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2014年4月22日 (火)

楠正成

shadowその楠正成のこと。

鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。
建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍。
尊氏の反抗後は南朝側の軍の一翼を担い、湊川の戦いで尊氏の軍に破れて自害した。
鎌倉幕府からは悪党と呼ばれた。
明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。

・・・てな訳ですが、この方の逸話で有名なのが、「千早城の戦い」ではありませんか?
1332年(元弘2年、正慶元年)、後醍醐天皇の倒幕運動に呼応した河内の武将楠木正成と、鎌倉幕府軍との間で起こった包囲戦。
千早城は上赤坂城・下赤坂城と並び、現在の大阪府千早赤阪村に位置する山城。

ほら、楠正成は「千早城」、私は「千早亭」、何か縁がありますよ。
230pxkusunoki_masashige1331年(元弘元年、元徳3年)に倒幕計画が発覚すると、後醍醐天皇は笠置山に挙兵し、楠木正成は河内赤坂において呼応した(元弘の乱)。
鎌倉幕府は討伐軍を派遣して鎮圧し、後醍醐天皇を隠岐島で流し、関係者も処罰されたが、正成は翌年にも千早城に拠り抵抗を続けた。
幕府方は、上下赤坂城を落とした後、楠木正成の1,000人の兵が守る千早城を大軍で包囲した。
古典「太平記」は、幕府方の兵力を「100万」と記している。
わずか1,000人の兵でも正成が抵抗を続けられたのは、石や丸太を崖から落としたり、鎌倉側の兵に油をかけ火を放った、などの奇策を使ったからだといわれる。
また、この情勢を見た地元の土豪などが、正成の軍に味方し、幕府軍を挟み撃ちするような状態になったからでもあるという。

幕府は有力御家人足利尊氏や新田義貞の離反を契機に滅亡し、楠木氏は後醍醐天皇が開始した建武の新政においても重用された。
なるほど、天皇方についたから、明治になって名誉回復し、皇居に像が建てられたんですね。
「千早亭楠光」なんていう高座名もよいかもしれません。

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