約6.5m)の橋で、武士以外の全ての通行者から2文ずつ通行料を取ったと記録に残る。
1786年(天明6年)7月18日の洪水の際に永代橋、新大橋がことごとく流され、両国橋も大きな被害を受ける中で無傷で残り、架橋した大工や奉行らが褒章を賜ったという。
その後幾度かの架け替えが行われたようである。
橋名ははじめ「大川橋」と呼ばれた。
これは近辺で隅田川が「大川」と呼称されていたことにちなむ。
しかしながら、俗に江戸の東にあるために町民たちには「東橋」と呼ばれており、後に慶賀名として「吾妻」とされた説と、東岸方面の向島にある「吾嬬神社」へと通ずる道であったことから転じて「吾妻」となった説がある。
いずれにしても、1876年(明治9年)2月に木橋として最後の架け替えが行われた際に正式に現在の橋名である「吾妻橋」と命名された。E69db1e983bde5908de6898020e99a85e79
この最後の木橋は1885年(明治18年)7月の大洪水で初めて流出した千住大橋の橋桁が上流から流されてきて橋脚に衝突、一緒に流失してしまう。
そのために1887年(明治20年)12月9日に隅田川最初の鉄橋として再架橋された。
鋼製プラットトラス橋で、人道橋、車道橋、鉄道(東京市電)橋の3本が平行して架けられていた。
後に関東大震災によって木製だった橋板が焼け落ちてしまい、一時的な補修の後1931年(昭和6年)に現在の橋に架け替えられた。002m
吾妻橋・・・・。
この橋の上から身投げをしろと若狭屋に言われた浜野矩随、飛び込むすんでのところで助けられた文七・・・・。
そういえば、現在
近くに建っているビール会社の本社ビルの黄色い巨大なモニュメントを、幼い頃の我が子らは「恐竜のウンチ」と言っていました。

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