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2011年8月21日 (日)

二葉亭四迷

近代文学史の勉強をすると、最初に出て来るのが「二葉亭四迷」という人の名前です。
「くたばってしまえ」という語呂からの名前だそうです。Photo_4
この二葉亭四迷の「言文一致運動」に極めて大きな影響を与えたのが、「三遊亭圓朝」だというのは、極めて有名な話です。
小説や随筆など文章を紙に書く文化が発達した言語では、書き言葉である「文語」と話し言葉である「口語」が分化する傾向があります。
日本語の場合、書き言葉は平安時代の口語を元にした源氏物語などの王朝文学で確立し、その後、和漢混淆体などある程度のバリエーションが生まれながらも、さほど大きな変化はなく戦前まで長い間使われてきました。
一方、話し言葉である口語は時代を経るに従って大きく変化し、しかも地域や身分などによっても多彩な形態が現われてきます。
そのため、明治のころには文語と口語は同じ言語とは思えないほど異なるものになってしまっていました。
明治時代の文人に二葉亭四迷という人がいます。
東京外国語学校(今の一橋大学と東京外大の前身)でロシア語を専攻し、ロシア文学にも造詣の深かった二葉亭四迷は、「小説神髄」を発表して新しい小説のあり方を提唱した坪内逍遥に刺激され、新しい時代に相応しい小説を書こうとします。
Photo_3新しい時代の小説はどのように書くべきか、悩んだ二葉亭四迷は友人である坪内逍遥に相談したところ、三遊亭圓朝の落語を参考にしたらどうかとアドバイスを受けます。
史上最高の名人と誉れも高い圓朝は、当時高座で自作の落語を演じるだけでなく、速記本という形でも作品を世に送り出していました。
圓朝の語りをそのまま速記で文章に起こしたこの速記本は、当然ながら口語のままの文体で書かれています。
生粋の江戸っ子だった二葉亭四迷はこれならできると早速作品に取り掛かり、明治二十年、近代日本で初めて言文一致体で書かれた小説「浮雲」が発表されたのです。
言葉という点では、恐らく通ずる部分も多かったと思います。
ただ、圓朝の速記本というのも、現在のように、録音された音源を忠実に文字化している訳ではないようですから、この世界は深いものがありそうです。

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