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2011年10月20日 (木)

建物が語る・新宿末廣亭

building東京・新宿、欲望とエネルギーが充満する繁華街の一角に、そこだけ時間が止まったような建物があります。
提灯と手書きの看板。江戸時代の芝居小屋のような風情がある木造建築。Photo_3 「新宿末廣亭」です。
明治からの歴史を持つ建物は戦災で焼失。
現在の末廣亭は、1946年3月、「新宿の大旦那」と呼ばれた北村銀太郎(83年没)初代席亭が建てたもので、最初は平屋だったそうですが、お客が殺到し、数年後に2階を増築したんだそうです。こんな記事を見つけました。
■庶民の娯楽場
「戦後すぐ、駅員をやめて落語の世界に入ったときには、このあたり一面が焼け野原でね。楽屋の入り口にあった水道から、水がちょろちょろ流れてたのを覚えてるよ」
思い出を語るのは、落語家の三遊亭圓歌(82)。
45年9月に入門、歌奴の名前でブレーク。
96年から2006年まで落語協会の会長を務めた。
「当時は、今は無くなった人形町末広と、上野の鈴本演芸場とご当家(末廣亭)の3カ所をぐるぐる回ってた。それぞれお客さんが違ってね。ご当家は、山の手の客が中心で、詰め襟の学生服の客もいましたね。僕は、カール・ブッセの詩を素材に『山のあな』なんてネタをやってたから受けました。僕にとっては修業道場だったんです」
明治の終わりには東京に100軒以上あり、庶民の娯楽の王様だった寄席は、昭和になって映画に、その座を奪われた。
今は東京で一年中興行をしている「定席」は、末広亭、鈴本演芸場、浅草演芸ホール、池袋演芸場の4カ所。
木造の建物は末廣亭だけだ。
そのレトロな雰囲気を愛するファンが多い。
1階いす席が117、桟敷72人、2階に100人あまり。
約300の座席が、週末はほぼ満員になる。
人気落語家が出る日には立ち見になることも。
ここ数年は、そうした盛況が続いてきた。
■木造建築の強さ
だが3月11日に起こった「東日本大震災」は、笑いの世界にも大きな打撃を与えた。
「建物の被害は、表のちょうちんが一つ落ちただけ。木造建築の強さをあらためて感じましたね。銀太郎さんが建築の仕事をしていたんで、いい木材を使ってたのも良かったし、10年前に土台と外回りの補修をやったのも生きたね。でも、お客さんが、いなくなった」
銀太郎の孫で、1999年から席亭を務める北村幾夫(63)が話す。
周囲のビルでは、棚が転倒し酒瓶が割れるなど、大きな被害が出たが、末廣亭は損害なし。
当日は交通機関がストップしたため夜の部は休みにして、翌日からは平常通り興行を続けたのだが…。
「計画停電が大きかった。あれで皆、早く帰らなくちゃという感じになった。そして、原発事故。『落語聞いて笑ってる場合じゃないよ』という精神状態になっちゃったんだね。やっぱり、こういう商売は、生活が普通に安定していて、世情の不安がそんなになくて、初めて成り立っていくんだとつくづく思ったね」
■空気の変わり目
席亭の北村幾夫は、子供の頃から寄席の世界で育ち、街の変遷を体で感じてきた。
60年代後半の新宿騒乱事件の頃、80年代末から90年代初めのバブルの時代、そして今年の大震災が、大きな空気の変わり目だったという。
「騒乱事件のころは、投石とかあったせいで、うちも含めたこのあたりの店が全部、シャッターを付けた。それまでは閉店後でもガラス越しに店内が見えていたのが、見えなくなって、街に閉塞(へいそく)感が漂うようになった」
バブル期には、地上げの波が及んだ。
一時は、ビルに建て替える話が進んだが、地域の高さ規制で100席以下の寄席しかつくれないのが分かり、断念したという。
席亭になって以来、老朽化した建物の補修に加え、いすを広げたり、トイレをきれいにするなどの改革を進めてきた。
客、芸人、働く人間。三者が気持ち良く過ごせる空間をつくるのが席亭の仕事、という使命感もある。
数年前から、外国で仕事をしていた長男の卓之(40)が帰国、仕事を手伝うようになった。
この建物のままいつまで続けていけるのか。
時には将来の不安が胸をかすめるが、幾夫は深刻に考えないようにしている。
「寄席なんてね。必要がなけりゃ消えていくもんだから」。笑いを支えてきた粋がある。
震災から半年。ようやく客足が戻ってきた。
20歳年下の席亭を励ますように、圓歌が言う。「戦後もそうだったし、こういう苦しい時期にこそ、笑いが必要なんだよ」

・・・そういえば、最近末廣亭に行っていないなぁ・・・。
窓輝さんの真打昇進披露が最後かもしれない。

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