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2011年9月17日 (土)

宗珉の滝

「金明竹」に名前が登場するだけではなく、江戸時代の名工の一人「横谷宗珉」に関わる落語もあります。  Photo_2
徳川十五代の頃、日本橋浪花町に腰元彫りの名人と言われた横谷宗珉の弟子の宗三郎が勘当されて、回り回って三年目に南海道紀州へ入ってきた。
紀州の権現様の前の岩佐屋松兵衛という宿に泊まった。
泊まってしまって一文もないことに気がつき、立ちそびれて酒を飲んでは寝ていた。
主人に近所を見物することを勧められる。
懐が寂しく宿賃も払えないことを明かす。
主人は、仕事が大工だったら家を治してもらうのだがと職業を聞くと、腰元彫りの職人だという。
そこで、仕事を見せてもらうことにする。
小づかで真向きの虎が彫ってある。
主人はうまいが虎が死んでいるという。
宗三郎は驚く。
師匠にも同じことを言われて、この虎が生きているように彫れたら帰ってこいと破門になったとのこと。
宗三郎は見る目のある主人に、彫りの善し悪しを教えて自分を一人前にしてくれと頼む。
松兵衛は引き受けてやることにして、六畳の部屋を二間与える。
ある日、紀州和歌山のお留守役の木村又兵衛がこの宿に泊まる。
夜、厠へ行くと鏨の音がしたので彫金の者がいるのかと問う。
松兵衛は訳を話し、腕がいいと褒める。
又兵衛は殿様に伺って注文を取るようにしてやることにする。
Photo_3そして、殿様から紀州の那智山の滝の図を刀の鍔に彫るよう仕事の注文が来る。
松兵衛は、この仕事が旨くいけば勘当が解けるので踏ん張って仕事をするように告げる。
水垢離をやるよう勧めるが、宗三郎は断って、仕事始めの祝いに酒を飲んで始めるという。
四日ほど経って仕上がる。
うまいものだ。
さっそく松兵衛はお城へ持って行くが、殿様はかような物を当家に置けない、もう一度彫るようにとのことだ。
松兵衛は、宗三郎が酒を飲んで、気持ちが仕事に行ってないことが気に入らない。
次に出来上がった者を届けるが、これも殿様は受け付けない。
もう一度彫らせるようにとのこと。
松兵衛は、一文無しだった宗三郎が、一人前にしてくれと頼んだことを思い出させて、自分は宗三郎がうまくいくように、水を浴びて祈っていたことを明かして、出て行けと啖呵をきる。
すると出て行ってしまう。
家の者を止めにやると、これから那智山の荒滝にうたれて二十一日間の断食をして、生きていれば仕事にかかると言ったとのこと。
松兵衛も一緒に断食をするという。
二十一日後帰ってきた宗三郎は、この世の人とは思えない姿、仕事にかかる。
七日後に鍔が仕上がる。
この鍔が納まらなかったら腹を切るという。Photo_4
見ると仕事が落ちているように見える。
仕方なく殿様に見せると、大変な名作だ、この鍔には霧が吹いており、下の紙が濡れていると言うと、家来がこれを作った者は腹を切る覚悟で作った物だと申し上げると、殿様は家来同様であると言って、お目通りがかなうことになる。
さらに、紀州家の抱えとなり、百石という禄が降りて取り立てられ両刀を手挟むようになる。
すぐにこのことを江戸の宗珉に手紙を出すと、大変喜んで二代目宗珉を宗三郎に譲る。
紀州家の先祖が南龍院というので、その一字を取って一龍斎横谷宗珉として、長く長く紀州へその名前を留めたという名人の出世話でございます。

「腰元」という言葉は身のまわり、というほどの意味で、そこから身辺の世話をする仕事や、刀剣の付属品を意味するようになりました。
腰元彫りは刀剣装飾品を彫刻することおよび、その金工職人のことです。
金工職人は釘隠しや襖の引手も細工するが、多くは刀剣装飾家でした。
主な金工の家は、例の祐乗・宗乗・光乗の後藤家で、横谷宗珉の父の宗与は後藤家の門人かつ幕府の御彫物役だったそうです。
しかし、宗珉は自分自身の題材、材質、形、工夫で表現することを目標とし、幕府の役を離れ、小柄(こづか)、目貫(めぬき)など刀剣装飾の分野で虎、獅子、牡丹などを彫刻し、町彫りの祖と言われて町人に親しまれるようになったそうです。。
廃刀令が出た後も日本の金工は海外で知られるほどの技量がありましたが、その背景には、町彫りとして煙管、かんざし、根付けなどの彫刻にも打ち込んできた歴史がある訳ですね。
そうそう、「浜野矩随」を忘れてもらっては困りますね。

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