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2013年2月 2日 (土)

コミュニケーションのこと

pig例の女子柔道の監督の暴力事件。
本人が、今になって事の重大さに気づき、「進退伺い」を出すとか出さないとか・・・。
なぜ、自らの意思ではなく、進退を伺うのかは分かりませんが、辞任(解任)は当然のことだと思います。
最近は、会社などでも、セクハラやパワハラの問題が起こっていますが、今回もこれらと同じ典型的なパターンだと思います。
例えば、この監督「私自身、暴力という観点で手を上げたという認識(つもり)はない。」「選手から話を聞いていたつもりだった。」と、主観で判断をしています。
よく、セクハラなどで咎められると「私はそんなつもりで言ったのではない」というのが、言い訳の常套句です。
後になって「一方的な信頼関係だったと深く反省している」ってったって、もう遅いのです。
・・と、こんな人に限って、本当は反省などしておらず、自分は運が悪かったという程度の認識しかないものです。
仮に、純粋に愛情を持って臨んでも、その相手が理解していなければ、思いを共有していなければ、「余計なお世話・気持ち悪い→セクハラ・パワハラ」になってしまうのです。
要は、相手がどう感じるか、どう判断するかということです。
肯定的に受け止めてくれる人間関係にあるかという点です。
一生懸命だとか、良かれと思ってとか、自分中心、自分の都合で語ってもダメなんです。
良くも悪くも、そういう世の中になったのです。
だから、ここのところは、絶対に独り善がりにならないようにしなくてはいけません。
自分の部下だとか、教え子だからなどという(勝手な・都合のいい)認識は、客観的には何の意味もないのです。
現代社会は、上下・主従という概念はなく、各人が同等(平等)であり、人格・人権を認識して対応するのが、フェアということです。
我々の世代は、職場で上司や先輩から、かなりいい年になってまで、何度も叱られた経験がある人ばかりだと思います。
当時、何度もこっぴどく叱られても、なぜ我々は、素直に言うことが聞けた、従うことが出来たのでしょうか。
当時の人たちが、今の若い人より性格がずっと素直だったからではなく、少なくとも、そこには、今とは異なり、それなりにお互いの信頼関係があったからだと思います。
例えば、師匠から「お前は落語が下手だ」と言われたら、私は、その言葉を素直に受け入れることが出来るでしょう。
この点に関する上下は明らかで、それが前提だから稽古をしていただいているのですから。
一方、もし先輩にそんなことを言われたら、いくら先輩でも「それをあなたに言われたくない」と反発することもあるでしょう。
ポイントは、尊敬や信頼と、情報や問題意識が共有されているか否かなんです。
今は、環境や価値観も大きく変わって、ダイバシティ(多様性)の世の中です。
現代は、古き良き時代の信頼関係を基盤とした、上司が部下を「叱る、怒る」ということが成立しなくなっていると思います。
だから、そういうものなんだと理解した上で、他人と接しないといけない。
ところで、海外の柔道団体から、「(講道館柔道創始者の)嘉納治五郎の精神、哲学とは相容れない」という指摘や、「(我々は)道徳の発展と振興に注力している。柔道は、心身の向上に寄与するためのものだ」とコメントされているようです。
もはや「柔道」ではなく、「JUDO」という、国際的なスポーツにもなっていることを、改めて自覚するべきだと感じました。
とにかく、個人も団体も、あまりにも脇が甘すぎましたね。

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