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2012年5月30日 (水)

錦木検校

検校(けんぎょう)とは、中世・近世の盲官の最高位の名称。
元々は平安・鎌倉時代に置かれた寺院や荘園の事務の監督役職名だったが、室町時代以降、盲官の最高位の名称として定着した。
江戸時代になると、国の座をまとめる総検校を最高位として京都に置き、江戸には関東の座の取り締まりをする総録検校を置いた。
検校は、専用の頭巾・衣類・杖などの所有が許された。
盲官(盲人の役職)では、位階順に別当、勾当、座頭があった。

「錦木検校」という噺は、「三味線栗毛」という名前の方が一般的だと思います。
柳家喬太郎さんは、「錦木・・」で演っているようです。
酒井雅楽頭(うたのかみ)と言う大名に3人の子供がいた。
長男は病弱であったが両親から溺愛されていた。
中の女の子に続いて末の角三郎はどうしたものか両親に疎んじられて、下屋敷の大塚に下げられてしまった。
中間の吉兵衛を付け、年に100石という捨て扶持。
忠義者の吉兵衛は若殿に不自由は掛けまいと傘を張ったり、楊枝を削ったりして若殿を助けた。
しかし、角三郎は腹の据わった男で、さして気にも留めず、両国広小路や浅草奥山に出掛け、縄のれをくぐったりして帰り、夜になると書見にふけっていた。

書見が過ぎたのでしょうか、肩が凝ると、ふと漏らすと吉兵衛あわてて座頭を呼んできた。
錦木(にしきぎ)と言う座頭は商売上手で、療治も上手いし、落とし噺も巧かったので贔屓にした。
ある日、療治が終わっても何か言いたそうにしているので、問うと「学者の講義を廊下の隅で聞いていたのですが、骨の組み合わせを解いていた時、『この様な背骨の組み方をした人物は、商人なら分限者に武士なら大名になる骨組み』だと教わった。この様な人に当たる事を楽しみにしていたら、角三郎様がその骨組みである」という。
それが成らなければ学者が嘘つきだとも言う。
「戦国の時代なら、それもあるが、太平の時代には皆無であろう。
その様な事が有れば、そちを検校に取り立ててやる」と約束をした。

錦木が風邪をこじらせ寝込んでしまった。
ちょうどその頃、酒井雅楽頭が隠居し、長男は病弱なため末っ子の角三郎が家督を継ぎ、酒井雅楽頭になった。
病の癒えた錦木は、その話を聞いて、雅楽頭の屋敷に駆けつけると、約束通り検校の位を授かった。

文武両道の酒井雅楽頭は特に馬術に秀でていた。
栗毛の馬を求め「三味線」と言う名を付けた。
でも、どうして三味線と名が付いたか分からないので錦木が聞くと、「酒井雅楽頭で、ウタが乗るから三味線だ。コマ(駒)という縁もある。乗らん時は、引かせる(弾かせる)、止める時はドウ(胴)と言うではないか。錦木」
「良くできたシャレです。ヒョッとして、ご家来衆が乗った時は」
「その時は、バチがあたる」。

こういう出世話というのは、日本人の好むところだと思います。
演ってみたい噺のひとつです。
Photoところで、 十五代酒井雅楽頭忠顕家上屋敷は播磨姫路藩城主当時、千代田区大手町一丁目1~2番にまたがる1万3千余坪の敷地は、大手門の真ん前にあったそうです。
私にとっては、以前勤務していた場所そのもので、親しみを感じます。

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