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2013年1月29日 (火)

落語の”品”

師匠は、日頃から、落語の品性について語られます。

新メンバーの新参(にっさん)さんが、ご自身が学生時代の十八番だった「肥瓶」の稽古を始めましたが、敢えてダメとは仰らなかったものの、基本的には演らせたくない噺のようで、新参さんに次のように仰いました。
よく「エロ」・「グロ」で受けたり、笑わせたりする向きがあるが、落語には"品"がなくてはいけない。
例えば、「勘定板」という噺も「グロ」で気持ちの良いものではない。
落語で「グロ」はいけない。
「エロ」も軽く笑えるものまでだ。
だから、次の噺からは、そのつもりで選んでください。


確かに、聴いていて、気持ちの良いものではないし、私も演りたいとは思いません。
師匠のスタンスは一貫していて、「圓窓五百噺ダイジェスト」の中で、以下の3つの噺のコメントで、同様に触れています。
http://ensou-dakudaku.net/index.html
【おかふぃ】
圓生(6)がよく演っていたが、あたしは演る気はおきなかった。
圓生(6)は、女房の鼻をそがした主がその鼻を旨そうに食べる場面を設けているのだ。
グロであり、変態にも等しい。
あたしに演る気はおこさせなかった原因の一つでもある。
えてして、戦前からの落語家には嗜虐性があったのか、グロテスクを多用しているように思える。
三木助(3)の[ざこ八]にもその傾向が現れていて、皮膚病に罹った女の症状をくどいほど繰り返す場面があるのもいただけない。
【蛙茶番】
落語という話芸はエロはよしとしても、グロは許さないという品位があるはず。
この噺はまさにグロ丸出し。
賞賛すべきものではないが、作としてはよく出来ている。(笑)


【勘定板】
この噺の中で用便を足すとグロになってしまうので、それは避けたいと思っている一人である。
圓生(6)は算盤を跨いで用を足そうとして、着物の裾が算盤に引っかかって動き出す、という演出にしていた。
それでさえも、用便を連想させてしまってグロになる。
また、演者によっては堂々と用を足してしまう演り方もある。
このほうが客に受けるから、という安易な発想である。
品がなくなったら芸ではない
、ということ知らない証拠である。

「品がなくなったら芸ではない」という部分、最近のお笑い全般にも言えることですが、心していただきたいものです。

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