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2012年10月 4日 (木)

東一番丁

car話題になっている仙台の「東一番丁」。
仙台市青葉区の仙台市都心部に位置し、同市を代表する商業地のひとつ。
南から北へ一番町一丁目から四丁目と並んでおり、二丁目から四丁目にはアーケードがある。
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一丁目は東北大学の片平キャンパスに隣接し、かつては学生街ともなっていた。
「一番丁」あるいは「一番町」と表示されますが、どちらが正しいのでしょう?
1970年(昭和45年)2月1日に住居表示導入にともなって町名が「通り」沿いから、通りに囲まれた「ブロックごと」に変更されることになり、東一番丁周辺の商業地ブロックは「一番町」と名付けられた。
これにより、江戸時代の侍町の名残りである「丁」は、町人町を示す「町」に書き換えられ、名実ともに商業の町となった。
現在は、住所の表示や街の名前としては「一番町」、通りの名前としては「東一番丁通り」と、「町」と「丁」とを正式には使い分けされている。

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なるほど、要は、昔は「丁」だったが、新しく「町」になったということですか。
しかも、それが昭和45年だそうですから、
蕪生師匠や頓平師匠が在学されていた頃は「一番丁」で、寝蔵師匠から後ぐらいからは「一番町」なんですねぇぇ。
当然、私の頃は「一番町」になっていました。
ただ、旧地名も残っていて「丁」というのも、さほど違和感はありませんでした。
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東一番丁は江戸時代には中級以下の家臣が住む侍町であった。
武士は商業に携わることが禁じられていたから、当時の東一番丁に商店がおかれることはありえなかった。
寛文年間頃(17世紀中頃)、東一番丁と玉沢横丁(現広瀬通り)との北西角に糠藁の倉があったため、現在の一番町四丁目商店街の辺りは糠倉丁とも呼ばれた。

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1869年1月19日(明治元年12月7日)、戊辰戦争に敗けた奥羽越列藩同盟諸藩に対する処分が行われると、仙台藩も石高を大幅に減らされ、大量の没落士族を生んだ。
そのため、仙台藩の下級藩士たちは、在地で帰農したり、北海道に移住したりした。
さらに、1871年(明治4年)に廃藩置県、1873年(明治6年)に徴兵制、1876年(明治9年)に廃刀令および秩禄処分と、藩士を支える組織・特権・経済基盤が次々と剥奪された。
こうした世情にあって、仙台藩の家臣だった山家豊三郎は、玉沢横丁・東一番丁(現・広瀬通一番町)辺りにあった自邸内に数十戸を建てて「山家横丁」と称し、藩士たちに商売をさせた(士族の商売)。
以後、東一番丁沿いには、芝居小屋、映画館、寄席、喫茶店、芸妓置屋、露店などが立ち並ぶようになり、藩政時代以来の商業中心地だった国分町の裏町、新興の商店街として賑わうようになった。
東一番丁は商業分野における士族授産の場でもあった。

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1887年(明治20年)、東北本線が塩竈まで開通し、仙台駅は東六番丁の西側に置かれ、国分町や東一番丁と仙台駅とをつなぐ大町・新伝馬町・名掛丁も商業地となっていった。また、1887年(明治20年)には、東一番丁の南端に旧制二高(現東北大学片平キャンパス)が出来ると、大正時代にかけて学生街としても発展した。
1926年(大正15年)から2年の内に仙台市電循環線が全線開通し、南町通東一番丁と定禅寺通東一番丁の南と北の各々に電停が設置された。
1927年(昭和2年)には「仙台プール」が仙台初のプールとして開業したが、早々に廃業した。
1932年(昭和7年)、大町・東一番丁の藤崎が呉服屋から百貨店となった。
1933年(昭和8年)には、東一番丁北端近くに仙都ビル(地上5階、地下1階)が完成し、仙台三越が入居した。
これ以降、2つの百貨店を繋ぐ東一番丁が、国分町に取って代わって仙台の商業の中心地となっていった。
・・・やはり、「一番丁」の名前は外せませんね。

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