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2011年12月

2011年12月31日 (土)

卯年の落語徘徊

2011年も暮れて行きます。
    平和な海   
何と言っても「東日本大震災」に尽きる1年でした。
そして、個人的には、今年も落語に囲まれた1年でした。
大河ドラマのように、「総集編」で振り返ってみます。
 ◇ 1月 ~新年会に招かれて初の"ひとり他流試合"
   http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2011/01/post-9a82.html
 ◇ 2月 ~叔父の会で家族に初披露した「ねずみ」
   http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2011/02/post-7725.html
 ◇ 3月 ~「三流亭発表会」と東日本大震災
   http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2011/03/post-54f8.html
 ◇ 4月 ~高座の狭間でちょいと一休み
   http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2011/04/post-68d7.html
 ◇ 5月 ~「千早亭一門会」と「お江戸OB落語会」の高座
   http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2011/05/post-e51b.html
 ◇ 6月 ~前半の高座の反省
   http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2011/06/post-3d76.html
 ◇ 7月 ~南三陸町への「復興出前寄席」で「花色木綿」
   http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2011/07/post-b44d.html
 ◇ 8月 ~「圓朝まつり・奉納落語会」で「揺れるとき」に遭遇
   http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2011/08/post-68d7.html
 ◇ 9月 ~新しい噺へチャレンジの苦悩
   http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2011/09/post-9aac.html
 ◇10月 ~「千早亭一門会」での「救いの腕」
   http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2011/10/post-7065.html
 ◇11月 ~「お江戸あおば亭」での「薮入り」
   http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2011/11/post-9.html
 ◇12月 ~「揺れるとき」へのチャレンジ開始
   http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2011/12/post-376b.html
 
今年人前(発表会など)で演ったものを並べてみました。
 ◇ 1月  親交会新年会     子ほめ・三方一両損
 ◇ 2月  叔父・CD制作記念  ねずみ
 ◇ 3月   落語っ子連発表会   甲府ぃ・三方一両損
 ◇ 5月  扇子っ子連発表会   花色木綿
 ◇ 5月  お江戸OB落語会   佃祭
 ◇ 7月  復興出前寄席     花色木綿
 ◇10月  扇子っ子連発表会   救いの腕
 ◇11月  お江戸あおば亭    薮入り
 ◇12月  聖徳大学        子ほめ・救いの腕
Imgp0853今年は9回・12席・8演目でした。
8演目のうち、私の落語徘徊開始後のネタ下ろしは5演目でした。
そして、今年通った寄席・落語会は【51回】でした。徘徊を始めて3年目の【183回】は、思い出です。
それでも、回数は減ったとはいえ、週1回ペースというのは、まだまだそこそこの頻度だと思っています。
ただ、定期的な落語会「東京落語会」「朝日名人会」「紀伊國屋寄席」「らくだ亭」などのホール落語が中心になり、寄席や個人の落語会にはなかなか行くことが出来ませんでした。   

除夜の雪

桂米朝師匠の十八番。これも大晦日の噺。
一度、立川談春さんが演ったのを聴いたことがあります。Photo_7
うろ覚えのストーリーを思い出してみます。
舞台は大晦日の寺の庫裏で、外は雪が降っています。
この寺の修行僧3人が寺の生活の裏側などのお喋りをしていると、檀家の伏見屋の御寮人さん(おかみさん)が借りていた提灯を返しに来ます。御寮人さんはすぐ帰りますが、この人の噂話になります。
もともとは貧しい家の出だったが、若旦那に見初められて、大家に嫁いで来たのはいいが、姑のいじめに合いつらい日々を送っているそうだという・・・。
そのうちに本堂の鉦が鳴る音が聞こえて来ます。
兄弟子は慌てず、「檀家のひとりが死んだんだろう」と言うのですが、弟弟子が本堂の方を見ると誰もいる気配はありません。
ついでに、あの御寮人さんの足跡がないのに気がつきます。
庫裏の扉を叩く音がするので開けると伏見屋の番頭さん。
聞けば、御寮人さんがいじめに耐えかねて自殺したとのこと。
しかも、どうやら死んだのは提灯を返しにくるはるか前のことのよう。
御寮人さんは、月に一度この寺に来るのが唯一の楽しみだったそうだから、おそらく最後にお礼に来たのだろうということに・・・・。
除夜の鐘の音を聞きながら、「御寮人さんが、『不釣合いな縁は組むものではない』と教えてくれた気がする。」
「何で?」
「あれが釣り鐘、ここに提灯。釣り合わぬは不縁の元。」
雪がしんしんと降る中の情景を、米朝師匠が語るという・・・。
悲しいストーリーで、掛け取りに追われている噺とは違います。

師走の落語徘徊

今月も慌ただしく過ぎて行きます。
12月20日、このプログのアクセス累計が20万件に到達しました。20
スタートして3年です。
自身の落語との関わりを記録しておこうという原点を忘れずに、相変わらず独り善がりな"放言"を続けて行こうと思います。
通った落語会は以下の通り。
 ◇ ( 4日         落語研究会 昭和の名人 参)
 ◇ 10日    特撰落語会
 ◇ 16日    東京落語会
 ◇ 17日    朝日名人会
Imgp0853 ◇ 24日    大手町落語会
 ◇ 30日    紀伊國屋寄席
寄席に行っていないのが気になります。
稽古は、18日に落語っ子連・三流亭「ん組」。
師匠に、「揺れるとき」へのチャレンジをお許しいただきました。
これで、来年前半の高座の演目が決まりました。
 ◇ 2月  番外あおば亭      笠と赤い風車
 ◇ 3月  落語っ子連発表会   薮入り
  ◇ 3月  扇子っ子連発表会   揺れるとき
 ◇ 5月  お江戸あおば亭    お初徳兵衛浮名桟橋
最近取り組んでいる噺は、ややマニアックになっている気がしますので、後半はまたオーソドックスな噺にチャレンジしようと思います。
落語の舞台などを訪ねるための徘徊もしてみました。
10日は、浅草界隈で下町情緒を楽しみました。
隅田川の船の上から見た東京と満月が印象に残りました。
 
23日は、「揺れるとき」のために、三遊亭円朝墓にお参りしました。
ついでに、谷中界隈を散策しました。
 圓朝墓参り
そして、17日には、聖徳大学で今年最後の高座を勤めました。
    ◇  子ほめ       金願亭乱志
    ◇  救いの腕       金願亭乱志
という訳で、師走も落語一色でした。


幕末太陽傳

産経新聞の記者が「幕末太陽傳」を絶賛していました。
◇「幕末太陽傳(でん) デジタル修復版」(テアトル新宿)
日本映画黄金期の昭和32年に公開された川島雄三監督の代表作。川島監督は、45年の短い生涯の間に、51本もの映画を撮ったが、1本をあげろといわれれば、これになる。日本映画史上に残る傑作といっていい。
落語をもとに、幕末の品川宿を舞台にした喜劇だが、物語のおもしろさというよりも、遊びの代金を踏み倒してわざと遊郭に居残った町人、佐平次を演じたフランキー堺の動きに注目してほしい。
美術監督、中村公彦による遊郭のセットを、縦横無尽に走り回る。
そして、着物を羽織る粋な仕草。何とも、格好いい。
「風だ、風だ、こいつを見た奴は誰もいない」と、川島監督は言ったらしいが、フランキーが動くことで、周囲の空気が、ふわりとゆらぐ。
まるで、風が見えるようだ。その空気感を、名手、高村倉太郎(くらたろう)が、カメラにとらえた。
本作は、来年の日活100周年を記念し、デジタル技術で当時の鮮明な映像と音がよみがえった“リマスター版”だが、高村の映像の美しさが、本当によく分かる。
ちょうど上映中なので、ぜひ、映画館で観てほしい。
・・・映画館で観てみたいと思いますが、新年明けてからもやっているかな?

2011年12月30日 (金)

"幻の"プログラム

今年の紀伊國屋寄席の"幻の"プログラムの話をしましょう。

写真のように、12枚のプログラムを並べましたが、上段左から3番目の茶色のプログラムは、3月14日(月)に予定されていた第555回のものです。
このプログラムです。
もうお分かりでしょうが、3日前の3月11日に起こった「東日本大震災」のために、この公演は中止になってしまったんです。
幻の番組は以下のとおりでした。
  ◇ 猿後家         林家彦丸
  ◇ 蔵前駕籠        三遊亭金兵衛
  ◇ 質屋芝居        林家正雀
  ◇ 双蝶々雪の子別れ  林家正雀
・・・そして、10月1日(土)の第562回で、全く同じ番組の口演が行われました。
             
三遊亭圓朝作「双蝶々」の通し口演だったようです。
三遊亭圓朝と地震・・・。
圓朝が真打に昇進した年が、安政の大地震の年でした。
それを描いた圓窓師匠創作の噺が「揺れるとき」です。

今月の公演は、第564回でした。

今年のプログラム

12月の「紀伊國屋寄席」の楽しみは、この1年間のプログラムが手に入ることです。     
      
毎月開催される落語会全てに行った訳ではありませんから、暮れに行けば全て揃えることが出来るのです。
こういう趣向は多の落語会ではありませんから、これは毎年とても楽しみなんです。
確か8月1日は、圓窓師匠がトリの予定でしたが、体調を崩して休演され、金馬師匠が代演されましたが、プログラムは圓窓師匠の「叩き蟹」ままでした。

今年1年間の12種類のプログラムですが、この中に"幻の"プログラムがあります。
これは、次の項で申し上げることにしたいと思います。

紀伊國屋寄席

今年も落語の聴き納めは「紀伊國屋寄席」です。
   ◆ 権助魚    春風亭朝呂久
   ◆ 元犬     入船亭遊一
   ◆ かつぎや   古今亭志ん弥
   ◆ 大工調べ  柳家小さん
   ◆ 福禄寿    柳家さん喬
・・・ということは、今年も私の中のトリはさん喬師匠です。
昨年は、さん喬「鴻池の犬」・小さん「富久」でした。
一昨年は、小さん「死神」・さん喬「妾馬」でした。

さん喬師匠の「福禄寿」は3度目か4度目です。
三遊亭圓朝作の人情噺です。
真冬の商家の離れを舞台に、しっとりとした噺。
今年の落語徘徊の殿に相応しい高座でした。
今年も約50回の寄席・落語会めぐりでした。
随分回数は減りましたが、それなりの噺を聴くことが出来、とても楽しい今年の徘徊の数々でした。

暮れのオフィス街

暮れのビジネス街は人影がほとんどありません。
暮れのオフィス街
写真は、今朝、虎ノ門で外堀通りから霞ヶ関方面を望んだところですが、静かなものです。
そして明日はいよいよ「おおつごもり」です。

仕事納め

仕事納め
電車は休日ダイヤでガラガラですが、私は今日まで仕事です。
家にいても、テレビやラジオは、普段以上に下世話で安直年末年始番組ばかり。
スポーツも、何も元日からやらなくてもいいと思うのですが・・、マスコミが必要以上に煽っています。
毎朝のように行っているカフェも、今朝は客は二人だけ。
昼飯も、行き付けの店はほとんど休みで、ランチの後に行く喫茶店で 、サンドイッチセットを食べる予定です。
今年もいよいよ終わります。

文化部記者のベスト3

産経新聞の文化部の記者が選ぶベスト3というのがありました。
(1) 五街道雲助 「居残り左平治」
               (11月18日 日本橋劇場「月極十番」)
今、一番、落語家らしい落語家かもしれない。
そのゆったりとした高座は、落語を聴くということを、必ず満足させてくれる。リズムとメロディーがとてもいいのだ。
聴いていて心地良いのだ。江戸の風景が常に浮かんでくる。
最近よくいわれる「江戸の風」が吹いている落語家だ。
ただ、残念なのはお客さんが少ないこと。
もっとつめかけてもいい。
ゆったりとして聴けるから、それはそれでいいのかもしれないが。
(2) 柳亭市馬 「富久」 (12月16日 「下丸子落語倶楽部」)
拍手が鳴り止まなかった。
「富久」を演じ終わった市馬が高座を降りて、袖に引き込んでも、まだ鳴り止まない。この夜は、それほど感動的な「富久」だった。
これほどの鳴り止まない拍手は落語会ではしばらく聞いたことがない。誰もがそう思ったのだろう。
市馬は今、江戸を強く感じさせてくれる落語家のひとりだ。
「富久」は、談志師匠の十八番のひとつだった。
市馬は高座の前に、談志師匠との思い出を談志師匠の弟子である立川志らくと語った。それもあったのか、お客さんも、談志師匠をかなり意識していたのかもしれない。
酒をまったく飲まない市馬だが、「富久」の酔った久蔵の様子がおかしい。個人的にも市馬は、ずっと大酒飲みだと思っていたが、そうではなく、下戸だった。コーヒーを飲みながらいつまでも付き合うのだ。
そうした市馬の人柄も出ていた。
(3) 立川志らく 「芝浜」
         (12月23日 よみうりホール「立川志らく独演会」)
「芝浜」は立川談志師匠の「よみうりホール」での毎年年末恒例のネタだった。それを今年は志らくが引き継いだ。
そのプレッシャーはかなりのものだっただろう。
満席の千百席の客席も、期待のほうが大きかったのだろう。
前半は、志らくの色を出して、ギャグ満載の進め方だった。
飲んだくれの亭主とおかみさんのやりとりは、志らくでなければやれない「芝浜」だった。
新しいくすぐりも志らくのオリジナルの部分が多かった。
一転して、後半になりじっくりと聴かせた。いい「芝浜」になった。
最後はいつもはテンポの速い志らくの語り口調も次第に落ち着き、聞きやすい。
今後は、年末には志らくの「芝浜」で、年を越すということになりそうだ。噺を終えて、「師匠に(「芝浜」が)近付くまでどれくらいかかるか」と、高座からお客さんに語りかけた。

・・・・なるほど。
この3つは、私は聴いていませんが、選定したメンバーと演目から、そこそこ眼の肥えた人だと思います。
チャラチャラした人や噺ではないし、偏りもあまりない気がします。

厄払い

昔の暮れの風物詩だったそうです。
厄払いを言い立てて回って、豆とお銭をもらうという風習。
「あーらめでたいなめでたいな、
今晩今宵のご祝儀に、めでたきことにて払おうなら、
まず一夜明ければ元朝の、門(かど)に松竹、注連(しめ)飾り、
床に橙(だいだい)鏡餅、蓬莱山に舞い遊ぶ、
鶴は千年、亀は万年、
東方朔(とうぼうさく)は八千歳、浦島太郎は三千年、
三浦の大助百六ツ、この三長年が集まりて、
酒盛りをいたす折からに、悪魔外道が飛んで出で、
妨げなさんとするところ、この厄払いがかいつかみ、
西の海へと思えども、蓬莱山のことなれば、
須弥山(すみせん)の方へ、さらありさらり」

・・・とりあえず、「厄払い」の口上だけ。
落語「厄払い」は、黒門町の文楽師匠をよく聴きました。
与太郎が二十歳になってもぶらぶらしているので、叔父さんが厄払いの口上を教えた。
自分で稼いだ銭で、おっかさんに小遣いでもやってみろ、泣いて喜ぶからと、早速厄払いに出掛けさせた。
「えー、厄払い」と口ごもっているところへ、「御厄払いましょう、厄落とし」と本職が出てきた。本職に邪魔だと怒られて路地に入ったら、面白そうな厄払いだと呼び止められた。
厄払いの前に銭を催促して、豆をもらっていよい口上を始めた。
「あぁら、目出度いな目出度いな」と始めたのは良いが、後が分からなくなったので、叔父さんが書いてくれた紙を懐から出して読み始めた。
「……鶴は十年」「鶴は千年だろう」
「あそうか点が付いてるから千年だ」
「亀は……読めねえ、おや裏の店と同じ字だ、裏の店は何ていうんだい」「よろずやだ」
「鶴は千年、亀はよろず年」

「つるは千年か、めは万年・・・」・・面白かった。

2011年12月29日 (木)

合従連衡・・・?

昨日、落語芸術協会の納会があったそうです。
こんな新聞記事を見つけました。
落語芸術協会(桂歌丸会長)の納めの会が28日、都内で行われ、あいさつに立った新宿・末広亭の新社長の真山氏が「円楽一門会、落語立川流と一緒になってほしい」と爆弾宣言した。
それを受けて三遊亭小遊三副会長も「重く受け止めたい」と検討する姿勢をみせた。
もともと円楽一門会からは提携したいとの申し入れを受けたが、保留していた。
落語芸術協会を中心とした
3派合体はすんなりとは進みそうにないが、来年以降の落語界の注目テーマとなりそうだ。
「五代目圓楽一門会」も「落語立川流」も、もとは「落語協会」の「三遊亭」と「柳家」の一部で、様々な経緯から分派しているものです。
寄席サイドからすると、落語協会に比べ、落語芸術協会の噺家さんの層が薄いので、興行的には、この3派を合わせればということでもあるのでしょう。

睨み返し

まだまだあります、借金取り撃退の噺。
大晦日。わずかの金しか工面できず、八五郎夫婦が頭を抱えていると表で変な呼び声がする。Photo_4
「借金取りを追い返してあげましょう!」
呼び込んでみると、不動明王のようなものすごい顔をした大男。
「一時、一分の手間で借金取りを追い返します」というので、早速お金を渡して仕事をお願いした。そうとは知らず、八五郎宅に借金取りがやってくる。
「御免…ん!?」
上り框のところに、ものすごい大男が座り込んで煙草を吸っている。
「お…お勘定…」
何を言っても、大男は目を剥いて煙草をふかしているばかり。堪らなくなり、とうとう借金取りは逃げ出してしまった。
その後も、入れ替わり立ち替わり借金取りがやってくるが、みんな男の迫力に根負けして退散。
「凄いですなぁ、実におみごと!」
八五郎が感心していると、何故か男が帰る準備を始めた。
「ちょっと待ってください。まだ手ごわい大物が残っているんです! あと二分だしますからもう少し…」
「そうしたいのですが、これから家へ帰って自分の分をにらみます」
・・・なかなか聴けない噺です。
「掛け取り」は、借金取り(掛け取り)を、自分で撃退しようとします。
ところが、「言訳座頭」と「睨み返し」では、掛け取り撃退を商売にする輩が出て来るのです。
「睨み返し」は「掛け取り」が来ると、何も言わずにただ睨むだけ。
黙ってじっと睨む。
こうされると、掛け取り側は対応に困ってくる。
相手は何を言っても睨まれるだけですから。
仕方がないから諦めて帰るしかない。
ところが、「言訳座頭」では、とにかく言訳の上手な座頭さんが、
いくらか手数料を渡して、掛け取りを会話でごまかしてしまおうという。
そしてどちらも、
何人か終わると、最後は自分の掛け取りの断りに帰って行くのですから、落語国は今日も平和なのです。

柳亭市馬の懐メロ人生50年

柳亭市馬落語協会副会長著「柳亭市馬の懐メロ人生50年」。Photo_2
いよいよ出ちゃいました。
落語の本ではなくて、歌謡曲の本。
それも懐メロ。
東西の落語界でいちばん歌が上手いのは誰? ・・・と聞かれたら、まず顔が浮かぶのが柳亭市馬!  
懐メロを大胆に採り入れた落語でもおなじみの柳家の大看板が、2011年12月で50歳となる節目に、初めての書籍「柳亭市馬の懐メロ人生50年」を上梓。
少年時代の懐メロ歌謡曲との出逢いから、剣道に打ち込んだ十代の日々、そして、市馬の大好きな懐メロへの想いが存分に綴られている。
思い入れの強い、三橋美智也、春日八郎、三波春夫、村田英雄、フランク永井、岡晴夫は、それぞれ市馬が選ぶ十曲を含め、ならではの蘊蓄がたっぷり。
恩師、五代目小さんとの邂逅。古典落語に歌を採り入れた経緯も詳細に披露。
柳亭市馬の、落語家としての姿勢、心情が描かれているのはもちろん、懐メロが大好きな、剣道が大好きな少年の心を胸に抱いたまま、大看板に成長した市馬の、爽やかな素顔が浮かぶ一冊。
ファン待望の初書籍は、市馬の人柄そのままの、あたたかい読み応えです。
【市馬より】落語のなかで歌を唄っていますけど、どんな思いで唄っているのか……、ホントはどんな歌が好きなのか、この本を読んで頂ければと存じます。
【 柳亭市馬の懐メロ人生50年 もくじ 】
第1章 懐メロ歌謡曲との出逢い
第2章 剣道ひとすじの青春 ~ 老人の言うことは聞くものだ!
第3章 三橋美智也 春日八郎
第4章 三波春夫 村田英雄 フランク永井     
第5章 岡 晴夫 ~ 大好きな懐メロ歌手!
あたし的なヒットパレード
   紅組 渡辺はま子 美空ひばり 小唄勝太郎 市丸 美ち奴
       赤坂小梅 音丸 日本橋きみ栄 松山恵子
   白組 東海林太郎 灰田勝彦 ディック・ミネ 小畑 実 
       林 伊佐緒 三船 浩 田端義夫
第6章 落語の道をまっすぐに
第7章 歌と古典落語の出逢い 市馬版『片棒』『掛け取り』誕生へ 
第8章 歌手デビュー! 唄い続けます

12月20日発売 定価1000円(税込)。
数年前に、暮れの市馬さんの歌謡ショー、じゃなくて独演会に行きました。
あの時のゲストが歌謡声帯模写の白山雅一さんでしたが、今年9月にお亡くなりになりました。

2011年12月28日 (水)

言訳座頭

「掛け取り」やら、同じように、暮れの借金取りから逃れようとする人たちが出て来る噺が、落語には多くあります。
「言訳座頭」もその一つです。
貧乏長屋に住む按摩の富の市はとても評判がいい。
「日頃、みなさんのお世話になっていますので」と、頼まれ事は嫌な顔をせず、返って嬉しそうにやり遂げるのである。   
同じ長屋の甚兵衛はこの大晦日、借金だらけで二進も三進もいかなくなり、なけなしの五十文を富の市に手渡して「俺の家に借金取りが来たら、巧く言訳をしてくれねぇか」と頼み込んだ。
引き受けた富の市は「借金取りが来るのを待っているようではいけない。こっちから出向いて言訳をしたほうがいい」と言って、甚兵衛を連れて出かけた。
療治に行ったことのない米屋では最後には「貧乏人から金を取ろうてんなら、さぁ、殺すんなら殺せ!」と居直る。
療治に行っている薪屋では「待ってくれないなんて、こんな悲しいことはない」と大声で泣き出す。
幼馴染の魚屋では「お前さんは江戸っ子で頼まれたら、いやとは言わない男だ。
この甚兵衛さんは親孝行でね。でも貧乏なんだ。
だから、借金は待ってやっておくれよ。
ついでにいくらか小遣いをやっておくれな」と、逆に金を出させる。Photo_5
外へ出ると、除夜の鐘が鳴っている。富の市は「こりゃいけねぇ。急いで帰ろう」と早足に歩き出した。
甚兵衛があわてて「あと、三軒ほどあるんだよ。頼むよ」
富の市は「これから家へ帰って、自分の借金の言訳をしなくちゃならない」

圓窓師匠の「五百噺ダイジェスト」で、師匠は以下のようなコメントをされていました。
大坂から多くの噺を東京へ移入させた、あの名人である三代目の小さんの創作。
ある日、名人圓喬が楽屋で「こんな噺があるよ」と三代目に語ったのが「催促座頭」。Photo_6
昔、座頭の仕事に金貸しもあったので、催促はいつもしていたはず。
「催促座頭」は当然のことが噺になっているので、三代目は「逆に座頭が言訳をして歩いたらどうだろうか」という発想から創作をしたという。
あたしは、三代目が移入だけでなく創作もしていたことを知って嬉しくなった。
楽屋で名人と名人が茶を飲みながら語り合っていたという。
どこの寄席の楽屋だろうか……。
ふとした光景がいい作品を生むことがある。いい逸話である。
「橘家圓喬」と「三代目柳家小さん」という名人同士の会話から出来た噺だなんて・・。
うわぁぁ、夢のような逸話ですね。
・・「借りた金は返さないといけない」ということは分かりながらも、何とか抵抗しようという庶民の本音。
落語国は、庶民主権(主権在庶?)の極めて民主的な国?ですから、どうも借りた側の味方になっていることが多いようです。
私が嫌いな「大工調べ」なんて、その最たるものだと思います。
現代では、その気持ちすら持ち合わせない輩が多く、モラルハザードになっています。
資力は十分あるのに給食費を払わなかったり・・・。

現代落語論

部屋の書架から何気なく取り出しました。
           現代落語論
表紙に、「人間未来を想像することはできても断言することはできないだろうが、落語が能と同じ道をたどりそうなのは、たしかである。」とあります・・。
46年前の1965年12月に出版された「立川談志」師匠弱冠29歳の名著を、改めて読んでみようかと思います。
途中で止めてしまうかもしれませんが・・。

広瀬さんの米團治評

上方落語には詳しくないのですが、米團治さんは同年輩なので、ちょっと気になります。
広瀬さんの評。
東京にも上方にも、いわゆる「二世落語家」は何人もいるが、もちろん落語は世襲制の芸能ではない。
芸人としての出発点において「七光り」は確かにメリットとなるだろうが、当人に才能が無ければ、それはデメリットにもなる。「あの人の倅がこれかい?」と、より厳しい批判の目に晒されるからだ。
稀に見る「名人二代」を実現したのが五代目古今亭志ん生の二人の息子、十代目金原亭馬生と三代目古今亭志ん朝だが、彼らほどの名手にして、「志ん生の倅という呪縛」はあまりに重かったと聞く。
上方落語の桂米團治は「西の人間国宝」桂米朝の実子。
彼は「二世かくあるべし」というお手本のような、魅力溢れる演者だ。
1958年生まれで1978年に父に入門して三代目桂小米朝を名乗り、2008年に五代目米團治を襲名。
「米團治」は米朝の師匠の大名跡だ。襲名するプレッシャーは、ある意味「米朝」を継ぐより大きいかもしれない。
だが米團治には「人間国宝の息子」「大名跡の襲名」という二重のプレッシャーをものともしない、「天然」ともいうべき明るさがある。
それは、米朝一門の「若旦那」として伸び伸びと育った彼ならではのものだ。
米團治の魅力は、その屈託の無い「若旦那らしさ」にこそある。
彼は小米朝の頃から、「自分が米朝の息子であること」を積極的にネタにしてきた。
彼が父の会話を再現すると表情や口調が米朝そっくりで「やっぱり血は争えない」とファンは嬉しくなる。
ダメな二世落語家が親をネタにすると、イヤらしくてとても聞いてられないという気になるものだが、米團治の「米朝ネタ」は心の底から楽しめる。
それはちょうど、柳家花緑が祖父である「東の人間国宝」五代目柳家小さんを引き合いに出しても嫌味が無いのと似ている。
小さん一門の「お坊ちゃん」として育った花緑の高座から感じる「素直な人柄の魅力」が、米團治の高座にもある。
米團治の「米朝ネタ」は彼にしか出来ない、最高のファンサービスなのだ。                               ※週刊ポスト2012年1月1・6日号
私は、花緑さんが、祖父の小さん師匠のことを言うのよりも、米團治さんが父親の米朝師匠のことを言う方が、とても自然で好感を持って聴いています。
あの明るさがいいですね。
コテコテでないのがいいですよ。

尻餅

暮れや大晦日を扱った落語のひとつ。Photo
八五郎の家では、大晦日だというのに夫婦喧嘩をしている。
隣近所では餅つきの音もにぎやかに、正月の支度を整えているのに、八の家では貧乏所帯ゆえにその準備ができないのだ。
「長屋の手前、餅つきの音だけでも聞かせてほしいんだよ」
「って言われてもなぁ…。ん?」
自棄になった八公の頭に、とんでもないアイディアがひらめいた。
「何とかしてやろうじゃないの。その代わり…何をやっても文句を言うなよ…?」
いよいよ夜がやってきた。八公は子供が寝たのを見計らい、そっと外に出て、聞こえよがしに大声で…。
「ォホン。『餅屋でございます。八五郎さんのお宅はここですな』」
芝居の効果音よろしく、餅屋が来たところから餅をつく場面にいたるまで、あらゆる場面を【音】だけで再現しようというのだ。
「家に上がってこの屋の主だ。『オー、餅屋さん、ご苦労様』。餅屋に戻って『ご祝儀ですか。えー、親方、毎度ありがとうございます』」
子供にお世辞を言ったりする場面まで、一人二役で大奮闘。
「餅屋になって『そろそろお餅をつきます・・』おっかあ、臼を出せ」
「そんなもの無いわよ」
「お前のお尻だよ。お尻を出せ!」
かみさんのお尻を引っぱたけば、ペタペタ音がして餅をついている様に聞こえる…それが八五郎のアイディアなのだ。Photo_2
「餅屋になって、『臼をここへ据えて…始めます』…白いお尻だな」
「何を言ってるんだい!?」
いやがるかみさんに着物をまくらせ、手に水をつけて尻をペッタン、ペッタン…。
「コラショ、ヨイショ…そらヨイヨイヨイ! アラヨ、コラヨ…」
そのうち、かみさんの尻は真っ赤になった。
「『そろそろつき上がりですね。じゃあ、こっちに空けますね』…餅を代えたつもり、と。次は二うす目だ」
たまりかねた女房が、「餠屋さん、あと幾臼あるの?」
「『へぇ。後、ふた臼位でしょうか』」
「おまえさん、餠屋さんに頼んで、あとの二臼はおこわにしてもらっとくれよ」・・・・。
Photo_3
初めて聴いた時、面白い噺だと思いました。
こういう夫婦が、それでも世を渡って行くことが出来るというのが、落語国の素晴らしいところだと思います。
まだ日本中が貧しかった頃なんですね。
圓窓師匠の朝日名人会シリーズのCDに「尻餅」が収録されています。 

2011年12月27日 (火)

年賀状

年賀状
年賀状を投函しました。
昨年は、確か30日に投函したので、元旦に配達されなかった先も多かったようですから、今年は早めにと思いながら、結局今朝になりました。
何とか間に合うでしょう。
それにしても、市販の安いソフトを買ってきて、一晩で図柄を決め、宛名と表裏を印刷して、さすがに1枚1枚にはコメントを添えて・・。
我ながら鮮やかと言うか、いい加減と言うか・・。
でも、今後は、出状する先を減らさないといけないなと思います。
例えば、前にいつも投函するポストが設置されているマンションに住んでいる友人にも、一旦郵便局に行ってから、またここに配達されているんです。

人間ドック

突然の話題ですが、私が人間ドックで一番しんどいのは、「バリウム検査」です。
あの恐怖の"逆さ吊り"です。Photo_10
撮影のために、身体や台(ベッド?)を動かしますが、頭のほうを下にしなければならない時があります。
この時は、両脇の棒だけが頼りで、必死で震えながら、汗だくで棒を握りしめて、逆さまに落ちないように我慢するのですが・・。
とにかくデブには辛い。
いつも何とかずり落ちる寸前で、台が水平に戻って事なきを得ていますが、次回は駄目かもしれません。
先日ある知人が、検査の途中で機械が動かなくなったそうです。Photo_11
不幸にも、バリウムと発泡剤をたっぷり飲んで、この台の上をのたうちまわっている最中だったようです。
その機械の上で暫く待たされたものの、結局動かず終いで、別の機械(台)に移されて、さすがに、二杯目のバリウムは一口だけ、発泡剤は丁重にお断りして、再び台の上をのたうちまわったそうです。
機械にも寿命がありますから、きっとその日がちょうどその機械の寿命だったんですね。
それにしても、"逆さ吊り"になっている時でなくて良かった。
検査の結果が悪かったら、あの機械のせいにしてやるそうですが。
それにしても、健康管理のためのバリウム検査ですから、のたうちまわるのも、"背"に"腹"は代えられませんね。

芝浜・・・

誰でも知っていると言っても過言ではない、落語の中の落語とでも言えるかもしれない「芝浜」。Photo
腕は良いが酒に溺れ、まったく仕事をしない魚屋の亭主。そんな亭主に業を煮やした女房が早朝、無理やり叩き起こし、芝の魚河岸に魚の仕入れに向かわせる。
渋々、出かけてみたが、時間が早すぎたので魚河岸(の市場)はまだ開いていない。
「女房のやろう、時間を間違えやがったな」と文句を言いながらも、久々に早起きして見る明け方の浜の美しさに感動する。
魚河岸が開くまでと、亭主が浜辺で一服していると、浜辺に流れ着いた汚い革財布を見つける。
財布を拾い上げて中身を確かめると、小粒金で50両も入っている。
慌てて長屋に帰り、女房に財布を見せつけ、「もう、これで当分遊んで暮らせる」と仲間を呼び出し、浴びるほど酒を飲み、またまた寝入ってしまう。
翌日、二日酔いで起きた亭主に女房が「昨晩の酒代の支払いはどうすんだい!?」とカンカンに怒っている。
亭主は拾った財布の金で賄えと言うが、女房はそんなものは知らないし、見たこともないと呆れ顔。「そんなことはない!」と女房を問いただし、家中を探すが財布は出てこない。
茫然自失しながら「あれは夢だったのか」と財布の金を諦める。そして、今までの行いを悔い改め、女房に酒を断ち、仕事に精を出すことを誓う。
もともと腕の確かな魚屋だったので、懸命に働き出せば、得意先も戻り、以前にも増して客も増えていく。無心に働いた結果、3年後には棒手振りから一軒の魚屋を構えることができるようになった。
その年の大晦日の晩、今年の仕事をすべて終え、風呂から帰ってきた後、女房と二人でしみじみと今までの苦労を語り合う。
急に女房は真顔になり「お前さんに隠し事がある」と切り出す。
亭主はどうせヘソクリかなんかのことだろうと思い、なかなか笑って取り合わない。
すると女房は汚い革の財布を出し、中身を広げる。
小粒金で50両もある。
最初はこの大金に皆目見当もつかなかった亭主だが、3年前のことを思い出し、芝の浜で拾った財布が夢でなく本当だったことに気づく。
そして、今までそのことを隠していた女房に怒りが湧き上がる。
ここで女房は嘘のわけを涙ながらに説明する。
あの3年前、拾った金とはいえ自分達の懐に入れていいものかどうか悩んだ挙句、亭主が酔っ払って寝てる隙に大家に相談に行った。
大家いわく、横領したことがもし、お上(役人)の耳にでも入れば、死罪になりかねない。
亭主を助けると思って財布を役所に届け、「財布を拾った夢でも見たんだろう」と白を切れと。
そして月日がたち、落とし主が現れなかったので、役所から拾った財布がそのまま戻ってきたのだと。
しかし、財布が戻ってきたとはいえ、せっかく酒を断ち仕事に打ち込んでいる亭主に、戻ってきた大金を見せると、また仕事をしなくなり酒に浸ってしまうんではないかと心配で、怖くて言い出せなかったと、涙ながらに詫びる。
この事実を知り、亭主は怒りを納め、嘘をついていたとはいえ、自分を立ち直らせてくれた妻に感謝の意を述べる。
妻は3年間一心不乱に仕事に打ち込んできた亭主を労い「久し振りに一杯どう?」と酒を勧める。
はじめは拒んでいたが「もう、あんたは大丈夫」としきりに勧められると、嬉しそうに杯を受け取り「一杯、頂くとするか」と口先にまで酒が注がれた杯を運ぶ。
亭主は急に思い立ったように、杯を置く。
妻「おまいさん、どうしたの? 」
亭主「よそう。また夢になるといけねぇ」
1
「落語の中の落語」と言いましたが、実は、三代目三木助師匠が今の形に作り上げる前までは、くすんだつまらない噺だったそうです。
それを、三木助師匠が名作と言われるまでの人情噺にしたのです。
先日の「大手町落語会」のトリで「芝浜」を演った柳家権太楼師匠は、「三木助師匠と安藤鶴夫の合作で、当時の世相にも合わせた成功譚(出世噺)だった。ところが、現代では、おかみさんとの間の夫婦愛や家族愛を描いている。」と言っていました。
その言葉どおり、三木助師匠の「芝浜」の魅力は、絵画のように情景を写し出す描写力だと言われます。
桂三木助師匠は「落語とは何か」と問われて、「落語とは絵だ」と答えているそうです。
魚屋が魚河岸にやってきた場面で、夜が明けて朝日に照らされた真白い浜、静かに揺れる穏やかな波、周囲に建物も何も無い美しい芝浜を聴き手に「見せる」ことがこの噺の真髄のひとつであり、醍醐味だということです。
また、冒頭に「あけぼのや しら魚しろきこと一寸」という、松尾芭蕉の句を入れるなど、文芸的(というかキザ)な演出をしています。
そして、実力がありながら仕事に身を入れず、酒でいったん身を持ち崩した男が、一念発起し仕事に身を入れて見事に立ち直る、というサクセスストーリーとなっているところが、博打の世界にいた桂三木助という噺家の実像とオーバーラップするところから、それを知れば知るほど、この噺が感動的になったという訳でしょう。
三木助師匠は、これで、1954年の文部省芸術祭奨励賞を受賞し、昭和の名人と言われるのです。
一方で、金原亭馬生師匠や古今亭志ん朝師匠などの古今亭では、芝浜の情景描写の場面はなく、むしろおかみさんとのやりとりに力を入れています。
権太楼師匠は、「芝浜」を我が圓窓師匠から教わったそうです。
圓窓師匠は、馬生師匠からのものだそうですから、三木助師匠のような、芝の浜の情景を語る部分は出て来ません。
そして、「実は大金を拾ったのは現実だった。あたしが嘘をついた」と、最後に衝撃の告白をするおかみさんををどの様な人物として描くかが重要になります。
今までの多くは、基本的に三木助師匠のを引き継いで、自堕落な夫を見事に更生させる、立派な妻として描かれる場合が殆んどでした。
それを聴き手は「実に偉い妻だ」「これこそ文句無しに素晴らしい夫婦愛だ」と賞賛し、涙を流していた訳です。
しかし、この演出法に対しては、「わざわざ更生させる為に嘘をついてやったのだ、と言わんばかりで、その偉ぶり具合が鼻につく」として嫌う意見もあるそうです。
これと一線を画すのが、先日亡くなった立川談志師匠で、告白の時に「騙して申し訳無い」と心から謝罪して涙を流す、偉ぶらない妻として演じています。
談志師匠らしいアンチテーゼで、これが例の神が降りて来たと称賛されるのです。
当の権太楼師匠は一時期、夫が激怒のあまり釈明を終えた妻を容赦なく殴打するという演出を行ったこともあるそうです。
今はさすがにそこまではやっていませんでしたが、夫婦の心理を細かく描くやり方が、最近の主流になりつつあるようです。
これも、「絆」ということでしょうか・・・。

暮れの郵便局で

郵便局に封書を投函に行きました。
定形外なので、郵便料金が分かりませんから。
暮れの郵便局で混雑しているかと思いましたが、午前中だったので、そこそこでした。
カード発券機でカードを引いて待つこと数分。
「103番の番号札の方、窓口へどうぞ」という機械からの声。
窓口には、「研修生」という名札も初々しい女性の担当者。
・・・件の研修生、私が差し出した封筒を受け取り、カウンターの上の量りに乗せたまでは良かったのですが・・・、そのままじっと固まって悩んでいるようです。
「あれ?何か不都合なことでもあるのかな?」と思っていると、
「100円です。」
・・・素人の私が見て、どう考えても100円じゃ料金は足りないと思いましたから、「えっ?100円ですか?」と確認しました。
すると彼女、また暫く固まった後で、「あの、少々お待ちください」と
封筒を持って、窓口から奥の方へ・・・。
何気なく目で後を追ってみましたが、特に誰かに尋ねる風もなく、
そのまま戻って来て、「えぇと、すみません。200円です。」
物凄く心配でしたが、私が200円を払うと、お金を受け取ったままで、また動かなくなってしまう・・。
いつもなら、領収書(ジャーナル)など受け取らずに帰るのですが、「料金不足」で返って来そうな恐怖を感じました。
ちょっと待っていると、やっと領収書を渡してくれたので、「それじゃあ、よろしくお願いしますよ」・・・と言って帰りましたが・・・。
・・・あの封書、大丈夫かなぁぁ・・。
そういえば、今朝もいつものカフェで、いつものブラックコーヒーを注文したら、最近入ったばかりのアルバイトの子が大きな声で、
「お客さま、砂糖とミルクはひとつでよろしいですか?」・・・。
でも、「砂糖とミルクはひとつで大丈夫だったですか?」と言われなかったことが、唯一の救いでした。

2011年12月26日 (月)

時そば

確かに楽しければいい。面白ければいい。Photo_2
以前、「それぞれの時そば」という企画の落語会があって、記憶は定かではありませんが、確か柳家喬太郎・春風亭昇太・柳亭市馬の3人(だったと思います)が、みんな「時そば」演ったんです。
爆笑でした。特に前の二人のは・・・。
・・が、後には何も残らなかった。
一方、市馬さんのは太くて(麺ではありません)、どっしりしていて、前が前だっただけに、「これこそが時そばだ」と思いました。
「時そば」という色物、「時そば」が膝返しの「時そば」が良かった。
昨日のTBSラジオの談志師匠追悼番組で、志の輔さんが、二つ目になって自分の芸がお客さんにそこそこ受入れられるようになったと感じていた頃、ある落語会で無難に終えて高座を下りた時に、談志師匠から「お前はこの噺で何が言いたいんだ」と問われたことがあり、その後の噺家生活に大きな影響を与えられたと仰っていました。1_2
二八蕎麦屋がイスラム人とのハーフで、蕎麦が嫌い。
(宗教上の理由か?)酒は飲んではいけないので、甘い物が好き。
中でも好きなのがココナッツミルク?
蕎麦は十六文だと設定している時代に、ハーフだとかココナッツミルクという言葉がありますか?
「いち・にぃ・さん・・・・はち・お前さんの好物は?」
「ココナッツ・・」
「・・じゅう・じゅういち・・・・」・・。
これが時刻を聞く「時そば」ですか?
2晩目の蕎麦屋でも同様。
店の名前が、「ベートーベン」・・・。
釘抜きのような箸や鋸のような丼、竹輪麩を鉋で削って、まるで大工・・・第九・・ベートーベンって・・・。
Photo_3
その丼もペルシャ製だったり、つゆの味が酷くてのたうちまわって、思わず手をついた壁があったり・・・?
「いち・にぃ・さん・・・・はち・お前さんの好物は?」
「蜜・・」
「・・しぃ・ごぅ・ろく・・・・」・・。
これが「時そば」ですか?
時を尋ねる訳ではないのですから、真面目な話、もはやこの噺は「時そば」ではありませんね。
「そば代」とか、「イスラムそば」とか「第九そば」という名前にしたら。
それだけに、今朝の志ん駒師匠の正調「時そば」は、大変結構な口直しでした。

寄席と演芸場

寄席と演芸場の違いについて・・・。
東京かわら版での、内海桂子師匠とあした順子師匠の対談で、落語中心なのが寄席で、演芸場は、漫才やコント・マジックなど様々なものが登場するという訳です。
・・なるほど。

東京かわら版

東京かわら版の新年号。

新春スペシャル対談が、内海桂子とあした順子のお二人とは・・・。
新年号早々から、ば・・じゃなくて、ばかに元気なお二人。
そういえば、「あしたひろし」師匠は・・。
「談志が死んだ」なんていうのもあり。

2011年12月25日 (日)

暮れの

自宅の最寄り駅前のぺデストリアンデッキに年末に飾られるコアラの人形。
暮れの 暮れの
その夜と昼の姿。
本人、じゃなくて本コアラは、夜も昼も同じなのですが・・・。
遅ればせながら、東口のテントの郵便局の出店で年賀はがきを買うと、福引券をもらったので、近くの抽選場でチャレンジし、ポケットティッシュをゲット!
(要はハズレ・・。)
平和な暮れの夜と昼・・。

落語はやおき亭

先週はしくじりましたが、今朝は頑張りました。
   ◇ 時そば       古今亭志ん駒
Photo_3偶然ですが、この噺も、昨日の「大手町落語会」で、瀧川鯉昇師匠がやりました。
寄席演芸も、あの「水戸黄門」と同様に、究極のマンネリを楽しむ部分もあるのですが、中でもこの「時そば」は、最右翼ではないかと思います。
鯉昇師匠は、「時そば」と言いながら、お金の勘定を「何時だい?」ではなくて、「お好みの甘味は?」ですから、もはや「時そば」ではありません。
「そば代」とでも言ってやってもらいたいと思いました。
ましてや、イスラム人とのハーフの蕎麦屋なんて・・・。
面白けりゃあ良いってもんじゃない。
・・噺が脱線しました。
よいしょの志ん駒師匠。
最近は寄席で聴いても、志ん生師匠の思い出や、かつて所属していた自衛隊の手旗信号ばかりですが、声といい、リズムといい、古今亭の芸風たっぷりの噺家さんです。
学生時代にラジオで聴いた、真打昇進直後の志ん駒師匠の「幇間腹」が印象に残っています。
さて「時そば」ですよ。
普通のというか、これぞというか、「時そば」でした。
蕎麦をたぐる音は、ズーッという感じで、ズズーッとかズズズーッではありませんでした。

落語ファン倶楽部 Vol.15

「大手町落語会」のロビーで販売していたのを買いました。
先日、前号(新作落語集団SWAの特集なので買いませんでした)が出たばかりだったので、新刊が出たのは知りませんでした。
      
「柳家のすべて」・・・・。
最近の落語界は、「柳派」の天下です。
あの「立川流」も、家元は柳家小さん師匠門下ですから・・・。
流派などは関係はないのですが、「三遊亭」がちょっと霞んで思えるのが残念なんです。
僭越ですが、私は圓窓師匠に師事していますから、「三遊亭」の傘の下です。
昨夜の立川談志師匠の追悼番組でも、「五代目圓楽師匠が、ライバルの談志師匠とご自身を比べて、談志師匠は優秀な弟子を多く育てたが、自分は・・・」と仰っていたという話題も話されていましたが、否定は出来ません。
「大手町落語会」のロビーで販売していた髭の男性が強調していたのが、権太楼師匠とさん喬師匠の対談と、付録の柳亭市馬師匠の「大工調べ」のCDでした。
      
一門の中で、ライバルがいる。
ベテランから若手までが揃っている。
柳家の天下は暫く続くことでしょう。
柳家小三治・柳家さん喬・柳家権太楼・入船亭扇遊・柳亭市馬・柳家喬太郎・入船亭扇辰・柳家花緑・柳家三三・・・・立川志の輔・立川談春・立川志らく・立川談笑・・・。

落語DEデート

久しぶりにしっかり聴くことが出来ました。
   ◇ 掛け取り      五代目春風亭柳朝
昨日の「大手町落語会」では「柳家さん喬」師匠で聴きましたが、30分を超えていますが、柳朝師匠のは13分。
狂歌と芝居と喧嘩だけ。
さん喬師匠は、芝居・義太夫・喧嘩・・・萬歳まで。
何かこう・・・、懐かしさと同時に、今の噺家さんでは「三遊亭小遊三」師匠がちょっと語り口調が似ているかなぁ。
勿論快くスピーディなところも似ている気がします。
唸らせる芸風ではありませんが、いかにも落語という雰囲気を醸し出す師匠でした。
現役時代に「花色木綿」をやった時、柳朝師匠の「まぬけ泥」の小噺を参考にさせていただいたのを思い出します。
足の早い人が泥棒を追いかける、観音様のお賽銭と仁王様、鯉が高い料理屋・・・。
あの軽さ、あのスピードには舌を巻きました。
あの彦六の林家正蔵師匠のお弟子さんなんですが、師匠とは全く違う芸風でした。

待ってました!

吉川潮著「待ってました!―花形落語家、たっぷり語る―」。
Photo_4 小物と素人がのさばる当節、本物の話に耳を傾けたい。
師曰く、「会場を選ぶな。自分の演るところが神殿だ」
「何を語るかでなく、誰が語るかだ。落語家の存在自体がネタである」。
芸と人間の磨き方、災難も笑い話にしてしまう精神力と話術。
ビジネス書より学べて、ためになる。
小朝、志の輔、談春、志らく、鶴瓶、昇太、円丈、あやめ、歌之介、三枝――花形10人が明かす、とっておきの話。

吉川さんは、談志師匠と親しい方だったという認識です。
個人的には、表題の大きさに比べると、登場する噺家さんとのギャップを感じたり、偏りもある気がするのは、交遊の範囲だからなのでしょうか?
新潮社刊・1680円。

2011年12月24日 (土)

談志の遺言2011

TBSラジオ立川談志師匠追悼番組「談志の遺言2011」。
1936年生まれ。
1952年、16歳で五代目小さんに入門した談志さんの落語家人生を、TBSラジオの秘蔵音源と共に振り返る。
司会は談志さんと親交の深かった山中秀樹。
一門の志の輔、志らくのコメントも交えながらお届けする。
ちょうど帰宅したら、追悼番組が始まるところでした。
  ◇ 源平盛衰記     立川談志
この「源平・・・・」は、32歳の時のTBS番組の録音だそうです。
稽古を何度も何度も繰り返していたのでしょう。
流暢な語り口で、時事ネタも入れて、やはり上手いと思います。
弟子の志らくさんの話では、若い小ゑん時代に最初に認められたのが「蜘蛛駕籠」だったそうで、結局最後の高座になったのも、声を失う時に一人で演っていたのも「蜘蛛駕籠」だったそうです。
  ◇ 黄金餅        立川談志
「黄金餅」の聴かせ場である下谷~麻布の道中付けもお見事。
ところで、談志師匠は、ご自身では創作(新作)落語は作らなかったんですね。

大手町落語会

クリスマスイブでも落語を聴く。
   
当日券はないという、全て前売りで売切れということです。
 ◆ 元犬         桂宮治
 ◆ ぜんざい公社    昔昔亭桃太郎
 ◆ 掛取萬歳      柳家さん喬
 ◆ 時そば        瀧川鯉昇
 ◆ 芝浜         柳家権太楼
いつだったか、この宮治さんのことを辛口に言った記憶があります。
前座さんの割に、ちょっとすれている感じがしたのですが、妻子があるそうですから、それも一因でしょう。
来春二つ目になるそうですが・・・。
今日の高座も、そこそこ受けてはいたようですが、何かこう・・・、マクラで「ボク」って言ってたし。
桃太郎・さん喬・鯉昇・権太楼という、両協会の売れっ子揃い踏みでした。
やはり、しっかりした落語が聴きたい私は、ハーフだとかイスラムなんていうくすぐりを入れた時そばは、冗談でならまだしも、落語で聴きたくありません。
権太楼師匠は、「芝浜をやるぞ」という雰囲気で高座に上がり、やはり「芝浜」でした。
うぅぅ~ん・・・、どうなんだろう・・・。

三遊亭円朝はわれらの同郷人

谷中の「木楽庵」で見つけた小冊子。
       
全生庵の圓朝墓にお参りした後だったので、すぐに手に取り、買ってしまいました。
谷根千工房刊のシリーズものの1冊のようです。630円。
「揺れるとき」を演らせていただく上で、色々参考にさせてもらうことが出来そうです。
「木楽庵」のご主人との会話。
「実は、素人で落語を演っていまして、今、全生庵で圓朝のお墓にお参りして来たんです。」
「へぇ、ありがとうございます。師匠はどなたですか?」
「三遊亭圓窓師匠です。」
「あぁ、そうですか。圓窓師匠ですか。直系ですね。」
「今度、師匠が作った圓朝が出て来る噺を、私が演らせていただくことになったので、お墓にお参りをしようと・・・。」
「そうですか。私は、昔仕事の関係で、稲荷町の師匠(八代目林家正蔵)の家に何度かお邪魔したことがありますが、師匠が淹れてくれるコーヒーが美味しかったですよ。」・・・。

落語協会公式ツイッター

落語協会が公式ツイッターを始めました。
http://twitter.com/rakugokyokai
個人的には、何となく慌ただしいのと、それぞれが中身がなさそうな気がしてやっていないのですが、情報を早く入手するには良いかもしれません。
ツイッターでは落語協会ホームページの更新情報やインターネット落語会のお知らせ、寄席の初日には
番組のご案内など、落語協会の芸人や興行に関する情報をご案内しております。
ユーザーの方は是非フォローしてみてください!
・・・だそうです。

吉朝庵

上方落語の「桂吉朝」さんを偲ぶ本。Photo_3
桂米朝の後継者と目されつつ惜しまれながら50年の生涯をとじた桂吉朝のCD付き回想録。
七回忌を迎えるこの機会に一人息子・上田康介による父の回想を軸に、米朝師匠をはじめとする一門、交流のあった東西の落語家、下座囃子、狂言・文楽などの古典芸能界、小劇場の友人、放送作家など、同時代を生きともに戦いともに遊んだ人たちの言葉を集めて落語家・桂吉朝の芸と人柄を浮かび上がらせる。
CDには「くっしゃみ講釈」「深山隠れ」を収録。

実は、上方の噺家さんはあまり知りませんので、亡くなったニュースを聞いて、あぁそんな有望な噺家さんがいたんだと思いました。
日、落語シネマ「落語研究会 昭和の名人 参」で、「不動坊」を聴きましたが、良い意味で、上方のコテコテがないのは、私も受け入れられると思いました。
50歳で亡くなったんですね。
淡交社 刊行:「吉朝庵: 桂吉朝夢ばなし」。
上田 康介小佐田 定雄2625円。

2011年12月23日 (金)

谷中散歩

風が強くて寒かったのですが、日暮里駅で降りて、谷中界隈を散策することにしました。
目的は全生庵です。Photo_2
夕焼けだんだんから谷中銀座を通ります。
まだ10時半過ぎですから、開店していない店もあり、人出も多くありません。
とにかく寒い。
谷中銀座からよみせ通りに抜け、途中「岡倉天心記念公園」に入り、三崎坂へ。1
「全生庵」に立ち寄った後、谷中墓地の入口あたりまで歩いた所で、江戸指物「木楽庵」という店に入ってみました。
「指物(さしもの)」というのは、釘などを使わずに板を組み合わせて作った、ふたや引き出しのある箱物類のことをいいますが、「江戸指物」は、武家や町人・商人が用いるものが多く、材料は桑や欅や桐、黄檗(きはだ)などが使われ、素材の木目を活かした個性的で美しいものが多いことが特徴なんだそうです。
Photo一番印象的だったのは、この手許箪笥。
戸田敏夫さんという方の作だそうで、材料は黄檗(前桑)で拭漆(ふきうるし)仕上げ。
輝くような黄金色や木目の美しさ、奥深い重厚感は、黄檗や桑の素材と拭漆仕上げという技法だということで、まあ素晴らしいこと。
勿論"お値段"も素晴らしいこと。
店内で、面白い本を見つけました。
人気のある谷中・根津・千駄木(谷根千)関連のグッズも置いてあり、「三遊亭円朝はわれらの同郷人」という小冊子がありました。
     
http://www.e-higurashi.com/data/0303/0303_001/0303_001.html
・・・この店で、冷えた身体を温めさせていただいてから、墓地に入り、高橋お伝の墓、五重塔跡、天王寺を横目に、日暮里駅に戻りました。

圓朝墓参り

北風が吹く寒い日でしたが、谷中「全生庵」に行きました。
勿論、三遊亭圓朝のお墓参りです。
 圓朝墓参り 圓朝墓参り
圓窓師匠創作の「揺れるとき」を演らせていただくことになったので、この噺の主人公である三遊亭圓朝のお墓に、早めにお参りしておこうと思っていました。
     圓朝墓参り
もう何度も墓前で手を合わせていますが、今回は今までと違います。
「どうか、噺が上手く出来ますように、お見守りください。」と、祈願して来ました。

「大盛無料」キャンペーン?

最近よく、「大盛は無料です」を掲げる飲食店を見かけます。Photo_3
どうも釈然としないんです。
この表現だと、「大盛を注文すると(その料理全部が)タダになります。」という意味ではありませんか?
ところがというか勿論というか、お店の意図するところは、「通常"大盛"は、"普通盛"より料金が高いですが、サービスで"大盛"にした(量を増やした)部分の料金はいただきません。普通盛と同じ値段です。」ということです。
Photo_4でも、大盛というのは、全体を見て多く盛ってあるから大盛と言うのであって、多く盛った部分を大盛とは言わないと思いますから、「大盛無料」というのは、全体が無料になるという意味に取るのが正しいと思います。
皆さんはどう思いますか?
「大盛部分無料」が正しいはずだと思います。
どうも、そう考えると夜も眠れなくなりますよ・・・。
この間、よく行くあるお店でそう言ったら、とっても冷たぁぁぁい笑いを浴びせられました。

「昭和の名人完結編」(23)

今回の配本は3人の師匠です。Photo_5
 ◇ 尻餅       桂小文治
 ◇ 宿替え      三遊亭百生
 ◇ 貝野村      桂小南
小南師匠以外の二人の師匠は、ほとんど知りません。
小南師匠には、落研3年生の時に、仙台に来ていただきましたから、強く印象に残っています。
笑顔の絶えない、優しい師匠でした。

「明烏」と「野ざらし」

三流亭窓口さんが「明烏」と「野ざらし」にチャレンジしています。
いずれも、非常にポピュラーで人気のある噺です。

そして「明烏」と言えば八代目桂文楽、「野ざらし」と言えば二代目春風亭柳好、というように、かつて十八番にしていた師匠がいます。
この師匠が高座に上がれば、「明烏っ!」「野ざらし!」と、客席から声がかかったそうです。
従って、この師匠方がご健在の頃は、他の噺家さんは演ることが出来なかったという訳。
この二人の師匠が亡くなってから何十年も経つのですが、そして色々な噺家さんが演じるようなになったのですが、あの師匠の癖や語り口調やリズムが残っていることが多いようです。
先代の金馬師匠の「居酒屋」などもその類でしょう。
未だに十八番にしていた師匠方の癖が抜けずに、コピーのようになっているのを、圓窓師匠は嘆いています。
先日の窓口さんの「野ざらし」でも、こんなコメントをされていました。
柳好師匠は、最初から最後まで歌うような語り口だった。
地の部分も、誰の台詞でも、一本調子で歌うように演っていた。
これを真似しちゃ駄目なんだけれども、未だに「野ざらし」は、誰が演っても歌うようになる。
歌っちゃ駄目だ。
余りにも噺と噺家さんが密着してしまうと、後世にも影響を及ぼすものなのですね。
「明烏」や「野ざらし」から、いつになったら先人の"臭い"が消えるでしょうか。
ところで、最近では、この「野ざらし」や「湯屋番」などのように、台詞の中に別の人の台詞が入り、独り善がりなキャラクターが出て来る噺は、聴く側の想像力がついて来れなくなり、演る人や機会が随分減ってしまったそうです。
聴く側が、コントのような刹那的なお笑いにしか反応できなくなりつつあるとすれば、やや心配ではあります。

2011年12月22日 (木)

死んでも元気でいてくれ。あばよ。

昨日開かれた「立川談志」師匠のお別れの会での、石原慎太郎東京都知事の弔辞。Photo_2
「あの世でまたいつか会えるんだろうから、それまで死んでも元気でいてくれ。あばよ。さよなら。談志師匠。」・・・。
上岡龍太郎さんは、「会わないと寂しいが、刺激が強すぎて3日一緒にいると疲れる。1週間一緒だとたまらない・・・。」と仰ったそうですが、よく分かります。
さらに、「500年たっても輝き続ける落語界の天才」とも仰っていたようですが・・・??
「だんしがしんだ」は、これにて終息。合掌。

冬至

一年中で昼の長さがもっとも短い「冬至」です。
東京では、日の出が朝の6時46分ごろ、日の入りが夕方の4時33分ごろで、昼の長さは、9時間47分くらいだそうです。Photo
昼が短いだけではなくて、昼間の太陽の高さも一年でもっとも低く、陽射しが弱くなりますから、冬の寒さも本番ということです。
今年は東日本大震災があって、何となく一年が短く感じられるのですが、冬至かぼちゃを食べて金運を祈り、冬至風呂(柚子湯)に入って無病息災を祈る冬至の日も、随分早くやって来た気がします。
来年こそ、本当に良い年でありますようにと祈るのみです。

国民性?

国民性の違いというのか、国家元首?が亡くなった某国の国民の反応が映像報道されていますが、広場に泣き伏したり、大声で泣きじゃくったり、デパートのエスカレーターのベルトに捕まって慟哭したり、偲ぶ国柄をベースとする我々とは随分違います。
勿論、彼の国のことですから、多分にやらせの部分もあるのでしょうが、同一民族の南隣の国でも、事故や災害で身内を亡くした時には、同じような感じでしたから、そういうものなんでしょう。
国民性?
次元はちがうかもしれませんが、新聞で某欧米外資系会社の広告を見て、違和感を感じました。
企業のトップやある分野の専門家が並んだ広告はよく目にするのですが、左端で腕を組んでいるのは女性です。
そして、右端の男性は左手をズボンのポケットに入れている。
何か偉そうな、傲慢不遜な臭いがプンプンして、日本人は、こういう行儀の悪さ、頭の高さは嫌うと思うのですが・・・。
企業として、担当者としての自信を示すものなのでしょうが、あたしゃあ嫌ですねぇ。

歌川国芳

21日付日経新聞文化欄に「歌川国芳展」の記事がありました。
歌川国芳http://kuniyoshi.exhn.jp/
今までの私なら、「ふう~ん」程度で済ませてしまうのですが、今回はちょっと気になりました。
Photo

Photo_2

Photo_3

Photo_4・・・というのは、先日圓窓師匠からお許しいただいた「揺れるとき」でも、台詞の中にあるのですが、三遊亭圓朝も一時、この歌川国芳に師事していたことがあるそうなんです。
歌川国芳という人を調べてみました。
【歌川国芳】
歌川国芳(1798年1月1日(寛政9年11月15日) - 1861年4月14日(文久元年3月5日〉)は、江戸時代末期の浮世絵師。画号は一勇斎。
江戸時代末期を代表する浮世絵師の一人。
画想の豊かさ、斬新なデザイン力、奇想天外なアイデア、確実なデッサン力を持ち、浮世絵の枠にとどまらない広範な魅力を持つ作品を多数生み出した絵師である。

それではと、圓朝の若い頃の経歴を調べてみると、確かに内弟子になっているのです。
【三遊亭圓朝】
天保10年(1839年)4月1日
 :初代 橘屋圓太郎の息子として江戸湯島切通町で生まれる。
弘化2年(1845年)3月3日
 :橘家小圓太の名で江戸橋の寄席・「土手倉」で初高座。
弘化4年(1847年)
 :父・圓太郎と同じく二代目 三遊亭圓生の元で修行する。
嘉永2年(1849年)
 :二つ目昇進。

嘉永4年(1851年)
 :玄冶店の歌川国芳の内弟子となり、画工奉公や商画奉公する。

安政2年(1855年)3月21日
 :三遊亭圓朝を名乗り真打昇進。
・・・作品を見ると、奇抜なというか、気味が悪そうなものもありますが、ちょっと鑑賞してみたい気もして来ました。

アクセス累計推移

20万件までのアクセス数推移です。 
 ・プログ開始  平成21(2009)年 1月 1日 (1年3ヶ月)
 ・ 5万件到達 平成22(2010)年 3月19日  (59日)  
 ・  6万件到達              5月17日 (77日)
 ・ 7万件到達               8月 2日 (70日)

 ・ 8万件到達              10月11日 (61日)
 ・ 9万件到達              12月11日 (45日)
 
・10万件到達 平成23(2011)年  1月25日 (42日)

 ・11万件到達                             3月 8日 (47日)
 ・12万件到達             4月24日 (43日)
 ・13万件到達             6月 6日 (43日
 ・14万件到達             7月19日 (26日)
 
・15万件到達             8月14日 (28日)

 ・16万件到達             9月11日 (29日)
 ・17万件到達            10月10日 (29日)
 ・18万件到達            11月 8日 (21日)
 ・19万件到達            11月29日 (22日)
 ・20万件到達            12月20日 1084日目
5万件まで1年3ヶ月、それから10ヶ月で累計10万件に到達。20
2年1ヶ月かかっての10万件到達でしたが、その後7ヶ月で15万件、さらに4ヶ月で20万件に到達しました。
     ※写真をクリックしてください。⇒
後半の10万件は11ヶ月で到達することが出来たという訳です。
独り言のつもりで、自分に言い聞かせるつもりで続けて来ましたから、独断と偏見ばかりです。

2011年12月21日 (水)

「の・ようなもの」

落語家が主人公の映画「の・ようなもの」の「森田芳光」監督が亡くなったそうです。
享年61歳というのは夭折です。
「家族ゲーム」「失楽園」など数々の話題作を手掛けた映画監督の森田芳光さんが、急性肝不全で死去した。61歳だった。
東京都出身。
日大芸術学部時代から自主映画を撮り、1981年、落語家を主人公にした「の・ようなもの」で劇場映画デビュー。
83年、現代の家族像を皮肉を込めて描いた松田優作さん主演の「家族ゲーム」で、芸術選奨新人賞などを受賞、国内外で高い評価を得た。

「の・ようなもの」っていう映画は観たことはないと思います。
1981年に落語の世界を題材にした、コメディの要素を取り入れた青春群像映画。
物語の舞台は東京の下町。Photo_6
若手落語家(二ツ目)の志ん魚(しんとと・伊藤克信)は、23歳の誕生日記念に初めてソープランドへ行く。
相手を務めたエリザベス(秋吉久美子)は、実はインテリで落語にあまり興味がなかったが、裏表のない性格の志ん魚と何となくデートを重ね相談相手もする奇妙な関係になる。
ある日、女子高校の落語研究会を指導するはめになった志ん魚は、その中の一人・由美(麻生えりか)を好きになる。
エリザベスに相談するものの、どちらの関係も絶ちがたく二股交際を始める志ん魚であった。
由美とのデートの帰り、由美の実家へ立ち寄った志ん魚は両親を紹介され落語を披露する。
しかし、由美の父(芹沢博文)から「なってないねぇ。どうやって生活しているの?」と心配され、古今亭志ん朝や立川談志と比較された挙句、由美からも「下手」と駄目を押される始末。
失意の志ん魚は家を出るが終電は既に無く、堀切駅から浅草へ向けて歩き出す。
深夜の下町を「道中づけ」しながら歩き続け、浅草へ到着したとき夜は明け心配してスクーターで駆けつけた由美が待っていた。
その一方、パッとしなかった志ん魚の一門の先輩・志ん米(尾藤イサオ)が真打ちに昇進することとなり、関係者は沸き立つ。
エリザベスは引っ越して新たな道を歩むこととなり、取り残されたような気持ちになった志ん魚は自分の将来や落語界の未来について真剣に考え始めるのだった……。
・・・なるほど、やはり観ていないようです。

談志師匠の「お別れの会」

談志師匠がお亡くなりになってちょうど1ヶ月目のご命日。
「お別れの会」が行われるはずです。
献花式は、下記の通り執り行われるとのこと。
 日時: 12月21日(水) 午後3時30分~5時
 場所: 「ホテルニューオータニ」ザ・メイン(本館)鶴の間
多くの弔問者が来場することでしょう。
会場は、私の職場からは比較的近いのですが・・。

芝浜を聴く会

鈴本演芸場で、21~27日(23日を除く)の6日間、「年の瀬に芝浜を聴く会」と題して、名作「芝浜」を6人の師匠方が日替わりにて口演するという特別興行があるそうです。 http://www.rakugo.or.jp/2011-12shimo-hiru.htmlPhoto_5
 ■ 21日   林家たい平
 ■ 22日   林家正蔵
 ■ 24日   古今亭志ん輔
 ■ 25日   三遊亭金馬
 ■ 26日   柳家権太楼
 ■ 27日   柳家さん喬
201008112121002なかなか面白い趣向だと思います。
「芝浜」という人情噺は、それだけ庶民の心情に響く名作だということですね。
・・・でも、残念ながら「昼席」なんです。
まぁ、24日・25日は休日ですが・・。 

人情八百屋

圓窓師匠が、唯一立川談志師匠から教わったと仰る「人情八百屋」という人情噺。
師匠は、先月27日、横須賀でのさん喬師匠との二人会で、談志師匠を偲んで熱演されたそうです。
「人情八百屋」という噺は、私はあまり知りませんが。
子供もなく、夫婦だけで暮らしている八百屋。
その主人が野菜を売りに出かけた時、横丁から出てきたおかみさんに茄子を売ってくれと言われた。
茄子を売って、お弁当でも食べようとしていたところに痩せた子供が出てきてその茄子を生のままバリバリ食べ始めたので、驚いてさっきのおかみさんにそのことを告げると、おかみさんは泣いて言った。
家の亭主が3年越しの長患いで働くことが出来ず、子供たちにろくに形のあるものを食べさせていない。
お見苦しいところをお見せした…と。
それを聞いた八百屋の主人は驚いて、貧乏してるのはお互い様だと思い、そのとき持ってた有り金全部とお弁当を置いて帰った。
その7日ほど後に、八百屋の主人は気にかかっていたその家の様子をたずねに行くことにした。
自分の家も貧乏とはいえ、もっと貧乏で苦しんでる家族の力になろうと、家にあったお金を持って、励ますために出かけた。
そこの家に着いてみると、なぜか貸家札がかかっている。
不思議に思って近所の人に聞いてみると、長患いをしていた主人の源平さんはすでに亡くなっていた。
そのおかみさんも同じ日に亡くなったという。
突き当たりの火消しの家で源平さんの子供をあずかっているので、そこに行ってごらんと言われ、行ってみると…。
おかみさんが出てきたので、事情を話し、自分が源平さんにお金と弁当を置いていった八百屋だと話すと歓迎してくれる。
そこで源平さん夫婦が同日に死んだのはどういうわけかと尋ねると、なんと夫婦で心中したというのだ。
八百屋の主人が置いていったお金を家族で涙流して喜び、これで久しぶりに暖かいものが食べられる、と話していた矢先、そこの長屋の大家がやってきて「金があるなら、たまってる家賃を払え」と言った。
なにせ病気で全く働きがないのだから、家賃もたまって当然である。
せめてもらったお金の半分だけでも…!という願いも聞きいれられず、大家はお金を全部ぶんどって行ってしまった。
子供は泣き出すし、夫婦もがっくり落ち込み、こんな世の中なら死んでしまった方がいいと思ったのか、子供を外に出して夫婦で自殺してしまったのである。
そのことで長屋は大騒ぎになり、火消しの頭はその話を聞いて憤慨し、大家の家へ仲間と殴りこみに行ったそうだ。
ことのいきさつを教えてもらった八百屋の主人は逆上し、そんな大家ならいない方が世のためだ、と殺しに行こうとするが、おかみさんに止められて源平さん夫婦にお線香をあげることにする。
そこに子供たちと一緒に火消しの主人が、源平さんの墓参りから帰ってきた。
火消しの主人は「よくお金を置いていってくれた。感謝してます。よく来てくれました」と八百屋に礼を言った。
そこで火消しは、八百屋の主人に兄弟分になろうと言い出す。
兄弟になったところで頼みがあるから聞いてくれと、火消しは源平さんに残された二人の子供を、八百屋の主人とお互い一人ずつ預かろうと提案する。
しかし、そこで八百屋は言う。「二人とも面倒見させてください」と。
「私はこの年になるまで子供というものを持ったことが無いので、親の気持ちも子供の気持ちもわからないが、兄弟二人でいれば、苦しい時も悲しい時もどんなに心強いか知れない。だから…」
八百屋の言葉に火消しの主人も強く共感して、子供を二人とも連れて行くことに賛同する。
「生みの親より育ての親っていうのを忘れちゃいけないよ」と子供たちに言って聞かせる。
帰り際、玄関で八百屋の主人が「本当に八百屋の私が二人も面倒を見ていいんでしょうか。やはりしつけはあなたが…」と火消しに言うと、「冗談言っちゃいけねえよ。
俺の商売はヒケシだよ。ヒツケはできねえ」・・・。

・・・・、「唐茄子屋政談」の後半と設定が似ていますが、かなり悲惨なストーリーです。
談志師匠が、「唐茄子屋政談」を変えて演っていた噺のようです。
「唐茄子屋政談」では、首を吊ったおかみさんは命が助かるという演出もありますが、悲惨ではあっても、この噺のように、死んでしまうという設定の方がリアルで鬼気迫るものがあるようです。

談志師匠のこと

三流亭の稽古会の時に、圓窓師匠が、問わず語りに談志師匠の話をしてくださいました。
談志さんは本当に落語が好きだった。古典落語が大好きだった。Photo
若い頃から古典落語が一番だといつも言っていた。
とにかく多才な人だったから、落語だけではなく、司会もお喋りも何でも器用にこなした。
自分の落語会などでは、着物を着ないで新聞を持って高座に上がって、「今日の新聞でなぁ・・・」と、即興で話す時事ネタなどは素晴らしかった。
その色々なものを、最も愛する落語に入れようとしてもがいた。
もがいたけれども、結局落語に入れることが出来なかった。
Photo_2落語を愛している一方で、それと相容れない世界にも長じたギャップが埋められずに、後半から晩年は、破壊的になってしまい、落語もあまり良くなかった。
先月27日の横須賀の落語会では、談志さんが亡くなってすぐだったから、談志さんにたった1つだけ教わった「人情八百屋」という噺を頑張ってやってみた。
この噺しか教わらなかったけれど、稽古をつけてもらっていると、台詞を何度も遮って「ちょっと、ここはなぁ、こういうことだから・・」とか、「ここは俺はあまり好きじゃねぇんだけども、師匠がそう演ってたから・・」とか、それはそれは談志さんらしい、熱い稽古だった。
・・・懐かしそうに話す師匠も、同じように落語が大好きで、寝ても覚めても落語という人生を送っている人の、穏やかな表情でした。
とても良い噺を聴かせていただきました。

2011年12月20日 (火)

落語徘徊の始まりから3年

2009年1月1日、このブログをスタートさせた日に、私はこんなコメントを入れています。
Photo_3今年から、自分の落語徘徊の足跡を残してみようと思います。
「落語ブーム」と言われて何年か経ちますが、もはや一過性のものではなく、日本独自の伝統芸能として、さらにユニークなエンタテイメントとして、愛好者人口は少ないものの、盤石な位置を固めつつあります。
今年も公私ともに様々な出来事があると思いますが、ここまで来て後戻りできない「落語道」は、一層の「精進」を重ねたいと思います。
東北大学落語研究会創部50周年に関わるイベントでの落語、同記念誌、落語っ子連、圓窓師匠との接点、そして寄席・落語会めぐり・・・・。
もうひとつの目標は、OB落語会や落語っ子連以外の場所で、「落語を披露する機会を作る」ということです。
あまりにも「落語」ばかをやっているので、周囲から「一度聴かせろ」という声が複数ありますので、チャレンジしてみたいと思います。
そのためには、もう少し持ちネタを増やす必要がありますので、新しいネタの仕込みにも頑張ってみたいと思います。

・・・あれから間もなく3年が経とうとしています。Photo_5
そして、おかげさまで、このブログへのアクセスが20万件になりました。
振り返ってみると、当時やろうとしていたことが、かなり実現できていることに気がつきます。
OB会の先輩方や圓窓師匠、それから乱志・流三・永久をご贔屓にしてくださる多くの方々に、心から感謝申し上げたいと思います。
2落研50周年落語会・50周年記念誌・お江戸あおば亭・会報「あおば亭」。
落語っ子連(三流亭)だけでなく、扇子っ子連(千早亭)も。
知人や家族のご縁での"他流試合"の機会。
圓窓師匠との様々な接点や温かいご指導。
そして、一時に比べて減ったものの、寄席や落語会めぐり。
・・・今後とも、何卒よろしくお願いいたします。

三遊亭竜楽さん

今朝(20日)の日本経済新聞最終面の文化欄に、「三遊亭竜楽」さんの記事が載っていました。
      三遊亭竜楽さん
竜楽さんが、海外での落語公演をずっと以前から続けているのは知っていましたが、記事を読むと、ヨーロッパ各国で、バラエティに富んだ国民性の中、日本の伝統芸の落語が受けているそうです。
海外にいる日本人や日系人でなく、ネイティブに聴いてもらうということですから、色々難しいことはあると思いますが、お笑いのこころや人情というものは、国や言葉や文化を超えて通じるものなんですね。
「親子酒」や「ちりとてちん」などは大受けするようです。
やはり仕草のある噺の方が良いのでしょう。
竜楽さんは中央大学法学部の出身で、司法試験を目指していたこともあるという人ですから、こういうアカデミックな活動がお好きなのかもしれません。

揺れるとき

六代三遊亭圓窓作「揺れるとき」・・・。
                      
時は、安政2(1855)年と明治32(1899)年。
登場人物は、三遊亭圓朝(16歳と60歳の時)・三遊亭西生・西生の一人娘お西。
舞台は、相州神奈川宿の西生の自宅と日本橋木原店の寄席。
安政2年10月2日(旧暦・新暦では11月11日)。
今は神奈川宿で一人暮らしをしている盲目の元噺家「三遊亭西生」の家を、7ヶ月前に真打に昇進したばかりの16歳の「三遊亭圓朝」が訪ねて来る。
西生は、6歳の圓朝が「小圓太」で初高座を勤めた日のことも克明に覚えていた。
また、圓朝の父「橘家圓太郎」とも親しく、二人で身延山へお参りをして、鰍沢あたりで道に迷った思い出などを語る。
西生は圓朝が気に入り、二人の会話は酒を酌み交わしながら延々と続き夜になる。
西生の師匠である初代圓生から教わった芸談から、圓朝は、西生に「寿限無」の稽古をつけてもらうことになる。
喜んだ西生が「寿限無」の後半にさしかかる頃、突然大きな地震に襲われる。
これが、安政の大地震である。
ひるんだ圓朝に、西生は微動だにせず「寿限無」を続ける・・・・。Photo_3
明治32年10月(新暦)。
あれから44年後の日本橋木原店。
功なり名を上げた圓朝も60歳。
前月から体調を崩してはいたものの、トリで「怪談牡丹燈籠」を演じる。
(実は、この日が圓朝の最後の高座になる。)
この寄席の芝居に、毎日通っている60歳前後の婦人がいた。
圓朝が「牡丹燈籠」を語っている途中に、また大きな地震が起きる。
ところが圓朝は微動だにせず噺を続ける。
そして客席でも、慌てて外に逃げ出してしまう客が多い中で、その婦人もまた微動だにせずに噺を聴いている。
寄席がはねた後、この婦人が楽屋に圓朝を訪ねて来る。
婦人は、44年前に圓朝が訪ねて稽古をしてもらった西生の一人娘だと言う。
西生は既に亡くなっていたが、生前、圓朝が訪ねてくれたことを喜び、安政の大地震にも微動だにせず稽古を受けてくれた圓朝のことを褒めていたと。
そして、地震が起こってもびくともしなかった圓朝を、父親の位牌を抱いて聴いていたと。
圓朝は、西生の位牌を立てて、お経を唱えて、西生に語りかける。

・・・こんなストーリーです。
史実とフィクションを合わせた人情噺に仕立てられています。
これに挑戦しようという"暴挙"です。
近々、谷中全生庵の圓朝墓にお参りをして来ようと思います。

江戸ことば

師匠がよく、普段から言葉遣いに注意していないと、落語で江戸時代の噺をしている時に、当時では絶対に使っていない言葉が出てしまい、噺が台無しになることがあるのを諫めてくださいます。
例えば、飲んだくれている熊さんに、おかみさんが「全くもう酒ばっかり飲んで、仕事をさぼってばかりいて、しょうがないねぇ」なんて言うと、もうしょうがない状態になります。
「さぼる」というのは日本語ではありませんから・・・。

そう言えば、この間の「東京落語会」で、あの鳳楽師匠が「ねずみ穴」で、竹次郎の家が火事になったシーンで、「焼け跡にバラックを建てて・・」と。
【バラック(barrack)】
1.兵舎。営舎。特に、駐屯兵のための細長い宿舎。
2.急造の
粗末な建物。仮小屋。
・・・鳳楽師匠としては2番目の意味であることは明らかですが、これって、やっぱりまずいですよね。
例えば、若手の人に多いですが、マクラで自分のことを(一人称で)「ボク」と言う人がいます。
以前、古今亭志ん輔師匠の会で、師匠の前に上がった前座さんか二つ目が「ボク」という言葉を使ったのを、後から高座に上がった師匠が、とても厳しい口調でコメントされたことがあります。
「わたし」「わたくし」と言った方が良いでしょう。

2011年12月19日 (月)

長者三代

Photo_2 苦労して財産を蓄えても 、子は遺風を受けてよく守るが、孫はぜいたくになり浪費して家を傾けるから、長者の家 も三代までしか続かないという。
また、苦労を知らずにどころか贅沢三昧に育てられた三代目は、身代をなくして家を売りに出す時でも「売り家」という字を唐様で書くという川柳もあります。(売り家と唐様で書く三代目)
どちらかの国でも、図らずも三代目が継ぐことになりそうですが、さてどうなりますことやら。
彼の地の"とばっちり"や流れ弾が、こちらに飛んで来ないことを、ひたすら祈るのみですが・・・。

揺れるとき

下の写真は、今年の8月に谷中全生庵で開かれた「圓朝まつり」のメインイベントでもある「奉納落語会」での圓窓師匠「揺れるとき」の高座の様子です。
揺れるとき
この写真で、桟敷席の最前列右端で、高座を見上げているのが私。
今年は三遊亭圓朝の111回忌に当たり、「圓朝まつり」としては最後ということですが、ここで奉納されたのが、この奉納落語会のために圓窓師匠が創作された「揺れるとき」という噺です。
三遊亭圓朝と安政の大地震を絡めて、噺家の「あるべき姿」を語る人情噺なんです。
東日本大震災が起こり、この半月前に被災地に行って落語を演って来て、いたたまれない気持ちでいた私は、身体中が震える思いで、師匠の熱演と内容に聴き入りました。
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2011/08/post-5.html
そして、稽古会の時に師匠にお願いをして、この噺の高座本を譲っていただきましたが、その巻末に書かれていた「創作のきっかけ」という一文を読み、さらに震えが止まらなくなりました。
まず、師匠に落語協会から、圓朝まつりの奉納落語会で、圓朝に関する噺をと言われていたこと。(これは通常の流れです。)
3月11日に、あの「東日本大震災」が起こったこと。
・・そして、震災の2日後が、我々「千早亭」の発表会だったこと。
そこで、初めての自主発表会を控えた素人落語集団と、プロの落語界の大看板である師匠との間でのやり取り・・・。
実は、これが発端になって創作されたということなのです。
我が第二の故郷ともいうべき東北が揺れたのをヒントに、素人連と師匠との間の様々な接点を踏まえて作られた噺ならば、是非とも震災1年後の3月の千早亭の発表会で演らせていただこう。
・・・と強く思いました。
(奉納落語会で)
そして、落語っ子連・三流亭の稽古会で、師匠に思い切ってお願いをしたところ、ご快諾してくださいました。
「流三さん、読み稽古で演ってごらんよ。」
師匠に促されて、師匠の高座本を片手に、一通り読んでみました。
「この噺はね・・」と、2・3点コメントくださった後で、「難しい噺だと思うけれど、"救いの腕"の時もそうだったが、流三さんなら演れる、大丈夫だよ。」と、仰ってくださいました。
大変光栄であると同時に、あと3ヶ月でしっかりと仕上げて行かないといけません。
物凄く難しい噺です。
噺の中に、「寿限無」と「怪談牡丹燈籠」を演る場面があります。
会話の中に、「鰍沢」のヒントを暗示する場面が出て来ます。
そして何より、(私が)三遊亭圓朝を演じることになるのです。
とにかく、一生懸命にやってみようと思います。
生意気な言い方ですが、千早亭メンバーの代表として、師匠の思いにお応えすることにもなると思いますので。

お礼のメール

自称「乱志ひとりカルチャー高座」でお邪魔した聖徳大学生涯学習講座の韓国語の先生から、ご丁重なお礼メールを頂戴しました。

昨日は、お蔭様で、大変楽しく過ごすことができました。
誠に、ありがとうございました。
予定の時刻を過ぎてしまい、その後にご予定に影響はなかったのでしょうか。
私共は時を忘れ楽しませていただきました。
生徒の評判も上々でありまして、身近で落語に触れることができ喜んでいます。
一席目に笑えて、二席目には集中して聞けて、感動したそうです。
心温まる冬季の一日となったことと存じます。
・・・掛け目を考えても、大変嬉しいメールでした。
ありがとうございます。

これから演る噺

今年の高座は一通り終わりました。
まず、今年人前(発表会など)で演ったものを並べてみました。
 ◇ 1月  親交会新年会     子ほめ・三方一両損
 ◇ 2月  叔父・CD制作記念  ねずみ
 ◇ 3月   落語っ子連発表会   甲府ぃ・三方一両損
 ◇ 5月  扇子っ子連発表会   花色木綿
 ◇ 5月  お江戸OB落語会   佃祭
 ◇ 7月  復興出前寄席     花色木綿
 ◇10月  扇子っ子連発表会   救いの腕
 ◇11月  お江戸あおば亭    薮入り
 ◇12月  聖徳大学        子ほめ・救いの腕Imgp0853
今年は9回・12席・8演目でした。
8演目のうち、私の落語徘徊開始後のネタ下ろしは5演目でした。
さて、来年です。
今の段階で分かっている落語会等の範囲で。
まだ、これから増えることと思います。
そうそう、約束している「破れ家笑児」さんとの「笑児乱志二人会」も具体化したいものです。
 ◇ 2月  番外あおば亭      笠と赤い風車
 ◇ 3月  落語っ子連発表会   薮入り
  ◇ 3月  扇子っ子連発表会   揺れるとき
 ◇ 5月  お江戸あおば亭    お初徳兵衛浮名桟橋
 ◇ 9月  扇子っ子連発表会   (未定)
 ◇11月  OB落語会       (未定)
夢は広がります。

2011年12月18日 (日)

ラジオ寄席

日曜日の夜の楽しみ。
   ◇ 高砂や    三遊亭兼好
   ◇ 強情灸    五街道雲助
・・・そしてこの番組が終わると、休日も残りわずか。
明日からの仕事を思い、憂鬱になる・・・。
それでも、この週末は、とても充実していたから・・・
疲れた。

羽子板市

浅草に買い物に行ったついでか、羽子板市を見に行ったついでに買い物かは分かりませんが、昨日の夕方諦めた「羽子板市」を一通り見物しました。羽子板市
去年は夜行ったのですが、まあどちらも賑やかです。
人ごみに入るのは好きではありませんから、ちょっと眺めて来ただけですが、世の中不景気とは言われながらも、華やかで手の込んだ羽子板が、所狭しと並び、あちらこちらで、三本締めの声が聞こえて来ます。
       羽子板市
羽子板市は明日までで、いよいよ年瀬は押し迫ってまいります。
羽子板市

また浅草

稽古が終わってから、また浅草に行きました。
また浅草
着物のハンガーが壊れてしまったので、買いに行こうという訳です。
着物を暫く架けておくのに、洋服のハンガーではどうしようもありませんから、必需品です。
別に浅草にまで行くこともないのですが。
また浅草
休日の午後ですから、今日も「お祭りみたいに賑やか」でしたが、よく考えてみると「羽子板市」の真っ最中だから、混雑していて当たり前ですね。

三流亭「ん組」稽古会

今月の4日の予定だった「へ組」の稽古会は、師匠が風邪で体調を崩されて中止になったので、今日の「ん組」の稽古会には、「へ組」のメンバーも加わり、久々に賑やかな稽古会になりました。
    
少し早めに稽古場に行くと、既に師匠が誰かに稽古をつけていらっしゃいました。
同じ稽古場でやっている「紅巣亭」のメンバーの「紅巣亭華道(はなみち)」さんという、妙齢の女性です。
何でも、歌舞伎の仕事をされているということで、聞けば、歌舞伎が好きで好きで、いったん就職した会社を辞めて、歌舞伎の世界に飛び込んだそうで、女性は役者さんにはなれませんが、色々な仕事をされているようです。
師匠に、昨日の「救いの腕」の報告をしました。
とても喜んでくださいました。
そして、恐る恐る師匠にお願いしました。
「師匠、落語っ子連(三流亭)の発表会は、何度か稽古していただいている"薮入り"を演らせていただきます。・・・・それから、扇子っ子連(千早亭)では、師匠創作の"揺れるとき"を勉強させていただきたいのですが・・・・。」と。
「うん、いいよ。演ってもらって構わないよ」と、快諾をいただくことが出来ました。
今日の稽古の最大の目的は実現できました。
 ◇ 野ざらし      三流亭窓口
 ◇ 猫の茶碗     三流亭まど深
窓口さんは、今月下旬のある会で披露するということで、新しいネタにチャレンジ。
仕事が忙しいまど深さんも、「出来ない出来ない」と言いながらも、着実に噺をまとめています。
すると師匠が、「それじゃあ流三さん、早速"揺れるとき"の読み稽古を演ってごらんよ。あたしも、人が演るのを聴いたことがないから、是非聴いてみたいから。」と仰ったので、「えぇっ、まだ何も手を付けていせんよ。」と言いながらも、読み稽古にチャレンジしてみました。
 ◇ 揺れるとき     三流亭流三
 ◇ 火事息子     三流亭まど絵
まど絵さんに対しては、ずっと長講「火事息子」にチャレンジしているので、師匠は意識して、段階的にポイントの指導のレベルを上げているのが分かります。
今日は、人情噺は、お客さまにしっかり聞こえる声を出さなくてはいけないというアドバイスをしていました。
 ◇ 茶の湯      三流亭まど女
ラストスパートの得意なまと女さん。
茶の湯の基本的な知識や情報をメモして、落語を演る際の背景を整理していました。
もう一人のびす太さんは「道具屋」を演る予定ですが、今回もパス。
一通りの稽古の後は、お昼食とおやつを兼ねて、師匠を囲んでみんなでプチ・クリスマスパーティです。
とても楽しいひとときでした。

落語DEデート・はやおき亭

今朝も、昨日の疲れからか、しくじってしまいました。
まず、「落語DEデート」は、オープニングとエンディングの時だけしか意識がありません。
残念ながら、今朝の落語が何だったのか、全く分かりません。
続いて「落語はやおき亭」では、何とか意識があり、好楽師匠の「蝦蟇の油」でした。
寒い朝、布団にくるまりながら、ラジオで落語を聴きながらまどろむ・・。
贅沢ですね。

2011年12月17日 (土)

暮れの"ステンション"?

「朝日名人会」が終わったのが午後5時を回ったところ。
暮れの"ステンション"
浅草の「羽子板市」に行こうかと思いましたが、寒いので取りやめることにしました。
別に、どうしても行かなくてはならないということもありませんから。
帰る途中の上野駅の正面改札前には、大きなクリスマスツリーが飾られました。
いよいよ年の瀬を感じます。

朝日名人会

自分の高座を終えて、今度は有楽町に向かいました。
さすがに2席演るとかなり疲れます。
頭がボーッとしている状態です。

 ◆ たらちね       柳亭市也
 ◆ 十徳          三遊亭きつつき
 ◆ 猫の皿        柳家三之助
 ◆ 佐々木政談     古今亭志ん輔
 ◆ 稽古屋        林家正雀
 ◆ 芝浜          五街道雲助
身体のだるさもあって、三之助さんまでは、ウトウトしながらでした。
三之助さんも真打昇進して1年半が経過。
丁寧で清潔な高座は、相変わらず好感が持てます。
志ん輔師匠の「佐々木政談」は、もう3度目ぐらいですが、今日が一番落ち着いて聴かせていただきました。
この噺はオチがありません。圓窓師匠は「桶屋裁き」という名前にして、オチをつけて演っています。
「稽古屋」のような噺は、素人には絶対出来ません。
この手の噺は、特に生雀師匠の十八番ということですね。
トリの雲助師匠の「芝浜」。
先日来から、談志師匠の「芝浜」が度々話題になっていますが、雲助師匠の本式が良いと思います。

救いの腕

聖徳大学での自称「乱志ひとりカルチャー高座」の2席目は、圓窓師匠創作の「救いの腕」。
救いの腕
事前の講座の先生との打ち合わせで、演題はおまかせいただいたので、軽く面白い古典落語ということで「子ほめ」を選びました。
もう1席は・・・と、色々考えた結果、会場がほとんど女性だということだったので、10月の千早亭の発表会で手応えのあった「救いの腕」に決めました。
この噺の不思議なのは、ストーリーを追うのではなく、どうやって二人の姉妹の会話を自然に出来るかがポイントのようで、ストーリーや主題は、女性を掴みやすいところです。
今回も、下駄の鼻緒が緩くなるから姉に履かせたくないという部分は、細かな話ではあるものの、シンパシーを持ってもらったという手応えを感じました。
この噺・・・、もっともっと練り上げれば、もつともっと手応えが出て来る気がします。
明日の三流亭の稽古で師匠にお会いするので、師匠にこの感覚と体験を報告しよう。
きっと喜んでくださると思う・・。

子ほめ

聖徳大学での最初は「子ほめ」。
子ほめ
萩の手拭いで上がりました。
生の落語を初めて聴くという人がそこそこいましたので、ちょっとした蘊蓄もしゃべってから、本題に入りました。
この噺は、私にとって大切な、でも、なかなか上手く出来ない難しい噺なんです。
現役時代に、創部20記念「三遊亭圓生独演会」の前座で演らせていただいた噺。
故麻雀亭駄楽師匠を偲ぶ会で、圓窓師匠の前で演り、師匠から直接落語っ子連に誘っていただいた噺。
今回は、今までにやった中では一番受けたかもしれません。
また、新しい一面を見つけることが出来ました。
この噺も、師匠のアドバイスで、乱志オリジナルのオチを考えて、何度か高座にかけています。
「生まれて7日目だよ。一つだよ一つ。」
「一つにしちゃぁ若い。どうみてもタダ(半分)みてぇだ。」
・・・というのが通常のオチです。
ところが、これは数え年で、現在ではなかなか分かりません。
「生まれて7日だよ。0歳だよ。」
「・・どうみても、なしみてぇだ。」
・・なんていうのもあるそうです。
師匠からのアドバイスによる私のオチは・・・
「生まれて7日にしちゃぁお若く見える。」
「それじゃ一体どう見えるんだよ。」
「どう見ても、"3日坊主"だ。」
・・・7日より3日の方が若いし、生まれたのは男の子のはずだから"坊主"を付けて、しかも「三日坊主」という言葉がありますから。
私はそこそこ満足しているオチなんです。

乱志ひとり・カルチャー高座

Photo_2家内が、地元の聖徳大学の生涯学習センターで韓国語を勉強しています。
その講座の講師の先生から、聴講生との年末のイベントの一つとして、落語の依頼を受けました。
普段は通常の?韓国語の講座なのですが、今回は、お昼を挟んで4時間ぐらい、ちょっとした韓国語のレクチャーと聴講生の方々の座談会の間に落語という訳です。
勝手に「乱志ひとりのカルチャー高座」と名付けました。
この講座の先生は、勿論韓国人で、大学で日韓のことわざの比較などについて研究している方だそうです。
事前の打ち合わせは、数回のメールのやり取りでしたが、全くことばや文化の違和感がありませんでした。
聴講生の家内は、10時スタートということで、一足先に会場に向かいました。
                   乱志ひとり
私のお座敷?は11時からですから、10時半に会場に着くように自宅を出ました。
歩いて10分程度の松戸駅東口前にあります。

生涯学習センターの建物に着くと、1階のロビーで先生が待っていてくださいました。
若くて、礼儀正しく、笑顔の素敵な先生です。
4階にある会場の控室に入り、早速着替えることにします。

今日は2席演らせていただく予定ですから、着物・扇子・手拭いも別々の物にしてみました。
  ◇ 子ほめ     金願亭乱志
  ◇ 救いの腕    金願亭乱志
「子ほめ」は、着流しで、萩の手拭いと(白い)扇子。
「救いの腕」は、色紋付に羽織、菱松の手拭いと(黒い)扇子。

会場は、中年の女性が中心の約40~50名。
出来の良し悪しはともかく、楽しく演らせていただきました。
途中の休憩時間が少し長くなったので、「救いの腕」が終わったのが、12時10分ちょっと前ぐらいで、ぼぼ予定どおり。
控室に、今年の1月に、ある老人会で落語を演らせていただきましたが、その時にお世話になった方も、この講座を長講しておられるのですが、わざわざご挨拶に来てくださいました。
無事に高座2席を終えて、控室に戻って、洋服に着替え、荷物は家内に持ち帰ってもらうことにして、先生にご挨拶をして、そのまま忙しく有楽町の「朝日名人会」に向かいます。
今回も貴重な経験をさせていただくことが出来ました。

おさらい

10月の発表会以来初めて、本番当日の朝に「救いの腕」を通してやってみました。
この噺は、師匠の創作で、二人の姉妹の会話でストーリーが進んで行きますから、比較的フリーハンドで会話が出来ます。
やる度に違っては来るのですが、逆に自然な言い回しができるのではないかという訳。
どんな雰囲気の会場で、どんな方々がいるのか分かりませんから、良い意味で軽い気持ちでやろうと思います。
・・・でも、かなり噛んだり言い間違えたりしました。
もう、本番で「馬鹿力」が出ることを祈るのみ・・。

師走の風物詩

某大学での高座の日の当日の朝7時。
          羽子板市
全く稽古していないので、これから・・と思いながら、ふと「確か今日から浅草の羽子板市が・・・」と。
今日は、午前中は高座、午後は「朝日名人会」の予定。
・・夕方行ってみようか・・・。
そんなこと言ってる場合かと・・。

虎ノ門「大串」

東京落語会の後に必ず立ち寄る店。
虎ノ門「大串」
http://r.tabelog.com/tokyo/A1308/A130802/13024697/
今夜も、頓平・金魚両師匠と3人で、落語談議に花が咲きます。
ニッショーホールから、地下鉄虎ノ門駅に向かう途中にあります。

2011年12月16日 (金)

東京落語会

今年最後の「東京落語会」です。

開演時刻の午後6時では、いつもこんな程度の入りで、時間が経過しても、満席になりません。
  ◆ 寄合酒        古今亭はん輔
  ◆ 雑俳         春風亭鹿の子
  ◆ 尻餅         古今亭駿菊
  ◆ くしゃみ講釈     三遊亭笑遊
    ◆ 鼠穴         三遊亭鳳楽
  ◆ 小政の生い立ち  柳家喬太郎
  ◆ 電報違い      三遊亭圓歌
Photo

今日の目玉は、三遊亭鳳楽師匠でしたが、放送する時の時間の関係からか、最初の部分をカットしていて、また噺の出来自体もあまり良くなかった気がします。

喬太郎さんと圓歌師匠の噺は、伊勢参りと東海道が、完全に「ついて」いました。
あまり厳格に考える必要はないかもしれませんが、ちょっと酷いと思います。
清水次郎長と小政が登場しますが、さほど面白い噺でもありませんでした。
圓歌師匠の噺も初代圓歌の作ったもののようですが、圓歌師匠も年齢を重ねて、かなり聴き辛くなったこともあり、・・・・でした。

明日の高座で

心配になっていたことなのですが・・・。
Photo_2また持病の「口内炎」が酷くなって来ました。
左側の唇の上下に1ヶ所ずつ・・。
まだそれほどの痛みはありませんが、明日の某大学での高座本番の頃は、もっと酷くなるのではと、ちょっとびくびくしています・・。
そんなに疲れが溜まっている訳ではないと思うのですが。
談志師匠には、「落語を演る前後につべこべ言い過ぎる」なんて言っている舌の根も乾かないうちに、自分だって、「あそこが痛い・ここが痛い」などというのは、もってのほかですね。
圓窓師匠も、「(プロでも素人でも)落語を演るに当たっては、決して言い訳を言ってはいけない」と仰っています。

三代目

「売り家と唐様で書く三代目」という川柳があります。Photo
初代が苦心して財産を残しても、三代目にもなると没落して、ついに家を売りに出すようになるが、その売り家札の筆跡は唐様でしゃれている。
遊芸にふけって、商いの道をないがしろにする人を皮肉ったものです。
これを実際にやってのけた三代目がいます。
リヤカーを引いて古紙を集めた初代、会社を業界3位に押し上げた二代目。
そして期待された三代目は…、会社を業界トップに導くため帝王学をたたきこまれたはずなのに、いつしか「家訓」を忘れ、ティッシュペーパー約1億5千万箱分にも相当する金をカジノのネオンに溶かしてしまった某社の「落魄(らくはく~衰えて惨めになる・落ちぶれる・零落)」の御曹司。
本人もさることながら、育てた親の責任も大きいと思います。
本当に昔の人はよく言ったものだと思います。
同じように「長者三代」なんていうのもあります。
苦労して財産を蓄えても 、子は遺風を受けてよく守るが、孫はぜいたくになり浪費して家を傾けるから、長者の家 も三代までしか続かないという。
それから、相続が三代続くと財産がなくなる、なんて言われることもあります。
また、「三代続けば末代続く」とも言われ、家は三代続けて 栄えれば、基礎もしっかりして末代まで安泰だとも言われています。
三代目というのは、微妙なんですね。
いずれにしても、私には全く関係ない話です。

「カルチャー高座」の打合せ

17日(土曜日)の、某大学韓国語カルチャー講座での高座。
勝手に「乱志のカルチャー高座」・・・。
先生とメールで、色々事前の打ち合わせをしています。
乱志ひとりいよいよです。
時間は1時間。(11時〜12時・休憩時間あり)
演題はおまかせ。(「子ほめ」と「救いの腕」・・?変更可能性あり)
出囃子は、ピアノ伴奏。曲目は先方におまかせ。
(笑点テーマ曲のオファーがありましたが丁重にお断りしたので・・)
高座は、机の上に座布団。
観客は、40〜50名・・・?(その中に愚妻も)
・・講師控室がお借りできるようなので、着物2着持って行こうか・・。
反応が全く読めないので、とにかく不安です。

2011年12月15日 (木)

「立川談志が残したもの」

NHK総合テレビのクローズアップ現代「人生は落語だ~立川談志が残したもの~」
毒舌や破天荒な行動で注目された立川談志さん。
その真骨頂はやはり古典落語だ。
登場人物の心理に独自の解釈を加え新たな境地を目指した談志さんが遺したものとは?

・・・という訳で、帰宅すると、あのお堅い「クローズアップ現代」で、談志師匠の特集をやっていました。Photo_2
そして、例の「芝浜」の一部も放映していましたが、やはり私の美学には合いません。
「よそう、また夢になるといけない」と言ったら、それで終わりです。
「一期一会・・・」がどうのこうのは要らない。
それが舞台の儚さ、芸人さんの潔さです。
やはり、よみうりホールには行かないことに決めました。

稽古

10月千早亭の発表会で演ったきりの「救いの腕」。
稽古
当日のDVDを視聴してみました。
自分で言うのも何ですが、改めて視聴すると、そこそこ上手く演っているのに驚きました。
「へぇぇ、なかなか上手く出来てる。」と思う反面、3日後に迫っている某大学での「ひとり会」で出来るかと、不安になって来ました。
                     
圓窓師匠が、「永久さんは、素人ではトップクラスです」と仰ってくださった場面がとても嬉しい。
さあ、あの言葉を糧に、もう一度聴いてからお浚いしておかないと。

極月・師走

極月(ごくげつ)という響きが、何となく好きです。Photo_4
何か、何となく寒そうな、ちょっと恐そうな雰囲気がするのです。
旧暦12月を「師走」または「極月」と呼びます。
師走は、新暦12月の別名としても用いられ、その由来は僧侶(師)が仏事で走り回る忙しさ(平安後期編「色葉字類抄」)からという平安期からの説があり、言語学的な推測として「年果てる」や「し果つ」等から「しわす」に変化したなどという説もあるそうです。
極月は、文字通り”極め付けの月・最後の月”という意味です。
現在は12月の異称として用いられますが、西暦での”12番目の月”ということではなく、あくまでも旧暦での
”最後の月”ということだそうです。
三遊亭圓朝の「真景累ヶ淵」の発端である「宗悦殺し」では・・。
根津七軒町に住む鍼医の皆川宗悦は、金貸しもしていて五両一分で貸し付けていた。
この小銭が貯まっていくのを楽しみにしていた。
女房は亡かったが、十九の志賀(後の豊志賀)と十七の園の二人の娘がいた。

安永2年の極月20日は、朝から雪が降りそうな天気であった。
娘が引き留めるのを、小日向服部坂に住む小普請組・深見新左衛門宅へ借金の取り立てに行くが・・・・。

「談志、The Movie」の詳細

談志師匠の追悼公演「談志、The Movie」の詳細が判明。Photo_3
  立川談志 追悼「談志 ザ・ムービー」】
 日時 平成24年1月31日(火)
     ‹昼の部›   午後1時30分~
     ‹夜の部›   午後6時30分~
 場所 よみうりホール

 出演 ‹昼の部›   立川談笑・立川談吉
     ‹夜の部›   立川志らく・立川談吉 
 木戸 前売3500円・当日4000円
 販売 12月23日~
    (チケットぴあ・イープラス・チケットファン・オフィスM's)

うぅ~ん。
かなりの反響のようです。

2011年12月14日 (水)

歩き稽古

土曜日に向けての「歩き稽古」は、生憎の雨のため、本日は中止・・。
あと3日しかありません。

元禄15年極月14日

1702(元禄15)年極月の14日、赤穂浪士47人が本所の吉良邸に討ち入りし、主君の仇討ちを成し遂げました。Photo_4
1701(元禄14)年3月、江戸城松の廊下で播磨赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が、幕府の礼式を司る高家筆頭の吉良上野介義央に小刀で切りかかるという事件が起こります。
浅野には即日切腹、領地没収という厳しい処置がとられましたが、吉良には一切のお咎めがなく、これが事件の発端となったのです。
家臣たちは主君の仇を討つ為に綿密に計画を練り、翌年12月14日寅の上刻(現在の暦法では15日午前3時ごろとなりますが、当時は日の出の時間に日附が変わっていたので14日となるようです)、大石内蔵助の率いる47人が、本所の堀部安兵衛宅に集まり、そこから吉良邸へ討ち入ったのです。Photo_6
約2時間の戦いの末、浪士側は一人の死者も出さずに、吉良の首を取ることができました。
世論は武士の本懐を遂げた赤穂浪士たちに味方しましたが、幕府は翌年2月4日、一同切腹という処置をとりました。
これが「赤穂浪士の仇討ち事件」です。
日本人が大好きな歴史上の出来事といえば、源平と戦国時代と幕末と、そしてこの「忠臣蔵」でしょう。Photo_5
「忠臣蔵」というのは浄瑠璃、歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」のことですが、
赤穂浪士の仇討ちを題材にした戯曲・小説類の総称ともいえるでしょう。浅野内匠頭の刃傷は、事件の翌年1702年(元禄15)3月に早くも江戸・山村座の「東山栄華舞台」という小栗判官の芝居に脚色され、事件落着直後の03年2月16日には江戸・中村座で義士討入りを暗示した「曙曽我夜討」を上演し、3日間で中止を命ぜられたそうです。
その後も歌舞伎で数回脚色されたましたが、浄瑠璃で近松門左衛門が、1706年(宝永3)10月の大坂・竹本座に書いた「碁盤太平記」は、足利時代の「太平記」を世界にした構成と高師直(吉良義央)、塩冶判官(浅野内匠頭)、大星由良之助(大石内蔵助)、寺岡平右衛門(寺坂吉右衛門)などの役名を後代に伝え、なかでも竹田出雲・三好松洛・並木千柳)合作の浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」(1748)が大好評を博し、歌舞伎に移されても最高の人気狂言になってからは、これを母体に無数の書替えものが生まれたという訳です。
「忠」というのは、実に日本人の心を打つのでしょう。
落語でも、「四段目」「七段目」「中村仲蔵」「淀五郎」と、切っても切れない縁があります。

奇跡の一本松

大変残念なニュースを聞きました。Photo_7
東日本大震災の大津波に耐えた岩手県陸前高田市の「奇跡の一本松」が、生育状況調査の結果、「枯死している可能性が高い」ということが分かったそうです。Photo_8
根の大半が海水の影響で腐っていて、「蘇生は絶望的」と判断されたようです。
・・・被災地の方々の心の支えとも言える存在でしたから、本当に残念です。Photo_9
今後は、この一本松を接ぎ木して、後継樹を育成し、高田松原の再生を目指すとのこと。
何千本もの松が生い茂っていた松原が、一瞬のうちに津波に飲み込まれ、跡形もなく消えてしまいました。
自然の猛威の非情さを改めて感じます。

「昭和の名人完結編」(22)

確か全巻で26巻のはずですから、配本も残り少なくなりました。Photo_3
と同時に、私にはあまりなじみのない噺家さんが多くなりました。
特に、上方の師匠方は知りません。
 ◇ 茛の火    林家染丸
 ◇ 掛け取り   橘ノ圓都
染丸師匠は、私が知っている、月亭八方・桂文珍・桂きん枝さんと「ザ・パンダ」をやっていた故林家小染さんのお師匠さんですね。確か。
小染さん好きだったのですが、若くして亡くなってしまいました。
昭和7年、二代目染丸に弟子入りして染五郎(後に染語楼)となる。
当時は上方落語の低迷期だったため若手が定席に出ることは難しく、消防署職員と落語家の二足のわらじを履きながら修行を続けた。
昭和27年、師匠が没したのを機に落語家として芸に専心することを決意、翌年8月、寄席・戎橋松竹にて三代目染丸を襲名。
昭和32年の上方落語協会設立にあたっては初代会長に就任、後進育成にも尽力し、弟子には故・四代目小染、四代目染丸らがいる。
満面笑みを浮かべた「えびす顔」で人気を得て、毎日放送「素人名人会」の審査員としても親しまれた。
出囃子は、「たぬき」。
得意ネタは「景清」「猿後家」「ちりとてちん」など。

圓都師匠は、全く知りません。
明治38年に、「二代目・桂文 團治」に入門し桂團壽となるも、途中で挫折、明治45年、「初代・橘ノ圓」に再入門し、橘家圓歌となる。
「初代・三遊亭圓歌」と間違いやすいとの理由から大正6年、橘ノ圓都を名乗ることになった。
他の落語家がやらないネタをやっていたことで、人気を集めていたのだが、昭和に入ると突然活動を休止した。その理由は、戦時中の好景気で大工の需要が高まっていたため、大工に戻ったというもの。
しかし、同じ落語家達の説得により落語界に復帰。
まっすぐな性格で独自の落語を披露、晩年になっても落語への情熱は衰えず、90歳まで高座に上がり、根強いファンを沸かせたそう。

2011年12月13日 (火)

「談志、 The Movie」

新聞記事で知った談志師匠の「芝浜」の上映会の情報です。
Photo 立川談志師匠の追悼上映会「談志 The Movie」が、来年1月31日によみうりホールで開催されるそうです。
上映されるのは、2007年12月18日に同じよみうりホールでお演りになった「芝浜」。
例の「芸術の神が舞い降りた」と、談志師匠自らが語り、伝説となった一席。
「あの芝浜を見たい」という声が多数寄せられたそうです。
上演後に談志師匠が、「一期一会、いい夜をありがとうございました」と珍しく言葉少なに挨拶をしたという、ご本人も大満足の高座だったようです。
「(本人も想像していなかった)物凄い噺が出来たという達成感に、当の談志師匠も談志教信者の観客も、みんな放心状態になっていた」と言われています。
私も聴いてみたい気はしますが、恐らくチケットは即日完売でしょう・・・。

フェラーリに乗ったバカ医者

「医は仁術」と呼ばれていたはずです。
私の「薮入り」でも、「オレはなぁ、○○先生を呼んで来るんじゃねぇって言ったんだ。あの先生はなぁ、診てくれても金を取らねぇんだ。だから・・・、でも、名医だなぁ・・」って。
ガソリンスタンドで高級外車のフェラーリを洗車した後、店員をひき逃げしたとして、自動車運転過失傷害と道交法違反の疑いで、ある医師が逮捕されたそうです。
そして、こともあろうに「ぶつけたのは確かだが、救急車が来るということなので、大丈夫だと思って帰った」と供述しているとか。
このバカ医者は、ガソリンスタンドでフェラーリを洗車した後にバックした際、後ろで誘導していた男性店員をはねて逃走したそうです。
男性店員は左足に軽傷。
警察の調べによると、バカ医者は店員をはねた後、いったん下車。
店員の様子を一見して、「私は医者だが、見たところ大したことない」などと言い、店員が止めるのも聞かず、そのまま立ち去ったという、何とも信じられない言動・・・。
本当に往生際の悪い、自己中心で無責任で非常識で卑怯な大人の多いことか。
・・フェラーリといえば、先日も、いい歳をしたオヤジたちがフェラーリに乗って徒党を組んで、高速道路を暴走して多重衝突事故を起こすという、ざまあみ・・・、でなくて無様なニュースがありましたが、高級車に乗ると頭がおかしくなるんですかねぇぇ。

今年の漢字

恒例の「今年の漢字」は「絆」に決まったそうです。
Photo_2東日本大震災などの災害により、家族や友人との絆、助け合う人同士の絆など、多くの人が絆の大切さを実感した年だったということでしょうか。
個人的には、あまりピンと来ません。
「絆」以外は、以下のようになっているようです。
2位「災」・3位「震」・4位「波」・5位「助」・6位「復」・7位「協」・8位「支」・9位「命」・10位「力」・・・。
別の団体の募集で大学生では「災」「変」「苦」など、女性は「幸」「楽」「希」などが多かったそうです。
来年は「幸」とか「希」になると良いのですが・・・。
私は、「乱」「志」「永」「久」「流」「三」がいい・・。
・・・でも、並び方を変えるとあんまり良くないことに気が付きました。
「乱志永久三流」・・、これではいつまでたっても上手くなれない

出待月

一昨日の満月の皆既月食から2日。
出待ち月
昨夜(12日)は17夜だから、「出待月」ということでしょうか。
帰宅の途中で見上げた空、雲間隠れに見えた出待ちの月でした。

2011年12月12日 (月)

「金願亭乱志独演会」のDVD

喰亭寝蔵師匠に編集していただいた、OB落語会や金願亭乱志のDVDを実家に持って行ってあるのですが、母がご近所の落語(というより演芸)好きのご夫婦に貸して聴いてもらったそうです。
金願亭乱志独演会
お世辞半分(ほとんど)だとは思いますが、大変好評だったそうです。
そこで気を良くして、もう1軒、別のご夫婦にも聴いてもらうつもりだと、メールが届きました。
親バカ・子バカ親子です。

助六

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歌舞伎十八番「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」は、「勧進帳」と並んで最も人気の高い狂言で、歌舞伎を代表する狂言の一つです。
花川戸の助六という侠客は、毎夜吉原でけんかを売って相手の刀を抜かしている。
助六は実は曽我五郎で、源家の重宝「友切丸」を探すための行状だった。
Tokyo17吉原の遊郭三浦屋の揚巻は、全盛の花魁で、助六といい仲である。Photo_10
髭の意休は子分を引き連れ吉原に通い、権力と金をかさにきて威張り、揚巻に言い寄ってくるが相手にされない。
意休は助六を罵倒し、図に乗って自分の刀で香炉台を切った。
助六はこの刀こそ「友切丸」と見届け、意休を討ち果たして刀を奪う。
捕手に追われた助六は、天水桶の中に身を隠し、揚巻の助力で吉原から逃れた。
江戸っ子の憧れなんだそうで、やはり芝居を観てみたいものです。

早い二つ目昇進

入門して10ヶ月で二つ目に昇進した噺家さんがいるそうです。
立川流、立川談笑さんの弟子の「吉笑(きっしょう)」さんという人だそうです。
前座から二ツ目への昇進は一般的に3~4年、立川流では6~7年は当たり前なのですが、この吉笑さんは、入門からわずか10ヶ月で二ツ目に昇進したとのこと。
師匠の談笑さんは、立川流の二ツ目の基準である落語50席、太鼓、唄、踊り、講釈の基準を満たしたので二ツ目を認めた言っているそうです。
本人も一生懸命努力して、一応基準はクリアしたのでしょう。
そこは立派だと思います。
今の世の中は、基準化・マニュアル化していますから、こういうケースもありうる訳ですね。
しかし、基準というのは、様々な評価の中で、ボーダーラインにある時に、目安として使うべきで、まず基準ありきというのは、特に芸能の世界では違和感があります。
先日、稀勢の里の大関昇進の際も、マスコミなどでは、最近3場所の勝星が33勝以上というのが、いつの間にか昇進の基準のように言っていましたが、これに満たなくても昇進したり、超えていても昇進しないということは、総合的な判断の中ではあると思うのです。
また、ご本人にとっても、こんなに早い昇進がプラスにならない場合もあるでしょう。
ところで、一番気になったのは、字は違いますが、「きっしょう」というのは、圓窓師匠の二つ目時代の「吉生」の読みと同じだということ。

救いの腕

三遊亭圓窓師匠創作の「救いの腕」。Photo_6
25歳のお香(こう)が姉のお里を訪ねて来て、亭主の善吉の愚痴を言います。
10歳年上の善吉は、「毎日決まって暮れ六ツ(午後6時)には帰って来て、何を聞いても返事は“あぁ”“うぅん”・・・・。固い本を夢中になって読んでいるばかりで張り合いがない」とこぼします。
姉の亭主が何日もどこかで遊んできて、帰ってくればぶったりぶたれたり喧嘩ばかりなのとは大違い。
Photo_5お香はそんな姉夫婦が羨ましくて仕方がない。
実はお香には忘れられない人がいるのです。Photo_8
それは10歳の時、向島の川で土手に座っていた時に誤って川に落ちて溺れてしまった時に、太くて逞しい腕で救ってくれた男。
気を失ってしまい、誰だかわからないままに今日まで来てしまったのです。
お里にそう打ち明けて、亭主の善吉とは別れたいというお香なのですが。
姉のお里に諭されて・・・、いつもと違う何か新しいことをと、善吉と二人で向島へお花見に行くことにします。
そして、また・・・・。 Photo_7
男が男の世界を描く落語がほとんでの中で、姉妹の会話が中心で、若い女性が主人公という、珍しい噺です。
結婚してみたら亭主は何となくもの足りなくなり、腕の記憶だけが残る男性に惹かれてしまう。
・・・揺れ動く女心が、川面の水に象徴されているようです。
女性同士のとりとめのない姉妹の会話は新鮮かつ自然で、聴いた後に優しい気持ちになれる噺です。
この噺は、若い女性を描いて定評のある作家「唯川恵」さんの短編をヒントに圓窓師匠が創作されたものですが、女性の共感も得られる噺だと思います。
それを、来週の某大学のカルチャー講座の会で、再び演ってみようと思います。
ここのところ、浅草・向島近辺を徘徊して、地理的なイメージも再確認出来ましたから。

2011年12月11日 (日)

ラジオ寄席

今日は珍しく落語2席。
  ◇ 粗忽の釘     春風亭一之輔
  ◇  ・・・         桂平治
私には、お馴染みの二人です。
お二人とも、来年は大きな行事を控えています。
一之輔さんは、21人抜きの真打昇進。
平治さんは、11代目桂文枝襲名。
恐らく、二つ目さんで一番聴いているのが一之輔さんなのですが、未だに21人も抜いて昇進するとは思えないのです。
しかし、数少なく、一人で満席にする力(人気)のあることも確かなのですが・・。
平治さんは・・・、意識不明になり、全く記憶がありません。

震災から9ヶ月

あの東日本大震災から、今日で9ヶ月。
先日購入した、「東日本大震災の記録」というDVDを視聴して、改めて災禍の大きさを思い出しました。
先月創刊した、落研OB会の会報「あおば亭」に、仙台に住む「賀千家ぴん吉」さんが投稿してくれましたが、やはり、記憶が薄れて行くことを戒めていました。
被災地
あれから約8ヶ月。気が付けば、震災があったという事実すら忘れかけている自分がいる。
これは喜ぶべきことなのか、それとも憂うべきことなのか。

震災に見舞われた東日本の人々は「被災者」と一括りにされがちである。
しかし、ひと口に「被災者」と言っても、その程度は人によって様々だ。

私のように恵まれた人間もいれば、深い傷を負ったままこの先ずっと生きていかねばならない人もいる。
被災地 被災地
大切な人や住む家を失った人は、死ぬまでこの震災を忘れることは決してないだろう。

被災地復興のため尽力して下さった方々には心から感謝するばかりである。しかし、再び元通りの暮らしを手に入れた人間は、自己のつらい経験のみならず、他人の苦しみや悲しみまで忘れてしまいがちなる。

そのとき、私は自分を戒めずにはいられなくなった。
目の前にある日常を当たり前と思うな。」そんな言葉が聞こえてくる。
生きていること、仕事に打ち込めること、趣味に没頭できること、そのありがたみを私は決して忘れてはなるまい。

落語はやおき亭

さらに意識が混濁して、ほとんど内容が分かりません。
ただ、三遊亭好楽師匠がゲストで対談していたような気がします。
「それじゃ駄目じゃん」でした。

100歳の浪曲師の死

幸せな死に方というのは、やはり自分の家の畳の上でというのが一番でしょう。
あるいは、自分の天性の仕事をしていて、あるいはその場所でというのも幸せかもしれません。
先日、現役最高齢の浪曲師の「木村若友」という方が、100歳で亡くなったそうです。
今年4月に、浪曲専門館の寄席である「浅草・木馬亭」に出演した後、5月に国立演芸場で「100歳を祝う会」が開かれたそうですが、何とその日の出番直前に楽屋で倒れ、リハビリの甲斐なく往生されたということです。
得意演目には「塩原多助」などがあった方だそうです。
・・・倒れてすぐお亡くなりになった訳ではないようですが、実に幸せな往生だと思います。
ただ、ご本人にすれば、せめて一席終わった後の方が良かったかもしれません。
その気持ちが残って、なかなか成仏できないなんて・・・?
確か「四代目柳家小さん」は、上野鈴本演芸場で新作落語「鬼娘」口演後、楽屋に下がったところで病に倒れ、帰らぬ人となったはず。

落語DEデート

昨日の疲れもあり、布団の中で、朦朧としながら聴きました。
   ◇ 転宅    三代目三遊亭金馬
先日から、この噺に出て来るお妾さんの"色気"をどう演じるかなどと、ある人と議論したことがあったので、非常に興味があったのですが、いかんせん意識がまだら模様で。

2011年12月10日 (土)

皆既月食

今日は皆既月食でした。 
(隅田川の船上から)
幸い? 外出していましたから、月食が始まる前から完全に地球の陰に隠れるまでの天文ショーを、断続的に観ることが出来ました。
1_24時30分過ぎに、ちょうど浜離宮から隅田川ラインで浅草に戻ろうとしていた船上で、東の空に登ったばかりの満月を見ることができました。2
「この月が数時間後に欠けて行くんだ」と思うと、何となくわくわくして来ました。
落語会の途中で、清澄白河から見上げた空もきれいで、仲入りの時に外に出た時も、丸く輝いています。Photo
そして、落語会が閉演して外に出ると、少し欠け始めたのが分かりました。
北千住の駅に着くと、からな感じ。
焼き鳥屋さんで飲んでいる間も月の様子が気になって、何度か外に出て空を見上げました。
1・・・そして、北千住の駅から帰途に着く頃は、ほとんど見えなくなり、赤くぼんやりとした月になっていました。
普段、天文に興味がある訳ではありませんが、月は好きですから、今回は天候にも恵まれ、大川からの月も眺めることも出来て良かった。
それにしても、昔の人たちは、こういう現象をどんな気持ちで見ていたのでしょうか・・・。

豚バラ串焼き

落語会が終わり、清澄白河から北千住の「雄武」へ。
「Ⅰさん」と二人の「行きつけ」の店というのでしょうか。
焼き鳥屋さんですが、最初に必ず、豚バラ串焼きを注文します。
これが美味いんです。Photo_6
北千住駅前の路地裏の焼鳥屋さん。
もう23年ぐらい行っています。1_2
と言っても、私は普段は飲みませんから、一人では絶対に行かず、必ず毎月落語にご一緒している「Ⅰさん」と二人でということなのです。
今夜はスタートが遅かったので、酒はほんの少々、後は焼鳥と〆の焼きそばでした。

特撰落語会

本当はこの落語会が本日のメインイベントだったのですが、今日はここまで色々充実した徘徊?でしたから、ちょいと疲れ気味です。
     
「特撰落語会 一龍斉貞水・柳家さん喬 長講二人会」。
   ◆  姉川の合戦           一龍斉貞鏡
   ◆  天狗裁き             柳家喬の字
   ◆  文七元結             柳家さん喬
   ◆  (義士銘々伝)三村の薪割り  一龍斉貞水
さりげなくマクラから「文七元結」へ・・・。
ちょうど、長兵衛が渡った吾妻橋を、今日は我々も歩いて渡りましたか。
下町散策で心地よい疲れの中、穏やかな雰囲気の会場でじっくり長講を聴くことができました。 

深川丼

やはり深川丼・深川飯ですよ。
深川江戸資料館の近くにある「深川釜匠」という店。
   
前回は、深川丼と深川飯のセットを注文しましたが、今日はランチが遅かったので、深川丼だけにしました。
それでも、随分ボリュームがあり、身体も温まりました。

あさりかたくさん入って、熱い汁をフーフー言いながら食べるときの幸せと言ったらもう・・・。

下町散歩③

圧巻の隅田川クルーズでした。
浜離宮で、帰りの船を待って乗船。
船内は、日の出桟橋まで行く人で、かなり混み合っていました。
そこで、船尾のデッキの椅子に座ることにしましたが、これが実に「大正解」でした。

夕方で日が沈んで暗くなって来ましたが、それほど寒くありません。
船の航跡を見ながら大川を上ろうという趣向です。
     
日の出桟橋の対岸に見えた満月。
今日は皆既月食ですから、この月がいずれ欠けるという訳。
船の最後尾からの景色は素晴らしいものでした。
オッサンが二人で、デッキではしゃいでしまいました。
下町散歩のつもりでしたが、図らずも、東京の別の顔を見ることが出来ました。
夕焼けに染まるビル群の中に、東京タワーが見えます。
船の遥か後方に、レインボーブリッジが見えます。
     
ライトアップされた東京タワーを借景に、川面を屋形船が通り過ぎて行きます。
都会と下町の見事なコントラストです。
(聖路加タワーです)
大都会の江戸と東京に接する、大変楽しい小さな旅になり、「Ⅰさん」もご満足だったようです。
船から降りて、今日のメインイベントの「特撰落語会」の会場に向かいます。
                       
・・・・と、清澄白河に着いたところで、時間もあったので、いつもの?深川丼を食べることにしました。

下町散歩②

本所吾妻橋で洋食屋さんに振られ、ランチを求めて徘徊・・・。
吾妻橋を渡って浅草へ、駒形橋方面から雷門、新仲見世から浅草公会堂の近くへ。Photo_2
このあたりは勝手知った場所ですから・・、という訳で「銀鯱」という、銀タラの粕漬けで有名な店に入りました。
二人で看板の銀タラではなく、「とろあじの一夜干し定食」を注文。
これがまた美味い
詳細は別の機会に述べることにします。
       
・・満腹になったところで、隅田川の船に乗ろうということになり、再び吾妻橋の袂の東京クルーズ「隅田川ライン」の乗り場に行きました。
天気も良いし、風もなく、それほど寒くないので、クルーズ日和です。
    
船着き場から見える対岸の様子もくっきりと。
時間もあるので、「浅草→浜離宮(下船)→日の出桟橋→浅草」というコースに決めました。
浅草から大川に架かる13の橋をくぐって行くクルーズは快適そのものでした。
浜離宮では、そろそろひが傾き始めたところでしたが、一通り散策して、帰りの船を待ちます。
     
これでは、下町散歩になりませんか・・・

Photo

1

とろあじの干物定食

浅草の「銀鯱」という店。Photo_3
本所吾妻橋の洋食屋さんに振られたので、何度か行ったことのあるこの店に行きました。
本当は、銀ダラの粕漬けが売り物の店で、魚が中心のメニューです。1_3 「Ⅰさん」と、この銀ダラでなく、「とろあじの干物定食」を注文しました。
かなり歩いて空腹だったこともあり、とにかく美味かった。
鯵は大きくて脂が乗っていて、身も厚くて。
3何と言っても、店の人が、刻んだネギとワサビとだし汁を持って来てくれて、「身をほぐしてご飯の上に乗せて、お茶漬けのようにすると最高ですよ」といわれたのがまた最高でした。
また行くことにしよう。
夜、飲みに行ってもいいかもしれない。

下町散歩①

今夜は、深川江戸資料館での「特撰落語会」で、「柳家さん喬」師匠と講談の「一龍斉貞水」先生の二人会ですが、一緒に行く予定の「Ⅰさん」から、「天気も良さそうなので、日中は下町を徘徊したい」とのリクエストがありました。
以前、落語会にご一緒した時に、建設が始まって300メートルぐらいまでになった東京スカイツリーを見に行ったことがありましたので、コースの中に入れてくれという・・。
それではと、正午に北千住駅の東武線改札口で待ち合わせ。
浅草行きの各駅停車に乗って「業平橋」で下車。
東京スカイツリーの最寄り駅、というより根元にあります。
まだまだ工事中で、来年の5月に間に合うかなぁと心配に。
私は、つい半月ぐらい前に一人で散歩に来たばかりですが、今日は別の角度から見上げることにしました。
 
付属している建物も外観は出来上がっている感じですが、周囲はまだまた・・という感じ。  
     
浅草通りにあるお寿司屋さんとすぐ裏に聳える巨大なタワーのコントラストが面白く感じました。
・・・先月行った本所吾妻橋の、某噺家さんの実家の洋食屋さんで昼食をと、歩いて行くと・・・、何と「定休日」・・・。

マウス

マウスとは良く言ったものです。
    マウス
どうもマウスの調子が良くなくて、手を動かせば反応するのですが、クリックしても反応しないので、本体で操作していました。
我慢が出来なくなったので、今度はワイヤレスタイプのものにしてみました。
以前にもワイヤレスを使ったことがあるのですが、使い勝手が悪かったので、やや心配でしたが。
まぁるい緑の山手線~の家電店に行きましたが、まあ随分種類も多く、値段も多彩です。
マニアでもない私ですから、動けばよいということで、手軽な物を選びました。
「お客さま、ポイントどうなさいますか?」
「どうするって、どうするの?」
「ポイントをお使いになりますか?」
どうやら、ポイント累計が、このマウスの価格より多いようで、
「あ、それならポイントを使います」
・・と、とりあえず「ただで」持ち帰りました。
調子いいです。
マウス・・・、「ねずみ」。
本物とイメージのギャップのある動物も珍しいと思います。

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ミッキーもジェリーもトッポジージョもネズミですが、可愛い。
ところが、本物の鼠なんて・・。

2011年12月 9日 (金)

東日本大震災の記録

昨日コンビニで買って来たDVDを視聴しました。
143分を、まばたきもせずに見入りました。
・・それにしても物凄い・・。
ちょうど9ヶ月になりますが、まだ鮮烈な記憶が残っています。
勿論、ボランティアで行った南三陸町も、避難所になっていた「ホテル観洋」も映っていました。
痛ましいけれども、後世に残す貴重な教訓・記録になることでしょう。

勝手な談志論

先日、テレビでボクシング中継をしているのに気がつきました。
某テレビ局お抱えの、あのお騒がせ兄弟のダブルタイトルマッチのようでした。
当然、すぐにチャンネルを切り替えて中継を視聴してはいませんが、通常スポーツ観戦をしていて、外国の選手やチームと対戦していると、どうしても身びいきで日本人選手やチームを応援します。
ところが、この一家に関しては、全く逆の感情で、自然に外国人選手を応援していました。
好みや贔屓というのはそれぞれ違いますから、様々な思いがあって良いと思いますが、なぜ応援したくないかというと・・・、多くの皆さんと同じ思いです。
彼らと談志師匠を比較するのは、ご本人やファンの方々に対して、大変失礼にあたると思いますが、談志師匠の毀誉褒貶の評価とも、一脈通ずるところはある気がします。
勿論、噺家として、またその演じた噺が絶賛されているというのも、紛れもない事実で、これは十分認めています。
ただ、私は素朴に、寄席演芸の原点はまず「娯楽」であると思っていますから、観客が芸人に対して緊張したり、気を遣って聴くなんて、そんな芸や芸人は認めたくありません。
師匠の先代柳家小さん師匠も、ライバルとでも言うべき古今亭志ん朝師匠も、弟弟子の柳家小三治師匠も、名人だと評価される噺家さんは、噺の前に御託を並べたり、理屈や憎まれ口を言ったりはしていません。
何も言わずに、高座の上で、自らの(話)芸を披露して、それを識見のある人たちが鑑賞して、人と芸が高く評価されているのです。
私には、御託や屁理屈が犬の遠吼えのように聞こえるし、それをずっと観て聴いて、好感を持つことが出来ませんでした。
自分が天才だというのなら、黙って芸を見せて、芸で観客を魅了してみればよいと思うのです。
談志師匠は、間違いなく「上手(じょうず)」だったかもしれませんが・・・。
「"名人"は"上手"の坂をひと登り」という言葉があります。

小三治師匠の追悼コメント

先輩の「翁家寝坊」師匠が、朝日新聞の記事を教えてくださいました。
小三治師匠の談志師匠ーの追悼コメントです。
http://www.asahi.com/showbiz/stage/rakugo/TKY201111290351.html
年齢的にも近いですし、若い頃から一番近くからご覧になっていた師匠ですから、非常に興味深く読ませていただきました。
小さん師匠も手を焼いていた弟子だったことが分かります。

乱志ひとり

17日の某大学の韓国語カルチャー講座の行事のプログラムが、講師の先生から届きました。      
        乱志ひとり
「日韓の雑談会」という趣旨で、午前10時から昼食を挟んで午後2時まで、この先生が担当している何クラスかの受講生と楽しもうというもののようです。
その中で、11時~12時の1時間をいただいて、落語を演らせていただこうという訳です。
先生の話によれば、学士会落語会で「ねずみ」を演らせていただいた時の写真が入った案内チラシ(プログラム)は、100名ぐらいの方に配ったそうで、急に緊張して来ました。
ぶっつけ本番で、会場(高座)もどんなものか分かりませんが、「座布団1枚だけはご準備ください」とお願いしてありますから、机の上に座布団を置いて、そこで演ることになるでしょう。
楽しみの反面、やや不安もありますよ。

鰍沢

シネマ落語「落語研究会 昭和の名人 参」で、先代の「金原亭馬生」師匠の「鰍沢」を聴いて、色々思うところがありました。Photo
今まで、「三遊亭圓生」師匠や「入船亭扇橋」師匠、「桂歌丸」師匠は聴きましたが、馬生師匠はあまり聴いていませんでした。
まず、旅人が鰍沢で迷ったのは、身延山参詣の前か後かということ・・。
私は、今までは何となく、甲州街道から身延道に入り、途中で法論石や小室山妙法寺にお参りし、身延山へ向かう途中で迷ったと思っていました。
ところが、馬生師匠は、身延参りの後のような感じでした。Photo_3
私はいくらか地理が分かりますが、確かに、道に迷うなら、お参り後の方が迷う可能性が高いと思います。
尤も、前でも後でも、法論石や妙法寺に立ち寄っているのなら同じですが・・・。Photo_4
それから、雪の降り方・積もり方のイメージです。
どうも、多くの噺家さんのを聴いていると、豪雪地帯で何メートルも雪が積もっている演出になっているような気がして、噺を聴くときは私でもそんなイメージでいました。Photo_2
ところが、冷静に考えてみると、昔は今より寒かっただろうし、かなりの山奥ですから、そこそこの積雪ではあったかもしれませんが、そんなに雪深い訳ではないはずなんです。
馬生師匠の演出は、この微妙なところが語られていて、目から鱗が落ちるようでした。
それから、囲炉裏で焚き木を焼べる仕草や、懐からお金を出す仕草、玉子酒に入った毒で苦しむ仕草などは、かなりリアルな演出になっていました。
考えてみれば、このお熊夫婦も、旅人が迷い込まなかったら、お熊が盛った毒で、心中までして一緒に逃げて来た亭主が死ぬ(恐らく)ことはなかっただろうに・・・。
初めてそう思わせられました。そういう壮絶な演出でもありました。
「鰍沢」・・・、私でも出来る日が来るでしょうか・・・。

2011年12月 8日 (木)

談志師匠の追悼番組

先輩の「恋し家古狂」師匠が、OB会のMLで、続々と放送された談志師匠の追悼番組をピックアップして、教えてくださいました。
・12/ 4 談志が死んだ 立川談志が愛した落語と仲間(30分)
・12/ 3 
100年インタビュー「立川談志」(90分)
・11/27 
情熱大陸(30分)
・11/26 立川談志さん追悼番組 メッセージ.jp(60分)
・11/26 立川談志さんアンコールスペシャル
      「談志・陳平の言いたいほうだい」(120
分)
・11/26 立川談志さんを偲んで
      「ハイビジョン特集 71歳の反逆児」{120
分)
・11/24 緊急特別番組「追悼 立川談志さん」(60
分)
何と合計で510分(8時間半)になるそうです。
それだけ、マスコミに露出していた、マスコミ受けする噺家さんだったという証明ですね。
好き嫌いの多い師匠ですが、大物であったことは確かだと思います。
ただ、残念ながら、私は、この全番組を視ていません。

東日本大震災の記録

コンビニで見つけ、思わず買ってしまいました。
     東日本大震災の記録
仙台の東北放送が制作した、東日本大震災の映像記録のDVD「東日本大震災の記録~3.11宮城~」です。
震災発生時・発生後の県内各地の映像や、東北放送のニュース映像、地震のメカニズムの開設等々が収録されているようです。
・・買っては来たものの、なかなかすぐにセットして視聴する気にはなりませんが、9ヶ月前の災禍を、遅ればせながら私も立った被災地の惨状を決して忘れないために、必ず視聴したいと思います。

プロの噺

映画館の大きなスクリーンで「落語研究会 昭和の名人」を聴いてみて思うこと。Photo_13
映画館で買ったプログラムには、落語研究会の会場(国立劇場)にいるような気持ちになるとありますが、そんなことはありません。
あくまでも映像でしかありません。
それから、スクリーン(スピーカー)の近くで聴いていると、音Photo_2が反響しているのが気になりました。
ちょっと大きな声の場面の数秒後に、この音がこだまのように聞こえて、かなり気になりました。
これらは、ハードの面。
じっくり聴いていると、師匠方も人の子、かなり台詞をとちったり、詰まったり、噛んだりしています。
物凄く安心しました。Photo_15
プロでも、こんなにドジっているんだから、素人の私が少しくらい噛むなどは当たり前ってなものです。
吉朝師匠も、圓楽師匠も、志ん朝師匠ですら、馬生師匠なんかもう・・。
そういう、言わば小さなミスも含んで、楽しく聴くことが出来るかどうかです。Photo_12
落研OBのMLで、談志師匠の例の「芝浜」の議論がされていました。
片や「素晴らしい」も、片や「くどいというのか、感情の入れすぎなのか、押し付けがましいのか・・・、好きになれない」という・・。
私などは、この独り善がりで、狡猾なというか不遜な芸風と声に、テレビの追悼番組すら聴いていません。

助六伝

悲しく、何とも腑に落ちない(不条理な)噺です。Photo_7
五代目三遊亭圓楽師匠の生家は、「日照山不退寺易行院」、いわゆる「助六寺」で、圓楽師匠が、実家の過去帳から史実に基いて創作した人情噺だそうです。
「助六」のモデルになった2人の墓がこの助六寺にあるという由緒あるお寺だということですが・・・。
六代目市川團十郎が建立した「助六塚」も現存するとか・・・。
吉原で十年の年季奉公が済んでお礼奉公もあと三月を残すだけとなった花魁の「小糸」のもとに通う馬道の親分「まむしの意吉」。
Photo_15いくら通っても色よい返事がもらえない意吉。
聞けば小糸が二世と交わした好(いい)人は、二の腕に「助七」と彫られた名前の男。
花川戸の下駄問屋桐生屋の下駄職だという。
悪巧みの、まむしの意吉は助七を落とし入れようと、助七が小糸の嫁入りの所帯道具のたしにでもと、友達にそそのかされて橋場の清吉親分の賭場で悪さをしているというのを小僧から聞き出した。
助七を賭場からしょっ引いて役人に突き出し小伝馬町の牢屋へ入れてしまう。
賭場の勝金十数両をまむしの意吉に横取りされたので、この牢名主に付け届けが無いと睨まれ、決められ、殴られ体中あざだらけ。
小糸に逢いたさに我慢したが、とうとう六日目の明け方に息を引き取ってしまった。
亡骸は母親のもとへ。Photo_8
嘆き悲しみにくれるが、近所の親切な桐生屋で飯炊きをさせてもらい暮らしていく事になった。
そうとも知らず、年季があけて小糸は、心が宙を飛ぶように花川戸の助七の所へ。
「こちらが助七さんのお宅でしょうか?おっかさんでいらっしゃいますか?私小糸と申します。」
助七と夫婦になると言った小糸さんですね。・・・こういうようなわけで、もう助七はいないんですよ。」
「助七さんにとって母親なら、私にとっても母親です、どうか娘だと思ってこの家に置いて下さい。」
「私の方こそ」
・・・・ということで、桐生屋へ小糸を連れて行き、ご飯焚きの仕事を母親に変わってやらせてもらった。
母親は隠居する。Photo_9
気立てのよい小糸はそつなく働き、そのうちに助七のお墓を建てることができた。
そうこうしているうちに母親が、はやり病でぽっくり、同じ墓に入れてお弔いをすませて、今日は四九日の墓参り。
と、まむしの意吉が現れて、「もう一人身なんだから、どうだ俺と所帯を持たないか、一度見込んだらおれはあきらめねぇよ」と詰め寄る。
「どうか百ヶ日まで待って下さいとその場を逃れる。」
どうしたらよいだろうと思っているうちに、はやくも百ヶ日がきた。
晴れ着を着て小糸はお墓の前に行き、「約束通り、お前さんのそばに行きますよ」と、カミソリで自害、墓にもたれかかった。
和尚が飛んできたが、あたりは血の海、野次馬が山のようにやって来た。
「女郎の誠と卵の四角、あれば晦日に月が出る」という、そんな世の中でこんなに誠と真実のある花魁がいるのか、とこれが瓦版となって江戸中の評判になったという。

これを受けて、戯作者が筆を執り、助七を「助六」、小糸を「揚巻」と直し、悪役まむしの意吉を髭の「意休」とした。
その後、助六は曽我五郎で、源家の重宝「友切丸」を探すための行状だったと、話は発展した。
正月興行で、市川團十郎が大成功を収めた。

芝居の助六の絢爛豪華な舞台の裏で事実はかように悲惨な物語であったという。
題して「江戸桜心の灯火」の一席。
実績助六伝の一節でございます。

・・「助六寿司」は何故そんな名前で呼ばれるのか・・・。Photo_6
「助六」と言えば「揚巻」、"揚げ(稲荷寿司)"と"巻き(海苔巻き)"が入っているから。
それから
、「女郎の誠と卵の四角、あれば晦日に月が出る」というのは、あり得ないことの例えで使われた言葉で、太陰暦の頃は、晦日(月末)には絶対に月は出なかったという訳で、今ではちょっと不思議な感じがします。
・・・ところで、ちょっと読んだところでは、圓楽師匠の実家の「日照山不退寺易行院」には助六の墓はないそうです。
過去帳に記されているのは「助六」で、助七ではないそうです。
このお寺にあるのは、助六と揚巻
の「比翼塚」で、歌舞伎役者七代目團十郎が建立したということです。
どうやら、圓楽師匠の「助六伝」は、師匠の創作がかなり入っているようです。 

乱志「一人会?」の準備

今月17日に、地元の某大学の韓国語の先生から、韓国語のカルチャー講座受講生の会の中の1コマで落語をやってくれと依頼されています。
実は家内が韓国語を習っていて、その先生からのオファーです。
1時間いただきました。
お客さんは、韓国語を習っている日本人の受講生。2
この先生の教室は、全部で100人ぐらいいるそうですが、50~60人ぐらいではないかということ。
受講生は、ほとんどが中年の女性。
恐らく、落語を聴いたことのない方々、しかも40歳代後半以上の女性のようですから、演題に悩むところです。
圓窓師匠には、先月の稽古の時に報告をして、師匠が創作した「救いの腕」を演らせていただくと、お許しをいただいています。
滑稽噺と人情噺を1席ずつと考えています。
今のところ、滑稽噺は「子ほめ」か「千早振る」、人情噺は「救いの腕」か「薮入り」を考えています。
韓国人の先生ですが、メール文の日本語は完璧です。
この先生から、登場するときにピアノ伴奏が付きますが、「笑点」のテーマで良いですか、と照会がありました。
即座に、「笑点」だけはご遠慮申し上げる旨返信しました。
事前にプログラムをいただくことが出来るようですが・・・。
あと10日です。
いずれにしても稽古をしておかないといけません。

暴走"族"

先日の日曜日、中国道でフェラーリなどが次々と衝突した事故では、フェラーリの一団はかなりの速度を出していたことが原因のようです。
この事故は、フェラーリ8台を含む14台が絡む事故ですが、フェラーリが集団で速度を出し過ぎていたため、操作が出来ずに1台の事故をきっかけに、次々と衝突したことが分かったそうです。
 「集団が140~160キロで走り、1台がスピンして巻き込みながら、みんなぐちゃぐちゃになって・・・」と。
最高速度は80キロで、当時は路面が濡れていた中で、車の性能を楽しんでいたとみられているそうです。
こういうのを「暴走」といい、徒党を組んだら「暴走族」といい、ルールや秩序を乱す輩と言われるのではないですか?
フェラーリを所有できる人というのは、それなりのレベルの人のはず?で、徒党を組むなんていうのは・・、もっと大人にならなくては。
「帯久」の大岡越前守の沙汰のように、きつぅぅく締め付けて欲しいものです。
以上、再び貧乏人の遠吠えでした。

2011年12月 7日 (水)

花伝舎落語発表会

西新宿にある「芸能花伝舎」。
そこで、落語芸術協会の噺家さんたちのご指導による「落語体験入門」という、いわば落語講座(教室)があります。
落研の「破れ家笑児」さんは、ここの卒業生?で「花伝亭上の空」という名前を持っています。
この第17期の発表会が、12月8日に開催されます。
実は、この「初級」と「中級」のクラスに、私の知っている方が参加しています。
ご本人から「他言厳禁」と釘を刺されていますので、口の堅い私は言いませんが。
不幸にして?落語中毒に感染してしまった方々です。
本当は、聴きに行きたいのですが、仕事の都合もあって、行けそうにありませんが、是非頑張っていただきたいと思います。
http://www.geidankyo.or.jp/12kaden/05ivent/pdf/rakugo17.pdf
◇「落語体験入門」~落語のお稽古を体験してみよう~
人を惹きつける話し方や仕草を、落語から学んでみませんか?
芸団協と落語芸術協会が主催する、一般の方向け落語講座。扇子・手ぬぐいの使い方などの基本から、寄席鑑賞、小噺や※落語の発表まで。協会所属の噺家だからこそ、安心かつ本格的な指導。講師陣も充実しています。初心者の方も多数ご参加いただいている毎期大人気の講座です。
  (※)落語・・・「牛ほめ」「たらちね」「真田小僧」「狸札」を予定
【コース】初級:全8回
【日程】第17期:全日程木曜日
①9/29②10/6③10/20[新宿末廣亭鑑賞日]④10/27⑤11/10⑥11/24⑦12/1⑧12/8[発表会] (全8回)
【時間】昼の部:14:00~ 夜の部:18:45~

「志の輔らくごinPARCO」落選

e+(イープラス)から事務的なメール。
e+をご利用いただきまして、誠にありがとうございます。
○○様の下記申込みについては、抽選の結果、チケットをご用意することができませんでした。
  公演名   : 志の輔らくご in PARCO 2012
  会場名   : PARCO劇場
・・・相変わらずの超人気ぶりです。
6000円もするのに。
特に、どうしてもとは思わないし、一般発売全日即日完売でしょうから、これ以上は追いかけません。

大雪

12月7日は、二十四節気の「大雪」。Photo_7
大雪とは、山岳ばかりでなく平野にも雪が降り積もる季節ということからついた呼び名です。
この頃になると九州地方でも氷が張ります。
鰤などの冬の魚の漁が盛んになり、熊が冬眠に入り、南天の実が赤く色付くころ。

源流遡行

釣りの好きな方にはお馴染みの言葉のようです。
        東京書作展
「多趣味亭こり生」さんこと「神永渓山」さんの作品「源流遡行」。
ある川のもととなる水の流れにさからって行くこと。川の下流から上流(物事の起こり・始まり・起源)へさかのぼって行くこと。
常に基本に戻ること、初心に帰ることが大切なんでしょう。
こり生さんからメールが来て、特別賞を受賞して「審査会員」になったというのは、真打に昇進したようなものなんだそうです。
なるほど・・・。

2011年12月 6日 (火)

鯨の立田揚げ

モーターショーを観覧した後は、新橋で同僚と二人で一杯。
鯨の立田揚げ
鯨の立田揚げがあったので、懐かしさに早速注文。
・・・?こんな味だったかなぁ・・・?
もっと、硬くて、筋があったように記憶していましたが・・・。
どうして鯨を食べてはいけないのでしょうか?

東京モーターショー

子どもの頃のモーターショーというのは、行ったこともない夢のような場所でした。
高度成長期の日本のモータリーゼーションが急拡大しつつあった時代のことです。
長じて社会に出てからは、オイルショック後の苦しい時期もありましたが、晴海から幕張メッセに会場も移り、何度か通ったものでした。東京モーターショー
時はパワーとデザイン最優先の時代から、環境と燃費の時代へと移り、もはや自動車というのは、憧れから、単なる移動の道具になりつつあります。
東京モーターショー
それでも、かつての男の子は、身体のどこかに自動車への憧れが残っています。
でも、だからと言って、高級スポーツカーで群れて高速道路を爆走するような愚かなことは考えませんし、高額な車を手に入れる甲斐性もありません。。
・・・東京ビックサイトで開催中の今年のモーターショーは、平日は夜8時までオープンしているということで、仕事が終わった後で、会社の若手の同僚と、新橋からゆりかもめに乗りました。
東京モーターショー昔のようなときめきはなく、驚くような展示車も少なく、一通り会場内を駆け足で回りました。
どのメーカーの車も、同じような顔、同じようなプロポーション、同じようなコンセプトで、これといって心に残るモデルはありませんでした。
それでも、約1時間程度でしたが、童心?に戻って、とても楽しい時間を過ごすことができました。


・・でも、やはりわが愛車が一番だと思いました。

貧乏人のひがみ

先日の日曜日、高速道路で高級外車10台以上が絡んだ多重衝突事故があったそうです。Photo_11
フェラーリが8台・ランボルギーニ1台・ベンツ2台・・・・・。
事故は不幸なことでしたが、正直なところ、あまり同情やお見舞いの気持ちが湧かないのは、一体どういう訳でしょう。
不謹慎かもしれませんが、本音です。
何て言うのでしょうねぇぇ。
らくだが死んだと聞いた時の大家さんのような気持ち・・?
貧乏人は嫌ですね。

手帳・カレンダー

来年の手帳やカレンダーを準備する時期になりました。
      
生来ずぼらな私は、いまだかつて日記や手帳や予定表の類を1年通して使えたことがありません。
当初は、今年こそまめに書き込もう、との意気込みはあるのですが、1ヶ月・2ヶ月と経つうちに、書き込みがほとんどなくなり、ただ背広の内ポケットに入れてあるだけの状態になっています。

来年の手帳(B6サイズ)で、面白いものを見つけたので買いました。
「江戸帖」という、実に"江戸チックな"手帳です。
表紙カバーが数種類あるようで、私は「吉原繋ぎ」を選びました。
      
ちょっと遊んで、表紙を開いたページに高座の写真を貼りました。
      
最終ページに、「金願亭乱志」のめくりの写真を貼りました。
毎日鞄に入れて持ち歩こうと思います。
今度(来年)こそ・・大晦日まで・・と思いつつ。
・・駄目だろうなぁぁぁ。

お初徳兵衛浮名桟橋の音源

「お初徳兵衛浮名桟橋」にチャレンジしようと思っています。
「人形町らくだ亭」で、五街道雲助師匠の「お初徳兵衛浮名桟橋」を聴きました。
すぐに「落語の蔵」に配信されると思い、首を長くして待っていたところ、やっと配信されましたので、早速購入しようと思います。660円。
五街道雲助師匠の「お初徳兵衛浮名桟橋」の紹介です。
江戸時代から伝わる人情噺で、戦後の落語界では五代目古今亭志ん生、十代目金原亭馬生の親子が得意としていた「御家芸」。演者の雲助師匠は十代目馬生門下で、当代における人情噺・怪談噺の第一人者として知られていますが、この『お初徳兵衛浮名桟橋』は中でも十八番の演目。Photo_5
身から出た錆とはいえ、勘当されて大店の若旦那から船頭に身を落とした徳兵衛のやるせなさは師匠譲りで、ちょっと一寸真似手のない妙味のある逸品。
また、柳橋随一、それも「男嫌い」で知られた芸者お初が、夏の隅田川に浮かぶ屋根船の船中で見せる「キリッとした色気」も味わいのあるもの。
さらに、帰り船を襲う突然の夕立、首尾の松あたりにもやう船には美男の船頭と美人芸者がふたりきりと、江戸情緒溢れる舞台設定の中、船頭と芸者の甘く、切ない恋模様が墨絵のように描かれていきます。
「お初徳兵衛浮名桟橋」の粗筋を簡単に説明します。
大店の若旦那・徳兵衛は花柳界での遊びが過ぎて勘当され、柳橋の船宿で居候をしていた。
ところが、父親が夫婦養子を取ったと聞いて、復縁を諦め、船頭に身を落とす。
見る間に腕前を上げた徳兵衛、生来の二枚目だけにすぐ人気船頭になった。
ある夏の日、客ふたりと「柳橋随一で、しかも男嫌い」と評判の芸者お初を屋根船で吉原へ送るが、吉原に他の土地の芸者が入ると嫌がられる。そこで客ふたりだけが吉原へ。
「ひとり船頭にひとり芸者の乗合いは花柳界の御法度」を承知で、徳兵衛がお初を柳橋へ送ることになる。
すると俄かにやらずの雨。
船を首尾の松辺りにもやうと、お初が「じつは幼い頃から若旦那が好きだった」と思わぬ告白をはじめた。雨は静かに降り続いている・・・。
この噺は、江戸時代から伝わる人情噺の冒頭の部分で、戦後は五代目古今亭志ん生から長男の十代目金原亭馬生師匠へ伝わった、古今亭一門の「御家芸」とでもいうべき噺です。五街道雲助師匠は、この十代目馬生門下で、人情噺・怪談噺の名手として名高く、この噺も20年ぐらい前の初演以来、得意ネタになっているようです。
徳兵衛が船頭になるくだりの「切ない若旦那ぶり」は馬生師匠譲り。
吉原へ向かう船中ではお初の風情が色っぽく、背景の大川の流れや雨が墨絵のように目に浮かびます。
お初が思いを打ち明けて迫るセリフ、「後生・・・」の哀れに切ない情感や、二人のやりとり・・・、上手く出来ればなぁ・・・。

落語の「四天王」各種

明治時代の「珍芸四天王」というのは、「ステテコ踊りの三遊亭圓遊」、「ラッパ吹きの橘家圓太郎」、「ヘラヘラ節の三遊亭萬橘」、「釜掘りの立川談志」の4人です。
よく、色々な分野で上手い人を何人かまとめて、"御三家"とか"四天王”などという称号?で表現されますが、落語に関しても「四天王」が何種類もあります。
■昭和の落語四天王
  五
代目春風亭柳朝・代目古今亭志ん朝・五代目三遊亭圓楽
  ・七
代目立川談志
  ※柳朝師匠没後に、当代橘家圓蔵師匠を入れる人がいますが、
    私は反対です。

圓朝四天王 - 圓朝門下の俊英
  
初代三遊亭圓馬・三代目三遊亭圓生・四代目三遊亭圓生
  
・二代目  三遊亭圓橘
睦の四天王 - 「落語睦会」の若手
  
代目桂文楽・六代目春風亭柳橋・、二代目桂小文治
  ・三
代目春風亭柳好
    ※「
睦会」結成当時、4人を次々と真打にして大々的に売り出した
       そうです。

上方落語四天王 (明治時代) - 初代桂文枝の高弟
  
初代桂文三(後の二代目桂文枝)・二代目桂文都
  
(後の月亭文都)・初代桂文之助(後の二世曽呂利新左衛門
  ・
初代桂文團治
上方落語四天王 - 戦後衰退していた上方落語を立て直し
  六
代目笑福亭松鶴・三代目桂米朝・五代目桂文枝
  ・三
代目桂春団治
■五代目圓
楽一門四天王
  
三遊亭鳳楽・三遊亭好楽・六代目三遊亭圓橘
  ・六
代目三遊亭圓楽
立川流四天王
  
立川志の輔・立川志らく立川談春・立川談笑
□あおば亭四天王 ‐ 我が落研
  南亭蕪生・桂友楽・談亭志ん志・喰亭寝蔵
・・・納得出来るものもあれば、「?」と思う軽い四天王もいます。

「番外あおば亭」のチラシ

早速「番外あおば亭」のチラシを作ってみました。
   「番外あおば亭」のチラシ
基本的には、「お江戸あおば亭」のものを使い、今回出演する「重度落語中毒感染者」5名の写真を入れてみました。
まだ、細かな日程などが未確定ですから、これから変更して行きます。

地域文化財

新宿区は、来年4月施行の区文化財保護条例の一部改正に伴い新たにできた「地域文化財」に、「新宿末廣亭」や神楽坂の芸者が唄や踊りを披露する「神楽坂をどり」など10件を認定したそうです。Photo_4
これまで文化財の対象にならなかった、戦後から高度経済成長期に作られて地域に受け継がれている「もの」や「場所」を次世代につなげていくのが狙いだそうで、新たな文化財制度をつくるのは23区では初だということです。
地震や火災などのために、建物への様々な規制が厳しくなっているところ、それはそれとして、残せるものなら残しておきたいものです。

2011年12月 5日 (月)

"駄楽忌"・・・・

5年前の2006年12月5日の早暁、東北大学落語研究部創部のリーダーで初代部長の「麻雀亭駄楽」師匠が急逝されました。Img_0147
あれから5年、駄楽師匠の遺志を継いで、残された我々なりに一所懸命頑張り、その描いていらっしゃったOB会のイメージの何分の一かは、何とか実現することが出来たものと自負しています。
例えば、創部50周年の様々な記念活動、東京でのOB落語会開催の定着化、世代を超えたOB・現役との交流、他大学OBとの交流等々・・・。
忘れもしない、亡くなる直前の11月23日、駄楽師匠と二人だけで杯を傾けながら語り合ったこと、「駄楽乱志二人会」のこと・・・。
結局、二人会は実現できませんでした。
その他のあの時の約束も、まだまだ道半ばですが、毎年少しずつでもご報告が出来るようにしたいと思っています。
駄楽師匠・・・
  ・ご盟友の三遊亭圓窓師匠に師事することが出来ました。
  ・東京でのOB落語会「お江戸あおば亭」が定着しつつあります。
  ・東日本大震災のボランティア活動もやりました。
  ・OB会の会報「あおば亭」も創刊しました。
  ・年代を超えたOB同士の交流も広がりつつあります。
              ・・これだけはご報告しようと思います。
改めてご冥福をお祈りします。
あの時に駄楽師匠に宣言した「子別れ(子はかすがい)」は、未だ我が芸拙く、チャレンジすることが出来ませんが、いずれ必ず約束は果たしたいと思います。

地下鉄でのインターネット

読売新聞の記事。
東京都と東京メトロは2日、来年中に都営地下鉄とメトロのほぼ全線で、走行中でもスマートフォンなどでインターネットやメールなどが利用できる通信サービスを開始すると発表した。
都営大江戸線の一部区間を除く都営とメトロの全線で、利用できるようにする。
都営新宿線の新宿―九段下駅間、東京メトロ南北線の本駒込―赤羽岩淵駅間では、それぞれ先行工事を実施し、今年度中にサービスをスタートさせる。
走行中に着信も可能になるが、都では「電車内ではネット接続やメールの送受信に限定し、マナーを守ってほしい」としている。
・・・後は、いつものことながらマナーの問題ですね。

これからの演題・・・

さて、これからどんな噺をしようか・・・・。
 ・12月17日(土)   「子ほめ」・「救いの腕」 (2席)
   ~某大学韓国語カルチャー講座で【金願亭乱志】
 ・ 2月25日(土)   「笠と赤い風車」(平岩弓枝作)
   ~OB落語会「番外あおば亭」で【金願亭乱志】
 ・ 3月 4日(日)   「藪入り」
   ~落語っ子連・三流亭発表会で【三流亭流三】
 ・ 3月25日(日)   「揺れるとき」(三遊亭圓窓作)
   ~扇子っ子連・千早亭発表会で【千早亭永久】
 ・ 5月 某日(土)   「お初徳兵衛浮名桟橋」
金願亭乱志金願亭乱志1

いつも聴きに来てくれる叔父夫妻を前に、なるべく同じ噺をしないようにと考えていますが、これだけ高座の機会が重なると、さすがの私でも?大変です。
また、噺の数をこなした結果、ひとつひとつの噺が雑になってはいけませんし、同じ噺を何度か演って、さらに練り上げて行くことも必要だと思います。
そういう意味で、「笠と赤い風車」は、昨年仙台で一度演っただけですから、番外編にぶつけよう。
落語っ子連の稽古会で、何度も師匠からご指導いただいているから、三流亭は「薮入り」を再度演ってみよう。
      
「揺れるとき」を師匠が創作されたきっかけのひとつが、東日本大震災で延期した千早亭だったから、演るならここでやらせていただこう。
5月(予定)の「あおば亭」では、破れ家笑児さんの「船徳」とセットの趣向で、「お初徳兵衛浮名桟橋」にしよう。
・・・こんな感じでしょうか。

談志師匠の死は

ここのところよく、あまり落語に詳しくない知人複数から、「立川談志(師匠)の死は、落語界にとっては大きな出来事なの?」とか、「これからの落語界に大きな影響が出るの?」などと尋ねられます。
私は、「(落語に詳しくないあなたが)知っていて、疑問(興味)が湧くんだから、ビッグニュースでしょ」とか、「何があってもなくても、明日は来ます。なるようにしかなりません」と答えています。
Photo 様々な賛辞が寄せられていますが、私は毀誉褒貶のある噺家さんだったと思うだけです。
「こんな噺家は二度と出ない」と私も思います。
同時に出なくても良いと思います。
別の個性や技量を持った、素晴らしい噺家さんが出て来ます。
五(七)代目立川談志は、この方だけで良いし、似た人が出て来る必要もないし、期待もしていません。
かつて、五(七)代目立川談志という、目立つ噺家さんがいたと、歴史には記されるでしょう。

2011年12月 4日 (日)

ラジオ寄席

ラジオ寄席はいつもの通りの番組。追悼番組ではありません。
 写真は、昼間出ていた月です。
  ◇ 替り目    三遊亭小遊三
今日も何席落語を聴きましたか・・・・
・落語DEデートでは、「七段目(二代目三遊亭圓歌)」
・落語はやおき亭では、「六尺棒(立川談志)」  
・落語シネマ 昭和の名人では、 「不動坊(桂吉朝)」
                     「助六伝(三遊亭圓楽)」
                     「三方一両損(古今亭志ん朝)」
                         「鰍沢(金原亭馬生)」
・ラジオ寄席では、「替り目(三遊亭小遊三)」
                   ・・・数えると、7席になりますよ。    

シネマ落語・昭和の名人

池袋のサンシャインを出て、東銀座に向かいました。
「落語研究会 昭和の名人・参」が公開されているのです。
   東劇1階のチケット売り場で。
もう第1回目は始まっているのですが、全席自由席で入れ替えなしということなので。
     昭和の名人
   ◇ 不動坊        桂吉朝
   ◇ 実説 助六伝    三遊亭圓楽
   ◇ 三方一両損     古今亭志ん朝
   ◇ 鰍沢          金原亭馬生 
     昭和の名人
圓楽師匠の途中から聴き始めましたので、私の今日のトリは吉朝さんでした。
考えてみると、今日の4人は、リアルタイムで聴いたことのある師匠ばかりで、かえって、亡くなっているという実感が湧きません。
圓楽師匠以外の3人は、志ん朝師匠が63歳、馬生師匠が55歳、吉朝師匠は50歳で亡くなったのですから、本当に残念な夭折です。
     昭和の名人
ところで、東劇のロビーには、マッサージチェアが数台設置されています。暫くの間、ここでリラックスさせてもらいました。    

就職活動

池袋のサンシャインに向かう地下通路から、ずっと行列が出来ていました。
まさか「東京書作展」な訳はありませんが、大学生らしき若者たちが、スーツを着て並んでいます。
  就職活動  就職活動
就職活動再来年の就職戦線が始まっています。
「就活ナビ」とか何とか・・、会社説明会でもするのでしょうか?
何かこう・・、恐ろしさを感じました。
みんな金太郎飴のように、大量に、機械的に・・・、就活をしている。
どこか違う気がしました。
来年3月の新卒者の内定率も、相変わらず厳しいようで、いたたまれない気がします。
我が愚息は、今春何とか某社に滑り込むことが出来ましたが、本当にホッとしたものでした。

東京書作展

池袋のサンシャイン文化会館での「東京書作展」。
落研同期の「多趣味亭こり生」さんの作品が展示されています。
      東京書作展    東京書作展
              東京書作展
こり生さんによれば、今回「依嘱」という立場(地位?)の最終の賞である「特別賞」を受賞したんだそうです。
来年からは、「審査会員」になることが出来るということです。
・・・ということは、二つ目に昇進した感じか、あるいは真打かということでしょう。
いずれにしてもおめでたいことです。
東京書作展 東京書作展
恐らく、「源流遡行」と読むと思います。
う~ん、思わず感じ入る言葉です。
彼の芸・・、いや作風は、かなり大胆で力強く、墨はやや淡く使うのですが、顔と作品がぴったりです。
        東京書作展
確かに、「特別賞・依嘱・神永渓山」とありました。
彼の家と勤務する高校は、福島県と茨城県の県境近くで、恐らく大震災の影響が消えてはいないと思います。
そんな中での大作「源流遡行」です。
本人は、表彰式に合わせて上京したため、今日は会場にいなかったので、会うことはできませんでしたが・・・。
羨ましい・・・。
私は、負けずに、落語に打ち込むことにします。

談志追悼「落語はやおき亭」

今朝は立川談志師匠の追悼プログラムになっていました。
   ◇ 六尺棒    立川談志
文化放送の談志師匠の番組で放送されたもので、スタジオ録音なのが残念でした。
番組の最終回の録音で、予定外に「ちょいとやってやる」ということだったそうで、洋服で椅子に座ったままのものだったそうです。

冬の朝

昨日までの冷たい雨と打って変わって、今朝は快晴。
・・ですが、風が強くて寒い朝です。 
冬の朝 冬の朝
駅に向かう道には落ち葉が舞っています。
それでも、まだ枝には葉もかなり残っています。
真っ青な空に、木々の黄色や赤の葉が鮮やかです。
来週は、二十四節季の大雪のはずですが・・・。

落語DEデート

「しまった!今朝も先週と同じように聴き逃した!」
文化放送の5時台に並ぶ宗教の番組を聴いていて、いよいよあと5分で「落語DEデート」だというあたりで、眠ってしまうというパターン。
目覚めると、志の輔さんがゲストの女優さんと、富山県を舞台にした映画が封切られている話題になっている・・・。
「トホホ・・、今朝も落語の部分だけ意識不明だった」と思っていると、「それでは今朝聴いていただく落語は・・・」。
という訳で、今朝は聴くことが出来ました。
  ◇ 七段目    二代目三遊亭圓歌
あの「七段目」を14分ぐらいでお演りになっている圓歌師匠でした。

稽古会お休み

師匠のご都合が悪くなり、「へ組」稽古会はお休み。
  落語っ子連「ん組」稽古会 稽古会 稽古会
「ん組」の私は、欲張って参加するつもりでいましたので残念。
何と言っても師匠に「揺れるとき」のお許しをいただこうと思っていましたから・・・。

2011年12月 3日 (土)

真打競演

土曜日の夜8時というのは、眠いですね。
もう沈没寸前でした。
 ◇ 目黒のさんま   柳亭市馬
・・やや季節外れの感がありますね。

番外あおば亭

「番外あおば亭」という名前にしようと思います。
それから、日程が2月25日(土)に落ち着きそうです。Photo_3
お楽しみゲストのスケジュールの都合で、2月は25日しか空いていないということで・・・。
それはそれで良いのですが・・・、ハタと気がついたことがあります。
まず、当日は「大手町落語会」があり、既に先行販売でチケットを購入してしまっていること。
普段なら、落語好きの友人に譲るのですが、私の友人には、「あおば亭」に来てもらいたいし・・・。
これから誰か探さないといけません。
それから、高座のスケジュールがタイトになること。
  ・2月25日(土)  番外あおば亭
  ・3月3日・4日  落語っ子連・三流亭
  ・3月25日(日)   扇子っ子連・千早亭
           ・・・ということになってしまいます。
なるべく同じ噺にならないように、新しい噺にチャレンジしたいのですが、雑になってもいけないので、演題を考えようと思います。

談志師匠の「お別れの会」

読売新聞より。
故立川談志氏(落語家、元参院議員)のお別れの会 21日、東京都千代田区紀尾井町4の1ホテルニューオータニ本館鶴の間。
午後3時30分から同5時まで一般の献花と記帳を受け付け、お別れの会は関係者で行う。
・・・一般の弔問・記帳も受け付けるそうで。

東京書作展

落研同期の多趣味亭こり生さんは、書道での号を「神永溪山」というのですが、今回、大きな賞を受賞したそうです。
「東京書作展」の紹介の中で以下の文を見つけました。
第三十三回東京書作展依嘱の部(今回対象百九十九人)において、・・・、神永溪山、・・・の十人が特別賞に選ばれた。
特別賞の各氏は審査会員推挙となり、将来の東京書作展の担い手として嘱望されている。
・・・そうか、いよいよ「二つ目」に昇進したという感じなのかな・・と思いました。
今度の日曜日(明日)まで、サンシャインシティ文化会館でやっていますので、作品「源流遡行」を拝見しに行こうと思っています。
      書作展
これは昨年の作品。「筆山駕馭(ひつざんがぎょ)」。

小学三年生・小学四年生

昔の小学生が読んでいた、定番の月刊誌が休刊するという、産経新聞のニュース。
Photo 「小学館」は、月刊学習雑誌「小学三年生」と「小学四年生」を来年2月発売の3月号で休刊すると発表した。
四年生は大正12年、三年生は同13年に創刊。
昭和48年には、三年生が4月号で102万部、四年生も同号で82万部の最大部数を記録したが、今年度に入ってからは、3年生が4-5万部、4年生は3-4万部になっていた。
休刊の理由について、小学館広報室は「『学年別』『男女共通』で『総合的な内容を持つ』雑誌という刊行形態の枠内では、成長と変化が著しい小学生世代のニーズに必ずしも合致しないという現状になってきている」と、児童の趣味や価値観の多様化を挙げている。
同社の学習雑誌では、「小学五年生」「小学六年生」の2誌が平成21年度内で休刊。残る「小学一年生」「小学二年生」については、来年度以降も発行する予定という。
いずれ、ぴっかぴかの一年生「小学一年生」「小学二年生」も休刊になるのでしょう。
・・・少子高齢化・価値観の多様化・電子化の影響でしょう。
私は、学研の「学習」「科学」を買ってもらいましたが、これらは既に廃刊になっています。
「小学館」さんは、今は落語に力を入れてくれていますので、ここは頑張って欲しいと思います。
オジサンのささやかな願いです。

明日の落語はやおき亭

文化放送の「落語の蔵」のメルマガから・・・。
12月4日午前7時~の文化放送「天下たい平!落語はやおき亭」は、立川談志追悼特別プログラムをお届けします。
・・だそうです。

先輩のブログ

落研の先輩「初代内気家てれ生」師匠のブログに、先月の「お江あおば亭」のことがアップPhoto_2されていました。 Photo_6
http://blog.bil-doctor.jp/?eid=1242767
いつも、色々なアドバイスやご意見を言ってくださる先輩です。
落語や落研に対する熱い思いは同じです。

郭巨(かっきょ)の釜掘り

四代目立川談志の「郭巨(かっきょ)の釜掘り」とは・・?
「郭巨」というのは、中国後漢の人の名前です。Photo_3
後漢の人郭巨は貧困のため老母と三歳になる男子を養えなくなり、悩んだ郭巨は遂に「家貧乏にして児を養育する事難し、是を育てんと欲すれば老親への孝の妨となる。
又、老母が食を割いて孫に給与せらるる事も孝のさまたげとなる。
故に今、汝と共に子を捨て、母を養わん。児は再び有るべし、母は再び得べからず。」と決心を妻に告白した。
夫の悩む姿を見続けていた妻もその言葉に服したので、郭巨は児を埋めるべく地を掘った。
郭巨が鍬を振り降ろすと地中より黄金一釜(六斗四升、五升の説も)が出てきた。
一札あって「天賜孝子郭巨、官不得奪、人不得取」と記され、母に孝養を尽くせたという。
「二十四孝」というのは、は古代中国の代表的な孝行者24人のことで、元の時代に郭巨敬がこの24人の伝と詩を記した二十四孝を著したそうです。
落語にも「二十四孝」という噺があり、この24人の
うち、「王祥と鯉」・「孟宗と筍」・「呉猛と酒」・「郭巨の釜掘り」・「王褒と雷」の5人が登場しています。
親孝行はしなくては駄目ですね。

新大関の口上

「謹んでお受けいたします。大関の名を汚さぬように精進します。」・・・大関に推挙された稀勢の里の口上です。Photo_5
とてもいいと思います。
普段使ったこともなく、意味も分からない四字熟語を並べるより、ずっといい。
「不惜身命」「一意専心」・・「万理一空」・・。
とにかく「満員御礼」も出づらくなっているのですから。

2011年12月 2日 (金)

赤坂「凡」で

6月と12月の第一金曜日は、必ずこの店に集まります。
赤坂「凡」で 赤坂「凡」で
赤坂のTBSの前にある「凡(ぼん)」。
http://r.gnavi.co.jp/a304400/
Photo_3かつての仲間が定期的に集う店です。
売り物は、もつ鍋のほかに、鮪のカマ塩焼きが絶品です。
今回も、当時のボスを中心に10名が集まりました。
Photo_2昭和から平成になった頃、このボスの元で働いた仲間たちです。
今はそれぞれ違う道に進み、仕事も変わっていますが、この日を楽しみに集まって来ます。
Photo_4どんな魅力があるんだろう・・。分からない。
でも、みんな若くて輝いていて、世の中を自分たちが動かしているぐらいの気概でいた頃だっただけは確かです。
今夜も楽しかった・・・。
次回は、来年6月の第一金曜日(6月1日)です。

立川談志代々

先日亡くなった談志師匠は五代目で通っていましたが、これはあくまでも自称で、実は七代目になるようです。Photo
これは明治時代の寄席で「(珍芸の)四天王」の一人として人気を博していた「釜堀りの談志(四代目)」が初代を称し、俥屋の談志(六代目)がそれに倣って四代目と称していたので、五代目というのは語呂が良く、さらに師匠の五代目柳家小さんと代数が合うので、五代目を名乗ることになったそうです。
談志代々を覗いてみます。
①初代   - 後の二代目菅良助。
②二代目  - のち初代三笑亭可楽の門下で宇治新口を名乗る。
                 こちらの談志の方が初代だとする説もある。
③三代目 - 「花咲爺の談志」。本名、三宅岩太郎。
④四代目 - 「釜堀りの談志」。江戸二代目桂才賀の門下。
       本名、中森定吉。
⑤五代目 - 後の柳家金太夫。本名、恒川駒吉。
    ※五代目と六代目の間にもう一人談志がおり、東西会に
      所属していたようであるが、詳細不明。
⑥六代目 - 得意な演目から「反対俥の談志」「俥屋の談志」。
        性格の良さから「お結構の談志」。
                五代目三升家小勝の門下。本名、竹内栄次郎。
⑦(七代目) 自称五代目の、先日亡くなった談志。

六代目は性格が良くても七(五)代目は・・・だったということで、名跡は継いでも芸や性格は関係ないようです。
歴代の談志の中で、特に目立つのは「四代目」でしょう。

四代目は、最初二代目桂才賀の門で才太郎といいのちに才次郎、六代目桂文治の門で文鏡から1877年頃に四代目立川談志。
扇子一本で真打を務める実力者であったが、「ステテコの」初代三遊亭圓遊、「ヘラヘラ節の」初代三遊亭萬橘、「ラッパの」 四代目橘家圓太郎と共に明治の「珍芸の四天王」と言われもてはやされた。

「郭巨(かっきょ)の釜掘り」で人気を博したそうです。Photo_2
どんなものだつたのか、以前六代目三遊亭圓生師匠の「圓生百席」だったか、圓生師匠が真似たのを聴いた記憶があります。
落語を一席やった後羽織を後ろ前に来て、手拭いを4つにたたんで後ろ捻り鉢巻を、扇子を半開きにして衿元へはさみ、座布団を脇に抱え『そろそろ始まる郭巨の釜掘り、テケレッツのパッ!。』と言い『アジャラカモクレン、キンチャン(客)、テケレッツのパッ!。カマール(集まる)セキテイ(席亭)喜ぶ。テケレッツのパッ!……』などと言い高座を歩き回る。今度は座布団をそばに置き、扇子をに見立てて土を掘る仕草をし『この子あっては孝行はできない、テケレッツのパッ!。天から金釜郭巨にあたえるテケレッツのパッ!。皆さん孝行しなさいよテケレッツのパッ!。……』と言うこれらを単純に繰り返す芸であった。
私が聴いた圓生師匠のは、「今の談志は参議院議員だ、テケレッツのパ!」とか、「あいつが怒ると私は恐いよ、テケレッツのパ!」なんていうパロディ文句が入っていたと記憶しています。
まぁ、のんびりとしたリズムでした。
テケレッツのパ

落語関連のDM

落語のCDやDVD販売のDMが送られて来ます。
落語関連のDM
志ん朝師匠や圓生師匠のもので、特に志ん朝師匠は没後10年経過して、初出し音源を謳うセット物が多く出はじめています。
しかし、基本は生で聴くことです。
ただ、自分が落語を演るという観点からいえば、DVDは大変参考になります。

大工調べ

「大工調べ」のことで。
頭はちょっと弱いが腕の良い大工の与太郎を、棟梁の政五郎は何かと面倒をみていた。
「でっけえ仕事が入ったから道具箱を出せ」と言うと、溜めた店賃のカタに大家に持って
いかれてないと言う。Photo_6
八百足りないが手持ちの一両二分を持たせて大家のところへ行かせたが、金が足りないと追い返されて来た。
棟梁が出向いて頭を下げるが「タカが八百」との言い種が気に入らないと口論となり、
棟梁が大家の素性について啖呵をきり、遂には奉行所へ訴える騒ぎになる。
お白州での奉行の裁きは、与太郎は不足分八百を支払い、大家は直ちに道具箱を返すこと、日延べ猶予は相成らぬ。
ところで、大家は質株を持っておろうの?「ございません」
「何と質株を持たずして、他人の物品を預かり置くはご法度、罪に代えて二十日間の手間
賃を与太郎に支払え」と沙汰した後で、奉行が「ちと儲かったか、さすが、大工は棟梁」
政五郎答えて「へえ、調べを御覧じろ」
1両2分と800の滞納で身動きできない与太郎に、棟梁は持ち合わせの金1両と2分を渡した。Photo_7
「1両2分800のところ、800持っていくのではなく1両2分持っていくのだから、800は御の字で”あたぼう”だ」と言う。
江戸っ子は、柄は悪いかもしれませんが、正直者が多いはずで、この棟梁の了見はおかしいと思います。
たとえ僅かでも足りないものはたりない訳で、ここは平身低頭を貫くのが人の道だと思います。
ところが、「
たかが800」だとか、「若い者に800放り込ませます」とか、火に油を注ぐような言動を重ねます。
「たかが」なのかどうかは、棟梁が決めるのではなく、大家さんが判断するものでしょう。
その「たかが800」すら、持ち合わせていなかったのだから。
あの時代は、親孝行が錦の御旗になっていた部分もあるでしょうが、ここは棟梁の方に非があると思うのです。
大岡越前の裁きも、棟梁に
「あと800を与太郎に貸し与え、ここで返金できないか。」ということで、道具は即刻返してもらうことになり、大家の勝訴というものでした。
ところが、鑑札云々の話になって行き、大家さんに不利な裁きになって行く・・・。
ここがどうも納得できないのです。
だから、私は、この噺はやりたいと思いません。

2011年12月 1日 (木)

寒気

今日から師走。
天気予報によれば、最高気温が昨日より12℃も低くなるとか。
今までが暖か過ぎたのでしょうが、体調管理が難しい。
今シーズン初めてコートを着ました。

広瀬さんの評論

広瀬さんのいつもの評論も、落語協会と落語芸術協会の格差に及びます。201008112121001
落語協会と落語芸術協会(芸協)という東京落語界の「二大協会」のうち、五代目古今亭今輔や春風亭柳昇、桂米丸といった人気者を輩出した芸協は、伝統的に新作派の勢いが強く、テレビやラジオといったマスメディアでタレントとして名を売る「大衆派」が目立つ。
「昭和の名人」の一人に挙げられる三代目桂三木助が晩年に芸協から落語協会へ移籍したのも、そうした「協会の色の違い」が関係していただろう。201008112121002
1960年代のテレビ演芸ブームに対する反動としての評論家による「本格古典落語」称揚の動きは、いつしか「新作派が強くタレント落語家が多い」芸協を、落語協会よりも一段低く見るような風潮を生んだ。
1984年に上野鈴本演芸場が、両協会の観客動員の格差を理由に「芸協の興行は落語協会から半数の演者を出す合同公演とする」案を出したのは、席亭とすれば苦肉の策だっただろうが、芸協はこの屈辱的な申し出を拒否。
以降、芸協は鈴本に出演できなくなり、結果として落語協会との格差が広がってしまった。
※週刊ポスト2011年12月9日号
・・・。むむむむ・・・。
私も、落語協会一本槍で。

羽子板市

上野駅の正面改札前に大きな看板。
     羽子板市
年の瀬の風物詩、浅草の羽子板市です。
12月17(土)・18(日)・19日(月)の3日間です。
去年行ったような気がします。
調べてみたら、12月18日に、落語会の後で行っていました。
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2010/12/post-ffec.html

「番外編」の日程

お楽しみゲストの都合で、2月18日(土)に予定していた「お江戸あおば亭・番外編」の日程が変更になりそうです。
この前後の土日のいずれかで調整することになりました。

やすらぎ寄席

久しくご無沙汰しています。
  やすらぎ寄席
12月は三遊亭(五代目圓楽一門会)の当番です。
行けるかなぁ・・・?

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