揺れるとき②
ということで、我々の「千早亭落語会」が、東日本大震災のために中止(延期)となったことが、「揺れるとき」の創作のきっかけになったそうです。
この時の一連の出来事が師匠のプログにアップされています。
http://ensou-rakugo.at.webry.info/201103/article_2.html
http://ensou-rakugo.at.webry.info/201103/article_7.html
http://ensou-rakugo.at.webry.info/201103/article_8.html
http://ensou-rakugo.at.webry.info/201103/article_9.html
http://ensou-rakugo.at.webry.info/201103/article_11.html
http://ensou-rakugo.at.webry.info/201103/article_12.html
http://ensou-rakugo.at.webry.info/201103/article_15.html
師匠のコメントは続きます。
そこで、落語協会から頼まれた圓朝まつり(8月7日)に於ける圓朝に因んだ創作の構想の中に、あたしのこんな了見を挿入できないか、と考えた。
と、いうのは、圓朝が真打になった年の安政2年に安政江戸地震が起きている。
これだ!
しかし、あたしの了見は圓朝には言わせず、フィクションで登場させる圓朝の先輩格の長老に言わせようと、構想をスタートさせた。
(後略)
安政2年10月2日(旧暦・新暦では11月11日)。
相州神奈川宿で一人暮らしをしている盲目の元噺家「三遊亭西生」の家を、7ヶ月前に真打に昇進したばかりの16歳の「三遊亭圓朝」が訪ねて来る。
西生は、6歳の圓朝が「小圓太」で初高座を勤めた日のことも克明に覚えていた。
また、圓朝の父「橘家圓太郎」とも親しく、二人で身延山へお参りをして、鰍沢あたりで道に迷った思い出などを語る。
西生は圓朝が気に入り、二人の会話は酒を酌み交わしながら延々と続き夜になる。
西生の師匠である初代圓生から教わった芸談から、圓朝は、西生に「寿限無」の稽古をつけてもらうことになる。
喜んだ西生が「寿限無」の後半にさしかかる頃、突然大きな地震に襲われる。
これが、安政の大地震である。
ひるんだ圓朝に、西生は微動だにせず「寿限無」を続ける・・・・。
明治32年10月(新暦)。
あれから44年後の日本橋木原店。
功なり名を上げた圓朝も60歳。
前月から体調を崩してはいたものの、トリで「怪談牡丹燈籠」を演じる。
(実は、この日が圓朝の最後の高座になる。)
この寄席の芝居に、毎日通っている60歳前後の婦人がいた。
圓朝が「牡丹燈籠」を語っている途中に、また大きな地震が起きる。
ところが圓朝は微動だにせず噺を続ける。
そして客席でも、慌てて外に逃げ出してしまう客が多い中で、その婦人もまた微動だにせずに噺を聴いている。
寄席がはねた後、この婦人が楽屋に圓朝を訪ねて来る。
婦人は、44年前に圓朝が訪ねて稽古をしてもらった西生の一人娘だと言う。
西生は既に亡くなっていたが、生前、圓朝が訪ねてくれたことを喜び、安政の大地震にも微動だにせず稽古を受けてくれた圓朝のことを褒めていたと。
そして、地震が起こってもびくともしなかった圓朝を、父親の位牌を抱いて聴いていたと。
圓朝は、西生の位牌を立てて、お経を唱えて、西生に語りかける。
・・・こんなストーリーです。
史実とフィクションを合わせた人情噺に仕立てられています。
西生は、圓朝への期待を込めて自らの芸論を伝える。
これこそが、圓窓師匠の噺を演ることの責任だとか、落語への姿勢を語る部分になっているのです。
昨年の圓朝まつりでこの噺を聴いた時、私は、「この噺こそ、我々の千早亭の発表会で演らなくてはいけない」と、勝手に決めました。
それも、東日本大震災が人々の記憶に新しいうちに・・と。
そこで、恐る恐る師匠にお願いしてみました。
すると、師匠は快諾してくださいました。
先日の千早亭の稽古会では、「永久さんが、この噺の継承者だ」と、言ってくださいました。
「揺れるとき」は、そんな経緯のある噺なんです。
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