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2011年10月 4日 (火)

永久の「救いの腕」

さて、肝心の「千早亭永久」の「救いの腕」の出来たるや如何?1
正直なところ、出来が良かったのか、悪かったのか、本番から2日経った今でも、皆目見当がつきません。
駆け込み、ヘッドスライディングで間に合わせたことを考えると、テクニカルの面での仕上がりは最低だと思います。
ところが、どこがどう悪かったというのも、いつものように感じない。
それどころか、来てくださった方々から伺う感想は、予想に反してすこぶる良い・・・。
特に女性のお客さまから、「我が身に置き換えて聴かせてもらいました」、「身につまされる思いがしました」、「胸にじーんと来ました」などというコメントを頂戴しました。
お客さんを掴む、お客さんに受けるというのは、高座でも感じることはあるのですが、確かに、そこそこ掴むことが出来た気がします。
一体どういう訳なのでしょうか・・・?
                                      
色々考えてみて、以下の2点であろうというところに落ち着きました。
まず、お客さまを掴むという点で、普段あまり落語をお聴きになる機会の少ないお客さまだったので、ポピュラーな「つる」や「道具屋」もお馴染みという訳でなく、この聴き慣れない噺も、さほどのハンディにならなかったということ。
従って、よく耳を傾けていただいているところへ、ひたすら大きな声ではっきりとお喋りしたことで、噺のストーリーが伝わった。
それから、今回は、私の語りの巧拙ではなく、「救いの腕」という素晴らしい噺にお客さまの方か反応してくれて、噺の中に入り込んでくださったということ。
この噺のストーリーやテーマに、お客さまが反応してくれて、一人歩きをしたということ。
①お客さまを掴むことが出来た。②噺が一人歩きをして勝手にお客さまを取り込んでくれた。
・・・ということです。
さらに、落語会全体の雰囲気、師匠の楽しいコメント等々・・、アドバンテージは数多くありました。

それから、もうひとつ不思議なことがあります。
絶対的な稽古不足にも拘らず、とりあえず形を作り上げることが出来たことです。
普段から、師匠からは、「落語は活字で覚えちゃいけないよ」と言われてはいたものの、今回ほどネタ本の台詞を覚えなかったこともありませんでした。
恒例の?歩き稽古も、回数・量とも足りなかったし・・・。
この噺が、あまり細かに順序立てた台詞の構成になっていないこともあると思います。
師匠から、「一人の長い台詞があるから、適当にお茶を飲んだりする仕草を入れるといい」などとアドバイスをいただき、付け焼刃で入れたりしましたが、そういう意味でフリーハンドの部分が多かったこともあると思います。
とはいえ、まだ自分でも分かっていませんが、噺をスピーディに組み立てて行く術、早く覚えるこつみたいなものに、無意識のうちに触れた気もするのです。
登場人物になりきって作り上げる。
そういうことだったのでしょうか。

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