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2011年10月28日 (金)

道玄坂

subway仕事で渋谷に出て、渋谷マークシティから道玄坂へ出た交差点で、石碑が建っているのを見つけました。
道玄坂
渋谷には15年前ぐらい、仕事で4年半程度行っていましたが、知りませんでした。
道玄坂の由来を記した石碑を中央に、向かって右に道玄坂道供養碑、左に与謝野晶子歌碑。そして桜の木が一本。全体を囲む石壁に「道玄坂之碑」と記された銘板が設置されています。
                         道玄坂
道玄坂道供養碑と与謝野晶子歌碑には、「昭和五十五年庚申年吉日」「道玄坂顕彰事業委員会」と彫られています。
渋谷氏が北条氏綱に亡ぼされたとき(1525年)その一族の大和田太郎道玄がこの坂の傍に道玄庵を造って住んだ。
それでこの坂を道玄坂というといわれている。
江戸時代ここを通る青山街道は神奈川県の人と物を江戸に運ぶ大切な道だった。
やがて明治になり品川鉄道(山手線)ができると渋谷付近はひらけだした。
近くに住んだ芥川竜之介・柳田國男がここを通って通学した。
坂下に新詩社ができたり林芙美子が夜店を出した思い出もある。
これからも道玄坂は今までと同じくむしろ若者の街として希望と夢を宿して長く栄えてゆくことだろう。(樋口清之)
  母遠うて 瞳したしき 西の山
        
  相模か知らず 雨雲かかる
歌人与謝野晶子が詠んだこの短歌は、明治35年
(1902)4月に発行された東京新詩社の機関誌『明星』に収められています。
晶子は、前年に、郷里の大阪府の堺から単身上京し、渋谷道玄坂の近傍に住んで、与謝野寛と結婚しました。
処女歌集の『みだれ髪』も刊行しています。
詩歌の革新をめざした寛との新婚生活でしたが、晶子にとって、心身の負担は思いもよらず大きなものでした。
歌人として、また妻としての多忙な日々のひとときに、住まいから近い道玄坂の上にしばしばたたずんで、西空の果てに連なる相州の山々を眺めていたのです。
その山々の方向にあたる遠い堺の生家を思い、母親を懐かしんだのでした。
みずから生家を離れて、新しい生活を渋谷で始めた晶子が、当時ひそかに抱き続けていた真情の一端を、この一首の短歌は語っているのです。
なお、この歌碑に彫られている筆跡は、晶子自身の書簡による集字です。
(渋谷区教育委員会)

・・・なるほど、それで道玄坂といい、与謝野晶子が出て来るという訳ですね。
そんなこと、ここを通り過ぎる若者たちは知らないでしょうね・・。
ここを少し下ると・・、渋谷の街のあの雑踏が始まります。
落語とは関係のない徘徊の記。

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