蒙古の碑
学士会落語会代表委員の「三山亭多楽」師匠から教えていただいた「蒙古の碑」のこと。
http://www.biology.tohoku.ac.jp/garden/remains.htm
仙台市内3ヶ所に現存するそうですが、そのうちの1つが、東北大学川内キャンパスの理学部付属植物園にあるのです。
蒙古の碑は1287年(弘安10年)に陸奥の国司の供養のために建てられたものです。
蒙古軍(元軍)が玄界灘に沈んだ弘安4年と同元号であることから,一般に蒙古兵の供養碑と考えられたようです。
正安(しょうあん)の碑は,1302年(正安4年)に40余人の講衆が,縁者の霊を弔うために建てた供養碑です。
蒙古の碑は砂岩,正安の碑は粘板岩(石巻の稲井石)を取り寄せて造られています。
これらの板碑(いたび)は子供の百日咳を治すのに霊験があると言われ,永く信仰されてきました。
仙台城に取り囲まれる以前のこの地は,霊的な場所であったのかも知れません。
こんなふうに紹介されています。
700年以上前の、しかも仙台から遠く離れた場所の出来事のはずなのですが、色々な事情があって、ここにあるのでしょう。
こんな説明文も見つけました。
東北地方では、子供が夜泣きすると「モウコが来るよ」と言って静めさせる風習がありました。
「モウコ」は、普通、十三世紀に日本を襲った蒙古(元)の軍隊の恐ろしさを伝えたものと説明されています。
そのためでしょうか、各地に蒙古の碑が存在します(仙台市宮城野区燕沢の善応寺境内や宮城県登米町鴇波街道沿いのものなど)。
これらの事実は、江戸時代以来、モウコが蒙古のことだと考えられていたことを示しています。
しかし、もともと、モウコは「モッコ」という言葉が転じたもので、モッコリと丸みを帯びた山を指すものなのです。
今でこそ機械類に取って代わられましたが、かつては土木工事で土を運ぶのに欠かせなかった、網のように編んだ道具がモッコ(畚)で、それに積んだ土の塊に似た形の山も、モッコと呼んだのです。
モッコの山は奥深く、古代から山の神に鎮座ましますところと考えられ、降って江戸時代には山姥などの怪が住むところと考えられていました。
お年寄りはこの山の精に畏敬の念を抱いていたので、孫をあやすのに使ったのです。
暗くて恐ろしい森も、文明の進展とともに減少しました。燕沢善応寺の周囲は住宅が密集し、森がほとんど消滅してしまいましたし、登米町の森も山麓に工場が建ち奥深さを感じなくなり、「蒙古の碑」は荒草の中に没しています。
このような所では、早くに「モッコ」が忘れ去られていったのです。
学生時代、何度か植物園に行っていますから、きっと見てはいるのでしょうが・・・。
もっと勉強しなくてはと・・。