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2014年4月22日 (火)

廓噺・・・・

廓噺というのは、遊郭が舞台になっている噺です。Oldphoto5
遊郭は、公許の遊女屋を集め、周囲を塀や堀などで囲った区画のこと。成立は安土桃山時代に遡る。
別称として、花街(はなまち、かがい)、廓(くるわ)、色里(いろさと)、遊里(ゆうり)、色町(いろまち)、傾城町(けいせいまち)などがある。「廓」は「城郭」と同じで、囲われた区画を意味する語。
一区画にまとめられたのは、その地の支配者が治安を守り風紀を統制することが目的だった。
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江戸時代、公許の遊廓以外にも、遊女の集まる場所として宿場町の飯盛旅籠(めしもり はたご)や門前町などの岡場所(おかばしょ)があった。
江戸に遊廓が誕生したのは慶長17年(1612年)。
駿府(今の静岡市)の二丁町遊郭から遊女屋を移して日本橋人形町付近に遊廓がつくられ、これを吉原遊廓と呼んだ。
吉原遊廓は明暦の大火で焼失。
その後浅草山谷付近に仮移転の後、すぐに浅草日本堤付近に移転した。
人形町付近にあった当時のものを「元吉原」、日本堤付近に新設されたものを「新吉原」とも言う。
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私が、今まで廓噺を封印していたのは、廓に対するネガティブなイメージがあったからです。
しかし、それを受け容れることも必要でしょう。
江戸時代の遊廓は代表的な娯楽の場、文化の発信地でもあった。
上級の遊女(芸娼)は太夫や花魁などと呼ばれ、富裕な町人や、武家・公家を客とした。
従って、芸事に秀で文学などの教養が
必要とされた。
江戸中期以降は度々取締りを受けながら、遊廓以外の岡場所が盛んになった。
遊廓自体も大衆化が進み、一般庶民が主な客層となっていった。
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考えてみれば、「鰍沢」でも、廓噺の範疇には入っていなくても、元花魁だったお熊が出、「千早振る」も、千早太夫が出て来ます。
http://yosiwara.net/category/yukaku
当時の廓遊びのルールを知って、そこにいた人々の生き様を思い演じるのも、落語の醍醐味ではないかと思い始め、"宗旨替え"をすることにしました。
「明烏」をはじめ、「居残り佐平次」・「紺屋高尾」・「お茶汲み」・「お見立て」・「五人廻し」・「三枚起請」・「文違い」・「品川心中」・「付き馬」そして「お直し」等々・・・。
廓噺を避けては通れないでしょう。

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