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2011年10月 2日 (日)

「昭和の名人完結編」(17)

今回は、上方落語の師匠ですから、二人ともよく知りません。Photo_2
  ◇ あんま炬燵    二代目桂春團治
  ◇ 帯久               四代目桂文團治 
「二代目桂春團治」
当代(三代目)のお父さんだそうです。
初代は言わずと知れた「芸のためなら女房も泣かす」師匠。
本名: 河合 浅次郎。出囃子は「野崎」。
身長160センチに対し腹周り150センチという愛嬌ある体で本格的な滑稽噺を演じたため、初代を凌ぐ人気を誇った。
初代譲りの爆笑落語で、細部にわたって2代目ならではの人物描写などを施した落語は初代よりも上手いという専門家が多い。
8代目桂文楽からは「関西の名人」と称えられ、青年時代の6代目笑福亭松鶴はその話芸に陶酔し、いくつかの噺を受け継いだ。
1953年1月20日、戎橋松竹での「病気全快出演特別興行」
千秋楽の夜席で、観客からのリクエストに応えての『祝いのし』を演じている最中に気分が悪くなり噺を中断。
「舞台で倒れるのは縁起が悪い」との古くからの幕内での戒めを守って、見台をつかみながら観客に中断を謝罪。緞帳が下り切ると共につかんでいた手を離して倒れ込んだ。
そのまま回復することなく約1ヵ月後の
2月25日に亡くなった。
葬儀は「戎橋松竹葬」として盛大に行われ、新聞に「大阪落語は終わった」と書かれるなど、その死は惜しまれた。
「四代目桂文團治」
本名: 水野音吉。
京都生まれ、
水芸一座の後見役、新派の俳優、曾我廼家一座の頭取などを経て噺家になった。
1894年5月、2代目桂米團治(後の3代目文團治)に入門して麦團治を名乗る。
次に上方初代三笑亭芝楽の門下で2代目小芝。
三升家紋彌(後の三升家紋右衛門)の門下で紋兵衛。
1921年以降、旅興業などで講談を手がける際は杉山文山を、落語家としては再び桂麦團治を名乗る。
1949年ごろ、4代目文團治を襲名(実際には戦中、地方巡業の時などには勝手に文團治を名乗っていた模様)。
戦後は半ば引退した形であったが、上方落語界の人材が払底する中、橘ノ圓都らと共に長老として再び高座に上がることとなった。
なお上方落語協会が発足すると顧問を務めた。
また、巨躯から「ゴジラ」の愛称で親しまれた。
喘息持ちで、死因も喘息による心臓発作であった。
やはり、上方の方はよく分かりません。
ここは、落研の同期だった「風流亭花鳥」さんが詳しいと思います。
もともと学究肌の人ですし、上方落語に関しては、たいへんな識見を持っている人ですから。

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