腰元彫り
「浜野矩随」は、「腰元彫り」の名人と言われた人です。
「腰元」という言葉は身のまわり、特に腰の回りというような意味で、そこから身辺の世話をする侍女を”腰元”とよんだり、刀剣の付属品を意味するようになりました。「腰元彫り」というのは、刀剣装飾品を彫刻すること、刀剣の付属用品を製作することを言います。
鉄・真鋳・銅などを加工するため、彫金術に長けていなければなりませんでした。
腰元彫りの名人たちと言えば、落語「金明竹」のあの早口な上方弁の口上でお馴染みです。
「先度、仲買いの弥一が取次ぎました道具七品のうち、祐乗・光乗・宗乗三作の三所物。横谷宗珉"四分一拵え小柄付の脇差し・・・」
後藤祐乗・光乗・宗乗を輩出した後藤家では、天皇家・将軍の「三所物」を手がけ、金工の保守本流だったそうです。
ところが、江戸時代、泰平の世が続くと、刀剣は武器としてより装飾品としての様相が強くなって来て、武士よりも力を持ち始めた町人はこの目貫などの刀の道具を緒締め・紙入れ・帯止め・煙草入れの金具や「根付け」に使い楽しむようになりました。
その江戸庶民の要望に応えた筆頭が町彫りの横谷宗珉であり、浜野矩随もその一人だったという訳です。という訳で、「根付け」というのは、煙草入れ、矢立て、印籠、小型の革製鞄(お金、食べ物、筆記用具、薬、煙草など小間物を入れた)などを紐で帯から吊るし持ち歩くときに用いた留め具。
動物、人間、花等々とあらゆる物があります。
現代流に言えば、高級な携帯電話のストラップみたいなもの・・・。落語の「浜野矩随」を視聴していると、先代の三遊亭圓楽師匠は、彫った観音像などを風呂敷に包み、首っ玉に巻いて(背負って)若狭屋にやって来たり、古今亭志ん朝師匠は、仕草からはこけしぐらいの大きさに見えます。
圓窓師匠からのご指摘や、立川志の輔の映像から、やはりこの観音像は、根付の大きさでないとおかしいということで、そんなつもりでやりました。
「浜野矩随」は、それほど仕草の多い噺ではありませんが、「腰元彫り」の大きさと質感を出すのは必要だと思います。
小さな観音様をどのように持つか。・・なんて。