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2011年8月 8日 (月)

山岡鉄舟と三遊亭圓朝

shadow「山岡鉄舟」Photo_6幕末・明治前期の剣客、政治家です。
天保7年6月10日旗本小野朝右衛門の長男として生まれ、1855年(安政2)槍の師である山岡家を継いだ。
また千葉周作に剣を学び、のち無刀流を案出し春風館を開き門弟を教えた。
1856年講武所剣術世話役。
1862年(文久2)幕府が募集した浪士隊の取締役となる。
1868年(慶応4)
3月戊辰戦争の際、勝海舟の使者として駿府に行き、西郷隆盛と会見して、江戸開城についての勝・西郷会談の道を開いた。
1869年(明治2)9月静岡藩権大参事、1871年茨城県参事を経て、1872年6月侍従に就任。
ついで宮内少丞・大丞と進み、1881年宮内少輔となった。子爵。
明治21年
7月19日没。
墓は東京
谷中の「全生庵」にある。
この人と、三遊亭圓朝との関わりは、どこにあるのでしょうか?Photo_3
ちょいと調べてみました。

不世出の天才と言われる圓朝も、最初から物凄い噺家だったわけではなかったでしょう。(稀有な才能があったのは勿論ですが。)
その圓朝が自分の芸を磨いているうちに、自分の限界に気がつきます。
それで座禅を組むようになり、偶然、無刀流の使い手にして禅と書の達人でもある「山岡鉄舟」と知り合うという、運命的な機会を得る。

「あんたは噺家らしいが、昔母から聞いた、桃太郎の話をしてくれんか?」と山岡に言われた時、山岡の急な申し出に圓朝はためらう。
「なんで今、この俺が、桃太郎のような昔話をしなきゃぁならないんだ。冗談じゃないぜ。ひょっとして、俺を馬鹿にしているのか?それとも公案(禅の修行者に、師匠が与える悟りを得るための無理難題)なのか?」
そんなことを散々考えた挙げ句、圓朝は結局、山岡の言った「桃太郎」は演らなかった。
ただ、家に
帰っても、圓朝の頭の中は「桃太郎」が引っかかる。
「なぜ?俺に、桃太郎なんだ?」
それから圓朝は、自分で桃太郎を手直し高座で演じるようになる。
(当然のように)大衆には好評を博します。
そこで山岡の所へ駆けつけた時に、
「山岡様、この前できなかった桃太郎の噺をさせてください。是非聞いてもらいたいんです」
すると山岡は眼孔鋭く、小柄な圓朝をにらみ据えて、
「もういいですよ。あの時は、母親が、昔話してくれた昔話を、有名な噺家のあんたさんが、どう話すか、聞いてみたかったんですよ。ただね、圓朝さん、舌で話してはいけませんよ…」
「…」またしても、圓朝は、ショックを受け、一言も声が出ない。
圓朝の心は揺れます。
「時節を逃したってことか…?
それに舌で話すなとは、一体どういう意味なんだ。口や舌で話さないで、どこで話すと言うんだ・・?」

しかしそんなことはお構いなく、圓朝人気は高まって行きます。
圓朝の頭の中では、常に「舌で話すな」という山岡の言葉が、引っかかっている。
そしてついには頭の中が真っ白になり、山岡を訪ね頭を下げる。
「先生、どうか、あっしを弟子にしてやっておくんなさい。どうすれば舌を使わない噺ができるようになるでしょうか?」
山岡は、即座にただ一言「無!!」と答えた。
この「無」という公案は、禅の坊主が弟子によく使う手だそうです。
山岡も圓朝に向かって、ついに「無」と発したという訳です。
この「無」を発する時点で、山岡は、圓朝という噺家が近々に悟りを開き、本当の名人になることが分かっていたという・・・。
だから「無」という問いを最後に与えたということです。

それから2年の間、圓朝は無心になって座禅を組み、己の舌を無くす修行に取り組んでいると、答えは向こうからやって来る。
「舌で語るからいけない。心の奥の奥の芯で語らねば、本当の噺にはならない」
どこからか、そんな言葉が聞こえる。

そしてその成果を、山岡に披露する時が来る。
もちろん噺は「桃太郎」ですが、山岡は噺などは聞いていない。
ただ心の眼で、じっと圓朝の心を観て・・・。

「圓朝さん、今日の噺はいいね。実にいい。真がある」
山岡は和尚と相談し、圓朝に「無舌居士」という法名を与えた。

こういう関わりを経て、山岡鉄舟と三遊亭圓朝は、山岡の創案で作られた「全生庵」で仲良く眠っているという訳です。
そして圓朝の墓銘には、生前の山岡が書いて与えた「三遊亭円朝無舌居士」という字が並んでいます。
「名人は 上手の坂を ひと上り」という言葉が心に響きました。

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