酒井抱一
「三味線栗毛」の主人公「酒井雅楽頭(角三郎)」のモデルとも言われている人です。
江戸時代後期を代表する江戸琳派の創始的絵師。
伝統的な大和絵を祖とする雅で装飾性豊かな琳派的表現と、江戸文化独特の叙情性や粋を凝らした瀟洒な美意識、文学趣味などを融合させた独自の様式、所謂≪江戸琳派≫を確立。
現在では俵屋宗達、尾形光琳に続く琳派の代表的な絵師として広く認知されている。
また酒井抱一は後年、≪光琳百回忌≫を営むほど尾形光琳へ強く傾倒し、自身の作品にもそれらが如実に表れているが、抱一自身は狩野派や南蘋派、円山四条派、土佐派など様々な流派を研究している。
名門武家である姫路城主酒井家の次男として1761年(宝暦11)に生まれ、多趣味であった大名茶人の兄・酒井忠以の影響で俳諧や能楽、書画、茶、狂歌、浮世絵など様々な文化に親しみながら(兄の庇護もあり)20代まで奔放な生活を送り文化人としての素養を身に着ける(抱一は生涯で太田南畝・谷文晁・亀田鵬斎・市川団十郎など多くの文化人とも交友を重ねている)。
1790年、兄・忠以の死により独自の道を歩むようになるが上洛や出家、3度の転居など1800年頃まで模索の日々が続く。
1801-04年頃(寛政期半ば)から、かつて酒井家から庇護を受けていた尾形光琳を知り、強く影響を受けながら(後に江戸琳派と呼ばれる)自身の様式を後年~晩年期にかけて会得・確立してゆく。
1809年、雨華庵(金杉村大塚の庵)に移住。没するまでの20年間を同場所で過ごし、生涯中、最も充実した画業(文化的活動)生活を送る。
1815年(文化12)光琳百回忌として遺作展を開催するほか、光琳百図前編を刊行(後編はその10年後に刊行)。
1829年、68歳で死去。
代表作は『夏秋草図屏風』、『月に秋草図屏風』、『十二ヶ月花鳥図』、『四季花鳥図屏風』など。
「浜野矩随」もそうでしたが、実在はしているけれども、講釈や落語などでは、必ずしも史実に沿った内容になっていません。
先週のテレビの「大岡越前」で「三方一両損」を放映していたようですが、あの内容を実写でやるという・・・、訳がわかりません。
落語は、想像する芸ですから、ああいう大工の吉五郎や左官の金太郎がいても、一部虚像の中に納まると思いますが・・・。
時代劇もネタがないんだなと思います。
「ねずみ」や「三井の大黒」の左甚五郎も、実在していたかどうかははっきりしていないそうです。