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2011年8月 8日 (月)

三遊亭圓朝

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shadow8月は「三遊亭圓朝づくし」です。
ここのところ、小説「圓朝語り」や昨日の奉納落語会での「ゆれるとき」などに触れたので、圓朝の一生(年表)を確認しようと思い立ちました。
落語中興の祖「三遊亭圓朝」の年譜です。
天保10年(1839年)4月1日:初代橘屋圓太郎(初代圓橘)の息子として江戸湯島切通町で生まれる。
弘化2年(1845年3月3日橘家小圓太の名で江戸橋の寄席「土手倉」で初高座。
弘化4年(1847年):父・圓太郎と同じく二代目三遊亭圓生の元で修行する。
嘉永2年(1849年):二つ目昇進。
嘉永4年(1851年):玄冶店の一勇斎歌川国芳の内弟子となり、画工奉公や商画奉公する。
安政2年(1855年3月21日:三遊亭圓朝を名乗り真打昇進。
安政5年(1858年):鳴物入り道具仕立て芝居噺で旗揚げ。
元治元年(1864年):両国垢離場(こりば)の「昼席」で真打披露。
明治元年(1868年):長子の朝太郎誕生。
明治5年(1872年):道具仕立て芝居噺から素噺に転向
明治8年(1875年):「落語睦連」の六代目桂文治と相談役に就任。
明治10年(1877年):高橋泥舟より山岡鉄舟を紹介される。
明治13年(1880年9月24日:山岡鉄舟の侍医である千葉立造の新居披露宴の席で、無舌の悟りを得て、同席していた天龍寺の滴水和尚から「無舌居士」道号を授かる。
明治19年(1886年1月8日井上馨の共をして身延山参詣。
また井上の
北海道視察(8月4日より9月17日)にも同行した。
明治20年(1887年4月26日:井上馨邸(八窓庵茶室開き)での天覧歌舞伎に招かれ、また井上の興津の別荘にも益田孝らと共に招かれている。
明治22年(1889年)4月:向島木母寺境内に三遊派一門43名を集め、三遊塚を建立。初代および二代目三遊亭圓生を追善記念する。
6月30日:各界人士を集め、初代・二代目 圓生追善供養のための大施餓鬼会を施行し、一門の43名が小噺を披露し、記念誌を配布。
朗月散史編『三遊亭圓朝子の傳』が三友舎から出版される。圓朝自身の口述に基づく自伝。
明治24年(1891年)6月:席亭との不和で寄席の出演を退き、新聞紙上での速記のみに明け暮れる。
明治25年(1892年):病の為に廃業。
明治30年(1897年)11月:弟子の勧めで高座に復帰。
明治32年(1899年9月 発病。
10月木原店で演じた『牡丹燈籠』が最後の高座となる。
不行跡により朝太郎を廃嫡処分とする。
明治33年(1900年8月11日午前2時:死去。
病名は「
進行性麻痺」と「続発性脳髄炎」。
圓朝は、「山岡鉄舟」だけでなく、「井上馨」など明治時代に活躍をした名士たちとの交流も多く、そういう面からも、やはり「名人」なんですね。
井上馨と身延山へ参詣したのが、私の誕生日(私が生まれる約70年前)というのが、震えますよ。
ここで、後の名作「鰍沢」をイメージしたのかもしれません。

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