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2013年10月 3日 (木)

落語の魅力

key落語は、一見なんの他愛もない(くだらない)会話のやり取りを通じて、何故こんなにも人の心を掴んでいるのでしょう。
師匠と出会ったばかりの頃、確か世田谷方面での師匠の会に行った時のことだったと思います。
地元の方が主催するこじんまりとした落語会で、終演の前に師匠が客席に座っていた私に声をかけてくださり、高座の脇で師匠と対談をさせていただきました。
その時に師匠から、「流三さんにとって、落語の魅力とは何?」という問いがありました。
私は、「落語国の住人が、どんな境遇にあっても、それを受け入れて生きることが当たり前でいることです」「落語は人を殺さないことです」と答えました。
一部の怪談噺や人情噺といった講釈や浪曲や芝居などから翻案されたもの、三遊亭円朝が創作した噺を除いて、いわゆる「落とし噺・滑稽噺」の登場人物たちは、(本人たちは無意識に)生きることを前提に自分の生を謳歌しているのです。
受けた生を精一杯生きることが前提になっているのです。
だから、落とし噺では、基本的に人は死なない、殺さないのです。
まず生きることが人間の基本中の基本だからです。
与太郎も、愚かしい自分の境遇を決して怨んではいない。
与えられた環境を、談志師匠流に言えば、その「業」を受け入れて前向きに生きています。
そして、当たり前のように明日も生きるつもりで生きています。
そういうベースがあるから、さりげない会話の中から、生きる力が読み取れるのだと思うのです。
人としてとにかく生きなければ、生きてなんぽだと思うのです。
落語は、それを自然に教えてくれています。
予想していたとおり、例の踏切事故の話題は、マスコミがこぞって美談に仕立てています。
人の世のこと、人の道のことですから、これだという正解はないと思いますが、私にはどうしてもこの女性の選択はベストだったとは思えないのです。
勿論、その優しさと正義感を批判するものではありません。
今朝の日本経済新聞の社説「春秋」でも採り上げていました。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO60546520T01C13A0MM8000/
後半に、以下のような部分がありました。
糸井重里さんに「ひとつ やくそく」という詩がある。
 おやより さきに しんでは いかん
 おやより さきに しんでは いかん
 ほかには なんにも いらないけれど
 それだけ ひとつ やくそくだ
子を思う親の真情はいくつになっても変わらない。
目の前で娘を失った父の無念もまた、思わざるを得ない。

批判や否定を言うのではありませんが、一人の他人を救うために、最大の親不孝をしたというのも事実ではないかと、子を持つ親の一人として思います。
 ”身体髪膚これを父母に受くあえて毀傷せざるは孝の始めなり”
そっとしてあげませんか…?

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