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2011年8月

2011年8月31日 (水)

葉月の落語徘徊

暑い暑いと言いながらも、気がつけば8月も終わり。
今月はもう夏バテで、なかなか徘徊ができませんでした・・・。
 ◇  1日     紀伊国屋寄席
 ◇  5日     大手町落語会
 ◇  7日     圓朝まつり・奉納落語会
 ◇ 17日     東京落語会
 ◇ 22日     人形町らくだ亭
           
月初めの「紀伊國屋寄席」で、圓窓師匠が休演され、大変心配しましたが、翌週の「圓朝まつり・奉納落語会」での、ご自身の創作「ゆれるとき」に唸りました。
2_3この噺と、「らくだ亭」での「五街道雲助」師匠の「お初徳兵衛浮名桟橋」が、今月の噺でしょう。
それから、「東京落語会」で聴いた「浜野矩随」は、まことに僭越ながら、金願亭乱志の大変な自信になりました。
徘徊が少なく、部屋に引きこもっていたこともあり、今月は、"圓朝づくし"だった気がします。
このプログも、圓朝や圓朝をめぐる人たちのことを多く話題にしました。
一方、落語の稽古は・・・、本当に完全に「大スランプ」に陥ってしまいました。トホホ・・・。
ほとんど手がつけられませんでした。
稽古会も、急な用事などで、「落語っ子連」も「扇子っ子」にも行くことが出来ませんでした。
何か、とても焦っている気がします。
来月は、実は仕事がかなりタイトなのですが、10月2日は千早亭の発表会ですから、ちょっと頑張らないといけません。

小説「井戸の茶碗」

う~ん。落語を小説風にして読もうという趣向・・・。
違和感がありますよ。
読む落語
山本一力さんのペンは、背景や登場人物、景色などを懇切丁寧に説明するところから入るのですが・・・。
師匠がよく仰るのですが、落語というのは、歴史から外れたところにあるということからすると、別に清兵衛さんが主人公でなくても、千代田卜斎でなくてもいいんですよ。
麻布茗荷谷でなくたって全く構わないし、ましてや清兵衛さんの家族なんてどうでもいいんですよ。
くどくどと説明する部分が多く、やや興趣が冷めた気もしました。
やはり、これまた師匠が仰るように、台詞(喋りながら)ストーリーを進めて(展開して)行くのが落語の肝ですからね。
書き出しが「麻布茗荷谷は、町名が示す通り谷底の町である」。
そんなことどうでもいいじゃない・・。
お人好しの屑屋の清兵衛さんが、ふら~っと裏長屋へやって来るだけでいいじゃないですか。
落語は、音(口語)を耳で聴いて、観客がその場面を想像(イメージ)することによって、臨場感が大きく広がるものです。

ひょっこりひょうたん島

「ひょっこりひょうたん島」は、幼い頃に鮮烈な思い出はありますが、ストーリーはほとんど覚えていません。1 Photo_8
NHKで放映の人形劇。
オリジナル版は1964年4月6日から1969年4月4日まで(毎週月曜~金曜の午後5時45分~6時)NHK総合テレビで1224話放映されたそうです。Photo_9
ちょうど私が小学生だった頃をフルカバーしています。(小学校2~6年生)
当時はまだ無名だった「井上ひさし」さんと、「山元護久」さんが脚本を担当していたそうです。Photo_10 Photo_11
常時高視聴率の人気絶大な番組だったのですが、当時のビデオテープは大きく高価だったことや番組の再利用という概念がなかったことなどから、リアルタイムでの映像はほとんど現存していないそうです。
・・惜しいなあ・・・懐かしいなぁ・・・。

井戸の茶碗

Photo_3

「私が好きな落語」なんていうアンケートを取ったら、必ずベスト3に入る噺ではないかと思っているいい噺です。
正直者の屑屋の「清兵衛」が、浪人「千代田卜斎」から預かった仏像を、細川家の屋敷詰めの「高木佐久左衛門」が買い取った。
煤けているのでぬるま湯で磨いたところ、台座の紙が破れて中から五十両の小判が出て来た。
仏像は買ったが中の小判は買った覚えが無いから返して来いと言われて屑屋が卜斎宅に行くと、一旦売ったものを受け取る分けにはいかないと断られる。
家主の口利きで屑屋が十両取って、双方二十両ずつ分けることで話が着いたが、卜斎はただ貰う訳にはいかないので形だけでもと、茶碗を贈った。
この美談が細川候の耳に入り、高木が磨いた茶碗をもって登城すると、井戸の茶碗という名器で、細川の殿様が三百両で買い取った。
Photo_4
高木は半分の百五十両を卜斎に返すように、屑屋に託したが卜斎は娘を娶ってくれるなら支度金として受け取ると条件をだした。
屑屋が、今は長屋で燻っているが、こちらで磨けばいい娘になりますよと伝えると、いや、磨くのはよそう、また小判が出てはいけない。
「井戸の茶碗」と言っても、井戸端に無造作に放ってあるような代物ではありません。
茶碗では、室町時代前半までは、中国産の「唐物(からもの)」が最高と考えられていましたが、さらに茶人たちが理想とする茶碗を求めて、朝鮮の茶碗に注目し始めました。
その中で最高の茶碗とされたのが「井戸の茶碗」という訳。
これは韓国では民衆の安物の量産品で、釉薬(ゆうやく)のかけ方も乱暴だが、素晴らしい形を持つ。
意図せずに生まれたその姿を、時の茶人たちは「わび」の美として評価したんだそうです。
「井戸」は、古来「高麗茶碗の王」といわれ、格別として貴ばれていますが、俗に「一井戸、二楽、三唐津」というように、茶碗を通じての最上とされ、講談やこの噺の落語にまで取り上げられて、茶碗といえば井戸の名を連想するほどに有名になったのだそうです。
ところで、この細川様の子孫でもあろう、当代の細川家のご当主も、この世界には造詣がおありだと聞きました。
最近の日本にすっかり定着した、総理大臣の「ワンイヤー・ルール」の創始者でもあります。

「あぜくら」?

「あぜくら」?
えっ? これが「あぜくら」の表紙?
「独立行政法人日本芸術文化振興会」、要するに「国立劇場」のチケット会員専用情報誌。
今までは、歌舞伎や能狂言、文楽の写真で、いかにもという雰囲気でしたが、9月号の表紙は、どう見ても寄席のチラシみたいで。
国立劇場(三宅坂)は、開場45周年になるそうで、この秋は「特別公演」が多く企画されているようです。
そうか、我が落研は創部52年経ったところですから、国立劇場より古いんですね。
別に、私が威張ることもないのですが。
「あぜくら」の表紙は、これからもこんな調子を続けるのでしょうか?
文楽や能の愛好者のセレブな方々は、「何と品のない」なんて仰るかもしれませんね。
でも、あんまり古臭い写真ばかりだと、「あぜくら」でなく「ああくら(あぁ暗)」になってしまいますから、たまにはいいでしょう。
P1000433
←今まではこんな感じでした。

錦の袈裟

やはり先代金馬師匠の十八番。Photo_4
職人が六人で女郎買いに出掛けることになり、派手に振る舞って人気を集めようと、錦の褌で相撲甚句を踊ることにした。
ところが、用意した錦の生地は五枚しかない。
与太郎は自分で調達することになり女房に相談すると、坊主の錦の袈裟を借りてくれば、褌に加工してやると指示を受け、狐憑きのお祓いのためと偽って錦の袈裟を借りてきた。
褌を締めてみたが、象牙の袈裟輪が前にぶら下がり邪魔になるが取る訳にも行かず、そのまま遊びに出掛ける。
廓の主が、揃いで錦の下帯を締めるとは、きっと華族に違いない、中でも白い輪を付けたのが殿様だろうと触れ込む。
一夜明けて、仲間の誰も花魁に相手にされず独り寝で過ごしたとぼやきながら、さっさと帰ろうと与太郎を探す。
与太郎は殿様と間違えられて大モテ。
布団から出ようにも、抱き付いて放してくれない。
「主ばかりは今朝(けさ)帰さない」
「袈裟(けさ)返さないとお寺で怒られる」

オチは、"今朝"と"袈裟"の地口オチです。
やはり与太郎というのは、落語国のスーパースターです。
当時は、町内の若い衆たちが、隣町と色々なことで張り合っていたんですね。
この噺も、隣町が、緋縮緬の長襦袢で繰り込んだという噂を聞いて、自分たちも負けずにということで、錦の袈裟の趣向になったという訳。
落語国は、今日も天下泰平です。

林家正蔵代々

芝居噺は、三遊亭だけの専売特許ではありません。
やはり、「林家正蔵」を忘れてはいけないと思います。
正蔵は、1811年(文化8年)初代から四代目までは「林屋」正藏、
1888年(明治21年)五代目から「林家」正蔵となったようです。
勿論、林家一門の「留め名(止め名)」です。

■初代 林屋正蔵
1781年和泉町新道の生まれ。俗称を「下総屋正蔵」。
札差峰村に奉公した後に1806年に初代三笑亭可楽の門下で楽我を名乗る。
林家の始祖。
怪談噺の元祖と言われ、「怪談の正蔵」の異名を取った。
鶴屋南北と交遊し、「東海道四谷怪談」に影響を受けた。
三笑亭可龍、三笑亭笑三、林屋正三を名乗り、1811年頃に正蔵から二代目鹿野武左衛門、林正、再度正蔵、
1835年に林泉、再三正蔵になり晩年正蔵坊となった。
著作も、『升おとし』『太鼓の林』など多数ある。
また西両国に林屋という寄席を経営。
林屋の屋号の由来は、「噺家」と音を合わせたことに由来。
俳名、林屋林泉。
天保13年6月5日(諸説あり
2月6日とも)没。享年62。
■二代目 林屋正蔵  元僧侶。通称「沢善正蔵」。

「蒟蒻問答」や「野ざらし」の作者だといわれる。
母が初代正蔵の後妻となった。
初名を林正、1839
年に二代目正蔵を襲名。
弟弟子・林家林蔵門下の林家正三が上方に移り、上方・林家を興す(但し、六代目林家正楽で途絶える)。
俗称を「朝蔵」。
■三代目 林屋正蔵  二代目柳亭左楽の前名。
初代正蔵門下から司馬龍生門下に移る。
■四代目 林屋正蔵 本名も林家正蔵に改名。
元は役者で市川東次(藤次とも)、のちに二代目正蔵の門下で初名不明、上蔵、正楽を経て、1865年頃に四代目正蔵襲名。
一時三木屋正蔵。1878年に正翁と改名。
怪談の名手。
麻布我善坊に居住、通称「我善坊の正蔵」「三木屋の正蔵」。
1879年7月2日没。享年不詳。
■五代目 林家正蔵
文政7年11月11日愛知三河の生まれ。本名吉本庄三郎。
1841年に4代目正蔵門下で正吉、正橋、正鶴、正鱗、1888年に五代目正蔵を襲名。
1912年2月に正童となった。
晩年は沼津に居住し「沼津の師匠」と呼ばれる。
1923年3月6日没。
最長寿の享年100。通称は「百歳正蔵」。

当代から「林家」となるが、江戸・林家の系統は五代目で途絶。
■六代目 林家正蔵
1888年11月5日生まれ。本名今西久吉。
1909年3月に二代目談洲楼燕枝門下で桂枝で、1911年5月に四代目五明楼春輔、1915年2月に柳亭小燕路を経て、1918年4月に名跡を当時沼津に居住していた五代目より譲り受け、六代目正蔵を襲名。
以降、江戸・林家は柳派の傍流となる。
1929年4月25日没。享年42。
七代目と同じ柳派であるが、関連はない。
当たりネタ「居残り佐平次」より通称「居残りの正蔵」「今西の正蔵」。
■七代目 林家正蔵Photo_3
1894年3月31日生まれ。本名海老名竹三郎。
元々は素人の
天狗連
1919年1月に初代柳家三語楼に入門してプロとなり、柳家三平を名乗る。
1924年3月に七代目柳家小三治襲名。
師匠三語楼が東京落語協会(現落語協会)を脱会したため、協会側の四代目柳家小さん一門から「(小三治の)名前を返せ」と詰め寄られ、そうこうしている間に遂に八代目小三治が出現。
結局五代目柳亭左楽を仲立ちとして六代目遺族から名跡を譲り受け、1930年2月に七代目正蔵襲名して事態を収拾。
日本芸術協会(現落語芸術協会)初代理事長を務める。
のち東宝に移籍。東宝名人会の専属になる。
落とし噺を得意とし、時事感覚に長けたギャグの達人であり、実子・林家三平 (初代)の決めゼリフ「どうもすみません」や、額にゲンコツをかざす仕草も元来は七代目が高座で客いじりに使用したもの。
怪談噺・芝居噺を得意とする歴代正蔵の中にあって、爆笑落語を通した異端児であった。
■八代目 林家正蔵(彦六)Photo_4
1895年5月16日下荏原郡品川町出身。
本名は岡本義。俗に「彦六の正蔵」。
噺家からは居住地の「稲荷町(の師匠)」と呼ばれた。
芝居噺や怪談噺を得意とし、正蔵の名を更に高めた。
1912年 二代目三遊亭三福(後の三代目圓遊)に入門し「福よし」。
1914年5月 師匠三福が「扇遊亭金三」に改名「扇遊亭金八」に。
1915年頃から大師匠「四代目三遊亭圓生」の弟弟子「二代目三遊亭圓楽(後の三遊一朝)に稽古を付けてもらう。
1917年1月 師匠金三と共に「四代目橘家圓蔵」の内輪弟子。
1918年2月 二つ目昇進し「橘家二三蔵」に改名。
1919年4月 圓楽が「三遊(亭)一朝」に改名し、圓楽の名を譲られ、二つ目のまま「三代目三遊亭圓楽」襲名。
1920年6月 真打昇進。結婚。
1922年2月 師匠圓蔵死去、「三代目柳家小さん」の預かり弟子。
3ヶ月程上方の「二代目桂三木助」の元で修行、「啞の釣り」「煙草の火」などを教わる。
1925年9月 兄弟子「初代柳家小はん」、「柳家小山三(後の五代目古今亭今輔)」らと共に「落語革新派」を旗揚げする。
1926年1月 落語革新派解散。
1927年 東京落語協会(現落語協会)復帰、兄弟子「四代目蝶花楼馬楽(後の四代目柳家小さん)」の内輪弟子。
1928年4月 前師匠小さん引退に伴い、師匠馬楽が四代目柳家小さん襲名し、馬楽の名を譲られ「五代目蝶花楼馬楽」襲名。
1950年4月22日 一代限りの条件で、海老名家から正蔵の名跡を借り「八代目林家正蔵」襲名。
1963年12月 第18回 文部省芸術祭(大衆芸能部門)奨励賞。
1965年 落語協会副会長就任。
          12月 第20回文部省芸術祭(大衆芸能部門)奨励賞。
1968年11月3日 紫綬褒章。
1968年12月 第23回文化庁芸術祭(大衆芸能部門)芸術祭賞。
1972年4月 九代目桂文治、六代目三遊亭圓生と落語協会顧問。
1974年4月29日
勲四等瑞宝章。
1980年9月20日 林家三平死去。
     9月28日「正蔵」の名跡を海老名家に返上。

1981年1月 「林家彦六」に改名。
     4月 昭和55年度第1回花王名人大賞功労賞。
          11月7日日本橋で演じた{「一眼国」が最後の高座となる。
1982年1月29日 肺炎のため死去。
享年86。
■九代目 林家正蔵
Photo_5 そして、当代の正蔵さんです。
文句を言う訳ではありませんが、そもそも、林家の系譜は五代目で途絶えている訳で、何となく当代の海老名家のもののようなのは、違和感がありますね。
七代目の襲名の顛末のことについて書いたものを読めば、もともと柳派だったことで、小三治を名乗っていたものの、二人の小三治がいることになり、ちょうど空いていた正蔵の名跡を襲名することで解決したものだそうですから。
八代目も、蝶花楼馬楽から柳家小さんを狙っていたところを、小三治だった五代目が襲名した関係で、しちだいめが亡くなって間もない海老名家かせ一代限りで借り受けたということです。
律儀な八代目は、九代目を継ぐべきだった七代目の長男の林家三平師匠が亡くなったのを機に、正蔵を返上し、彦六を名乗ったと聞いています。

2011年8月30日 (火)

滝口順平さんの訃報

「ぶらり途中下車の旅」というテレビ番組で、ナレーションを1992年の放送当初から今年7月まで計958回にわたり務めた「滝口順平」さんが、お亡くなりになったそうです。
Vzbl享年80歳。
私にとっての滝口さんは、何と言っても「ひょっこりひょうたん島」のライオンくんですよ。Photo_7
しかし、今振り返ってみると、声優の皆さんのメンバーを見ただけで、超豪華ですよ。
尤も、あの頃は、声優の皆さんも、そこそこ若くて、これからという状態だったのでしょうが。
ライオンくん可愛かったですよ。

お行儀

「行儀」の良し悪しなどとは、最近は使うことも聞くことも少なくなりました。
辞書で調べてみると。
   1 礼儀の面からみた立ち居振る舞い。
     また、その作法・規則。
   2 しわざ。行状。
   3 仏語。行事の儀式のやり方。

引退すると名言していたくせに引退しない元総理大臣なんていうのも、随分行儀が悪いと思いますが、こういうものは、結局は「品性」ということになるのでしょう。
会社の隣にコンビニ「F」があります。
近々、会社を挟んで反対側にコンビニ「S」が開店するようです。
今日、既存の「F」の前で、大きな声で新設「S」のチラシを配っていました。
・・・別に違法な訳ではありませんが、あんまり行儀は良くないなぁと思うのは、私だけでしょうか・・・。
これも、自由な競争、世間は厳しい・・・のでしょうか・・?
「百年目」の旦那さんなら何と言うでしょうか・・・。
「井戸の茶碗」の千代田卜斎や高木佐久左衛門は、果たしてどうするのでしょうか・・。

世界陸上

週末から始まった世界陸上。
Photo"またか"の解説者には辟易しますが、陸上競技というのは、道具の優劣などで勝敗が決まることはありませんから、大変潔い競技です。
その中でも、100メートル走というのは、非常に興奮します。
ところで、今回、本命中の本命と言われていた選手が、何とフライングをしてしまい、戦わずして失格しました。Photo_2
・・やはり、精神的な"負荷"がかかりすぎたのかもしれません。
何と言っても、名前が「ボルト」というぐらいですから・・・。
・・・競技者にとっては一番良い方法かもしれませんが、自分の番を待つ間に、妙齢の女性が横になって、タオルを被って寝ていますが、日本人的に言うと、随分"お行儀"が悪い気がするんですがねぇぇ・・・。

圓窓・さん喬 二人会

先日届いた、チケットのイープラスからのメルマガ。
「圓窓・さん喬 二人会 ~こだわりの落語家の高座を楽しむ~」・・。
えっ、これは願ったりの落語会ではありませんか。
落語会の詳細を確認しました。Photo_5
■日時 : 11月27日(日) 14時 開演
■場所 : ヨコスカ・ベイサイド・ポケット
■出演 : 三遊亭圓窓/柳家さん喬
        /柳家小菊/柳家さん若/ほか
・・・よ、横須賀・・・ですか、うぅぅ~ん、悩むところです。Photo_4
もっと近いところでやって欲しいものです。
横須賀だけに、"これっきり"にして欲しい・・・・?
(これ、分からないでしょうねぇ。)

空から日本を見てみよう

なかなか面白い番組だと思います。Photo_2
テレビ東京さんは、売れない(昔の名前で出る)タレントさん支援の旅行・グルメ番組だけではないのですね。
最近は12チャンネルではなく、7チャンネルですから。
「空から日本を見てみよう」という番組。
先日は、我がホームグラウンドの「上野」の周辺でした。
「上野発展の歴史」という訳で、"くもじい"と"くもみ"ちゃんが案内してくれるのです。
勿論、鈴本演芸場も紹介されていました。
それにしても、上野という街は、色々な顔を持った街ですね。
改めて知りました。

茶の湯

この噺もいい噺ですね。
人の心理、見栄を巧みについています。
このご隠居と、転失気の和尚さんは好きですねぇ。
まるで自分を見るようです。Photo_2
蔵前の旦那が根岸に茶室付きの家を買って、隠居した。
せっかくだからと茶の湯を始めるが、作法を知らず、抹茶と間違えて青黄な粉を買って来たが泡立たちが悪いと、更にむくの皮を放り込んで、無理して飲んで「風流だなぁ」と洒落る。
三日も経つと腹が下って仕方がない。
誰かを呼んで飲ませよう。
店子連中を招待すると、茶の作法を知らずに恥をかくのは嫌だと引っ越の算段。
ま、ともかく行ってみようと、口をつけたら不味いのなんの、最後に本物の旨い羊羹で口直し。Photo_3
その後、近所でも評判になり、飲んだ振りして羊羹を盗るのが流行った。
こりゃたまらんと、旦那がイモをすり潰して灯し油を塗ったお菓子を利久饅頭と称して羊羹に代えた。
客人が不味いお茶の後で、お菓子が欲しいと二つ頬張ったらこれが更に不味い、どこかに捨てるところはないかと探し、廊下から隣の菜畑に投げたら百姓の横っ面にべたっと。
「あーあ、また茶の湯だよ」
ところで、当時は根岸というのは、ご隠居さんが侘び住まいをする場所だったというのが驚きですね。
根岸といえば、今は、JR鶯谷駅の東側です。
今は・・・・、大変環境のおよろしい場所の近くです。

2011年8月29日 (月)

読む落語

読む落語
読む落語・その壱「井戸の茶碗」。
週刊ポストの新しい企画で、「時代小説の第一人者が、"落語の人情世界"を本邦初のノベライズ!」という意気込み。
要は、落語を小説風にしてみましたということ。
その壱の「井戸の茶碗」は、山本一力さん。
「週刊ポスト」というのは、他の雑誌に比べて落語の記事や特集が比較的多い気がするのですが・・・。
・・・多いはず。出版社は「小学館」だったんですね。
結構、結構・・・。

東京かわら版

数日前に「東京かわら版」9月号が届きました。Photo_2
巻頭インタビューは「春風亭一朝」師匠です。
先代の春風亭柳朝師匠に弟子入りした経緯や、柳朝師匠との関わり、「一朝懸命」の由来・・・、楽しい対談です。
一朝師匠は、肩肘を張らない、自然体の粋な高座が魅力だと思います。
決して派手な芸風ではないので、芸を理解してもらうのには時間がかかっても、一旦良さを知ってしまうと、本当に魅力的な噺家さんです。
そんなファンが多いと思います。
先代柳朝門下に、静の一朝・動の小朝あり。
ところで、いよいよ「イイノホール」が新築オープンするようです。
こけら落としの落語会の広告が載っていました。
また落語会が多く開かれるといいのですが。

武助馬

この噺は、圓窓一門の十八番かもしれません。
窓輝さんや吉窓さんもよくお演りになるみたいです。
どんな仕事をやってもうまく行かない武助が、役者になりたいと上方へ修行に出た。
役者修行で最初にもらった役は猪だった、
次は牛の脚で、声を出す役は、用はない下がれと言われて、「ハハーッ」だけ。Photo_7
三年経って江戸に戻り、以前奉公していた商店の旦那に挨拶にきた。
今度、馬の脚の役をやるので見にきてほしいと頼む。
旦那は、贔屓にしてやると、店の者を従えて芝居小屋へ。
武助は後脚の役で、前脚はこの道十三年の熊衛門さん。
馬の張子を被ったときに、熊さんが一発放屁した、狭い空間で臭いのなんの。
芝居が始まり、店の衆が掛け声を掛ける「ヨッ馬の脚、後足の方、武助馬、日本一!」と声がかかって、喜んだ武助は思わず、ヒヒーンといなないた。
芝居が終わって、親方に呼ばれた。
「お前は、何だって後脚で鳴くんだ。」
「でも熊衛門さんは前脚でおならをしました。」・・・・
転失気と同様、おならがテーマになっています。
いつもこういう発想でいられたら楽しいでしょうねぇ。

老舗の暖簾

老舗の暖簾
有名なデパートも、元はと言えば呉服屋さん。
最近の江戸ブームもあってか、地下鉄からの入口には、大きな暖簾が掛けられています。Photo
なかなかいいものです。
今にも、定吉が飛び出して来そうです。

2011年8月28日 (日)

落語はやおき亭

引続きゲストが、「林家木久扇」師匠。Photo_2
だから、別に聴かなくてもいいのですが、「落語DEデート」で目が覚めていますから、そのまま駆け込みというところ。
落語云々は別にして、落語界にとって、木久扇師匠のような"宣伝マン"的な存在も、非常に貴重だと思います。
(実は)ど真ん中ではないけれども、「落語」を知らない多くの方々の水先案内役として、なくてはならないのかもしれません。
私は・・・、落語のことを少し知っていますから、もうあまりお世話になる必要はなくなりましたが。
  ◇  蛇含草    林家木久扇(木久蔵)
ちょっと若い頃の録音でした。

佐々木政談

先日の「東京落語会」では、この「佐々木政談」と「唐茄子屋(政談)」がネタ出しされていましたから、もう「噺がつく」というのは、気にしなくても良いのでしょうか?
確かに、「唐茄子屋」は、お裁き・お白洲の場面は登場しませんから、聴いている分には、あまり重複感はないのですが・・・。Photo_27
嘉永年間に南町奉行へ、「佐々木信濃守」と言う方が職につきましたが、調べのお上手な誠に活発な方で、「賄賂、これはどうも甚だ良ろしくない風習であるから、こういう事は、絶対に止めさせたいがどうも、正面を切って賄賂(まいない)を取るなとも言えないから何か、意見をする様な事は無いか」と、御非番の時は色々姿を変えて町を見回ると言う。
今日も、田舎侍と言う出で立ちで小紋の短い羽織を召しまして、お伴の三蔵を連れて役宅のある数奇屋橋御門口から銀座に出て来た。
あちらこちらと町の様子を見ながら歩いていると、子供が大勢ぞろぞろぞろぞろ、手習いの帰りと見えて、二人の子供が両手をこう結わいられている。
縄を持った子供が手先と見える。
先へ棒を持った者が立って、「ほうほう寄れ寄れ。これこれ、邪魔だ邪魔だ寄れ寄れ」と、奉行ごっこが始まった。
四郎ちゃんが奉行でござを轢いてお調べに入る。
立ち見している佐々木信濃守と同じ名前で始まったが、邪魔だとその本人を追い立ててしまう。
お調べは頓知頓才で一件落着。
子供達は明日も四郎ちゃんが奉行でまたやろね~と解散。
見ていた佐々木信濃守は親、町役同道で南町奉行に出頭しろと三蔵に言いつけた。
この話を聞いた親の桶屋高田屋綱五郎はびっくり、家主太兵衛をはじめ、町内もひっくり返る様な騒ぎになった。

青い顔の親父を筆頭に全員白州の上に控えていると、佐々木信濃守が着座。Photo_28
みんながビクビクしている中で、お調べが始まった。
四郎吉の遊びの中の裁きが良かったと褒めるが、そんなのは上から下を見ながらだから簡単だという。
「これから奉行の言う事に答えられるか」「上下に座っていたのでは位負けするので、そこに並んで座れば答えられる」、許しが出たので並んで座る。
「夜になると星が出るが・・」
「昼にも出ているが、見えないだけだ」と、まずは一本取られる。
「その星の数が判るか?」
「このお白州の砂の数が判りますか?」、「何故」
「手に取れるものの数が判らないのに、手が届かない空の星の数など判らない」と、また一本。
「しからば、天に昇って星の数を数えている間に、白州の砂の数を数えておくが、如何か」、「そんなの訳無しのコンコンチキ」、「訳無しのコンコンチキ?」
「初めて行くので、宿屋切手と案内人を付けてください」
またまた技あり。
褒美にと三方の上に饅頭を山積みして、食べても良いと差し出す。
「何かを買ってくれる母親と、小言をくれる父親とどちらが好きか?」
「こーやって、二つに割った饅頭、どちらが美味いと思いますか?」
「う~ん」、「これが頓知頓才」。「四角くても三方とは?」
「一人でも与力と言うがごとし」。
「では、与力の身分は」
懐から起きあがり小法師を出して「これです」、「これとは?」
「身分は軽いが、御上のご威勢を笠に着てピンしゃんピンしゃんと立ちます。その上、腰の弱い者です」。
与力は下を向いてイヤな顔をしている。
「それでは与力の心はどうか」
「天保銭を貸してください」その銭を、起きあがり小法師にくくりつけて放り出した。
「銭のある方に転がっている」。
ひどいすっぱ抜きで、与力が驚いたり、怒ったり。
「座興で、嘘だ」と、座を納める。
「綱五郎そちは幸せ者である。これだけの能力を桶屋で果てさせるのは惜しい。15才までそちに預けるが後は私が召し抱えて近従にさせる」と言う。
出世の道が開けたという、佐々木政談でした。

圓窓一門は、「桶屋裁き」という題名で、オチがついています。
「佐々木信濃守顕発(あきのぶ)」という人は実在の人物です。
江戸時代末期の旗本。
一介の旗本家来から御家人、旗本となり、勘定奉行・町奉行・外国奉行等へと大出世した人物として知られる。
天保 2年(1831年)  支配勘定。Photo_29
天保 5年(1834年)  評定所留役。旗本
天保13年(1842年)  勘定組頭。
             永々御目見以上。
天保14年(1843年)  勘定吟味役。
                            家禄100俵。
嘉永 4年(1851年)   奈良奉行。
                            従五位下信濃守叙任。家禄200俵。
嘉永 5年(1852年)  大坂東町奉行(10月8日)
安政 4年(1857年)  小普請奉行(2月24日)
安政 5年(1858年)  勘定奉行(5月24日)
安政 6年(1859年)  免職、差控(2月2日)。反井伊直弼派のため。
文久 2年(1862年)  徒頭、作事奉行
文久 3年(1863年)  北町奉行(4月16日〜4月23日)、
               西丸留守居(4月23日〜8月2日)
                             南町奉行(8月2日)
元治元年(1864年)  外国奉行(6月29日)。
             御役御免・寄合(7月25日)

どんな人だったのか、細かいことは知りませんが、今のような「有事」の時には、スケールの大きな人が必要だと思うのですが、この国の人たちは・・・・。

落語DEデート

今朝も何とか起きられました。
   ◇ 錦の袈裟  三代目三遊亭金馬Photo_3
今回も先代の金馬師匠です。
そう言えば、最近は「錦の袈裟」を聴いていませんでした。Photo
無欲の与太郎さんが"恩恵"を受けるという、とても平和な噺です。
落語に出て来るおかみさんの中でも、この噺と「鮑のし」のおかみさんなどは大変賢く、この二人はどういういきさつで夫婦になったんだろう、なんて思ってしまいます。
尤も、世の中、同じような性格の人同士よりも、全く違ったキャラクター同士の方が、長続きするのかもしれません。
この噺を初めて聴いた時は、廓(女郎買い)の仕組みや様子を知りませんから(今も知りませんが)、こういう趣向そのものが理解できなかったのを覚えていますが、褌と袈裟のコントラストが面白かったのを覚えています。
ところで、「錦」というのは、様々な色糸を用いて織り出された絹織物の総称ですが、十二単や和服の帯や小物に使われる織物で、金糸銀糸を使用し四季折々の花鳥風月をきらびやかで豪華に織り込んだものです。

「三遊亭圓朝」の名跡

初代「三遊亭圓朝」は、三遊派の中興の祖といわれ、そのために「三遊派の宗家」といわれ、1900年(圓朝の没後)以降、この名跡は「藤浦家」が預かっているそうです。Photo_5
この名跡が藤浦家のものになったのは、先々代の当主である「藤浦周吉(三周)」が圓朝の名跡を借金の担保にして、圓朝を経済的に支援した縁によるものだそうです。
この「藤浦三周」から二代目襲名を許された「三遊亭圓右」は、襲名実現直前に死去したため“幻の二代目”といわれたことには触れましたが、その後、藤浦家は圓朝の名跡をどの落語家にも名乗らせてはいません。
いわゆる「止め名」状態になっている訳です。Photo_4
現在の藤浦家の当主は、映画監督の「藤浦敦」という方だそうです。
藤浦さんは、1996年に出した自著「三遊亭円朝の遺言」で「春風亭小朝」さんと対談し、「あなたがこれからの落語界のリーダーになりなさいよ」と、小朝さん本人に勧めてはいました。
この本は私も読んだ記憶があります。
小朝さんの元奥さんのYさんは、週刊文春2008年05月22日号で、藤浦さんから小朝に圓朝襲名の話が実際にあったが、小朝さん本人がそれを固辞したと公表しているそうです。
真偽のほどはともかく、噺家さんの名跡というのは、「宗家」あり、遺族ありで、「三遊亭圓朝」だけでなく、「春風亭柳枝」も「三遊亭圓生」も、何か釈然としない状況にあるようで、とても残念に思います。
ところで、「三遊亭圓朝の遺言」という本は、確か随分と分厚い本でした。
この本では、三遊亭圓朝の名跡を持つ(噺家さんが「三遊亭円朝」を名乗るのを認める権利を持つという)著者が、圓朝や他の噺家のエピソードを語っていたと思います。
著者の祖父と井上馨の殴り合いを円朝と伊藤博文が止めた話や、死の床にいる円朝の言葉に井上馨が涙した話など・・。
また、「昭和の名人」と呼ばれた「六代目三遊亭圓生」が襲名したくて果たせなかった話などのエピソードが書かれていたような。
ただ、この「宗家」というのが、私にはよく理解できませんでした。
噺家さんの名跡というのは、誰のものなのでしょう・・?

ロケット打ち上げ失敗

先日、ロシアが宇宙ロケットの打ち上げに失敗したというニュースを聞きました。
打ち上げに失敗したのはロシアの無人宇宙貨物船「プログレス」。Photo_3
カザフスタンの宇宙基地から打ち上げられましたが、不幸にして正規の軌道に乗せることができず、大気中で燃え尽きてしまったとか。
無人貨物船だったので、とりあえずはホッとしましたが、「プログレス」には食料や燃料、水など2トン半を超える物資が積まれていて、国際宇宙ステーションとドッキングする予定だったそうです。
・・・ということは、国際宇宙ステーションに滞在している飛行士のための物資な訳で・・・。
考えてみれば、今年、アメリカのスペースシャトルが退役してしまいましたから、ロシアの宇宙船が国際宇宙ステーションへの唯一の輸送手段になっています。
ステーションには食料などの備蓄が十分あるため、飛行士たちは冷静に受け止めたということではありますが・・・。
さぞや不安なことでしょう・・・。
今回の事故で、飛行士の滞在期間が見直される可能性があるほか、ソユーズを使った有人宇宙飛行そのものにも影響が出る恐れがあるとしているそうですが・・・。
落語には全く関係のない話題でした。

2011年8月27日 (土)

花火・・

    花火・・ 花火・・
いよいよ騒ぎが始まりました。
7時ちょうどから始まりました。
いつものように座椅子に座り、パソコンに向かったまま見える花火を、部屋の中から撮ってみました。
窓を開けるとうるさいので、写真を撮った後は、窓ガラス越しに「鑑賞」することにしました。
          花火・・
携帯カメラでは、なかなかうまく撮影できませんが・・・。
与党政党の代表者を決めるという、KYな政治家たちの騒動のニュースを聴きながら。
     
涼しい夜です。もう夏も終わりですか・・・。

花火大会

今日は、いつもより遅い「隅田川花火大会」だそうです。
Photo_7 一方、同じようにいつもより遅く、「松戸花火大会」も今夜開催されるそうです。
我が家は一家で、人ごみの中に行ったり、行列に並んだりするのが嫌いですから、どうもこの手のイベントには興味がありません。
Photo_8 自宅から江戸川方面を望めば、部屋の中から遠目に花火を見ることは出来るのですが、パンパンとうるさいので、いつも窓を閉めています。
今年も、午後7時から8時まで、騒音を我慢しないといけません。
花火も綺麗だとは思いますが、毎年そんなに興奮して見物に行くこともないのになと思います。
昨年の人出は、約18万人だったとか。
見物に来る方々はいいですが、その近くに住んでいる者は、甚だ迷惑なところもあります。
「たまやぁぁぁ~」じゃなくて「たまらないやぁぁ~」です。

観測史上最高・・・

Photo

人にとっては、50年・100年なんていうのは、随分長い時間なのでしょうが、自然界にとってはほんの一瞬なのでしょう。
地球の歴史を24時間だとすると、人間が誕生したのが、午後11時59分を過ぎてからだそうですから。
だから、「今まで見たことない」とか「長く住んでいるけれども初めて」なんていうのは、実に空しいものです。
とはいえ、最近の異常気象には驚かされます。
気温も、降雨量も、「観測史上最高」というニュースが踊っています。
26日も、全国的に大気の状態が不安定になり、関東地方は局地的に雷を伴った猛烈な雨に見舞われ、夜までに相模原市で94.5ミリ、東京都練馬区で90.5ミリ、千葉県市原市で85.5ミリ、羽田空港で82ミリの1時間雨量を観測したそうです。
勿論、相模原市、市原市、羽田空港は観測記録を更新しました。
南下した前線が26日午後に関東付近を通過した際、冷気と暖気が東京付近でぶつかったことが局地的豪雨の原因だそうです。
東海道新幹線は26日夕から夜にかけて東京-新横浜駅間や三島-静岡駅間で一時運転を見合わせ、羽田空港も飛行機に燃料などを搭載する作業ができなくなり、午後4時過ぎから約1時間、発着を中止。
都内では、板橋区などで29棟が床上浸水、三鷹市などで98棟が床下浸水。板橋区などで道路48カ所が冠水
羽田空港トンネルでは午後5時過ぎ、乗用車など8台が水没するなどして立ち往生したが、運転手らは全員、救命ボートなどで運び出されたなんていう。
前日は、静岡県富士市でも、24時間降雨量が250ミリぐらいになったとか。
異常気象は、人の想定などおかまいないですから、気をつけないといけません。
大震災の大津波も、例えば富士山の噴火なども、人の時間間隔を超えて、頻繁に起こっているものなのですね。
何が起こっても驚いてはいけない。
そういうこともあるよと、聞き流すぐらいでないといけません。
「天災」は、人の力ではどうしようもないのです。
「紅羅坊名丸」先生も、そう仰っています。
落語は勉強になりますね。

ラジオ深夜便"志の輔らくご"

就寝の時は、BGM代わりにラジオを聴きながらなのですが、昨夜(今日未明)に、意識朦朧の中で、どこかで聞いたことのある"だみ声"がしました。
NHK「ラジオ深夜便」で、「富山県」を特集した番組構成のようです。
富山県出身の噺家さんと言えば「立川志の輔」さんです。
そうか、富山特集か、それで「ガッテン」です。
何か色々話していましたが、ほとんど意識不明でした。
  ~人で伝える富山の魅力”志の輔”らくご
       落語家 立川志の輔
    ◇ はんどたおる  立川志の輔

ファーストフードの江戸

江戸という街は、当時世界一の人口を誇る大都市だった訳ですが、水(下水・汚水)・ゴミ・木材・布等々・・、あらゆる物を無駄にしない、究極のエコタウンでした。Photo_10
同時に、気軽に迅速に飲食ができる街でもあったようです。
ある本では、「江戸時代の三大ファストフード」ということで、「寿司」・「そば」・「天ぷら」が取り上げられています。
「寿司」の起源は、遠く奈良時代にさかのぼり、滋賀県のあの鮒寿司が原型で、それが押し寿司となり、大阪から江戸へ伝わり握り寿司となったそうです。
当時の江戸は地方からやって来た男性独身者が多く、屋台で手軽に食べられる寿司が大ブームになったようです。
当時の寿司は、握り寿司と言うよりもおにぎり寿司で、長方形に握られたこぶしくらいの大きさのすし飯に魚がベローンとのっかっていたようで、これ1コ食べたらかなりお腹一杯になりそうな大きさだったようです。Photo_12
「そば」は、寛永20年(1643年)に書かれた料理本「料理物語」に登場する「そば切り」がそのルーツになるそうです。
細く切ったそばを軽く茹でてぬるま湯に浸けて洗い、せいろに移して熱湯をかけ、さらしの布巾を被せて蒸す。
次につゆは、水に溶いて煮立てた味噌に鰹節を加えて濾します。
つなぎを使わずそば粉100%だったからなんでしょう。今とは異なり、固くてぼそぼそした食感だったことでしよう。
「天ぷら」は、今でこそ具材には野菜もありますが、当時は魚介類だけだったそうです。
今のてんぷらと見た目で1番違うのは、串が刺さっていたこと。
串に刺したエビや魚に小麦粉の衣をつけて揚げてから、どんぶりに入ったたれに浸して食べたそうです。
このたれは共通なので衛生上から2度浸け禁止でした。
関西の立ち飲みの店においてあるキャベツも、ソースの2度づけ禁止でしたね。

「春風亭柳枝」代々

柳派の大名跡「春風亭柳枝」を覗いてみました。
江戸落語「柳派」の由緒ある名跡で、現在まで50年にわたり空位になっています。

■初代  春風亭柳枝 - 幼名、亀吉。
■二代目 春風亭柳枝 - 本名不詳。
■三代目 春風亭柳枝 - 通称「蔵前の柳枝」「蔵前の大虎」。
                              柳派頭取。本名、鈴木文吉。
■四代目 春風亭柳枝(初代春風亭華柳)
                            - 通称「牛込の柳枝」「鼠(ねずみ)の殿様」。
                              睦会創設者、初代会長本名、飯森和平。
 (五代目 春風亭柳枝 - 存在しない)
■六代目 春風亭柳枝 - 通称「ゴミ六の柳枝」「横浜の柳枝」。Photo_2
                              本名、松田幸太郎。
(当時の実力者「五代目柳亭左楽」は「五代目」が通り名だった ので、五代目柳枝のはずが「同じ五代目では恐れ多い。」と、代数を1つ飛ばして、六代目を名乗った)
■七代目 春風亭柳枝
     - 通称「エヘヘの柳枝」。五代目柳亭左楽門人。
        本名、渡辺金太郎。
■八代目 春風亭柳枝 - 通称「お結構の勝っちゃん」。Photo_3
四代目柳枝門人。本名、島田勝巳。

圓窓師匠の最初の師匠です。
「春風亭柳枝」の名跡は、四代目が「睦会」を結成したこともあり、七代目までは「睦会」の名跡でした。
代目はもう一つ「春風亭小柳枝」という名跡も作り、柳枝の一つ手前の出世名としました。ところが、小柳枝の名跡をめぐり日本芸術協会(現落語芸術協会)と睦会が対立。
これには、日本芸術協会が勝利し、小柳枝の名跡を確保しました。
ところが、柳枝の名跡は獲得することができず、最後は「落語協会」に流出させた(1943年に落語協会で八代目襲名)という経緯があり、一門の名跡が2つの協会に跨った形になっています。
八代目が亡くなってから、もう50年以上になります。
「春風亭柳枝」の前名ともいえる「春風亭小柳枝」師匠は、現在落語芸術協会の重鎮ですが、八代目は落語協会の名跡となっていること、八代目の弟子が現在も高座に上がっている(春風亭栄枝師匠)ことなどから、この大名跡の襲名は、引続き難しいようです。

猫久

落語には、よく猫や鼠が出て来ます。
犬・猫・牛・馬・鼠なんていう動物は、江戸時代の庶民にも、馴染みのある動物だったのでしょう。
「元犬」・「犬の目」・「牛ほめ」・「お玉牛」・「馬のす」・「馬の田楽」・「ねずみ」・「ねずみ穴」・・・・。
そして、猫でも「猫の皿」・「猫の災難」・「猫定」・「猫忠」・「猫久」と・・、数多いです。
不思議なのは、落語の「猫」は、他の動物と異なり、いずれも仕草や台詞がほとんどないんです。Photo_26
題名に猫が付いているのだから、猫が主役で登場するかと思えば、そうではないのです。
先日の「東京落語会」では、「柳家花緑」さんが「猫久」を演りました。
この「猫久」の主人公の久六さんも、全く登場しないのです。
ある長屋に久六さんという八百屋さん、お人好しで、人に頭をなぐられても、何を言われてもにこにこ笑っている大変おとなしい人。
ご近所の方から、「まるで猫みたいなやつだ」と言われ、猫の久さんだから猫久さんというあだ名で通っていました。
このおとなしい猫久さんが、ある日、血相を変えて家に帰り、「今日という今日は勘弁がならねえ。おい脇差しをだせ。刀をだせ!」と女房に怒鳴っています。
それを知った長屋の熊さん、早速女房に告げにいきます。
熊さんはそのことを他の誰かにもしゃべりたくて仕方がないので、「床屋に行く」と言います。
「いけないよ。鰯こしらえとくれ、鰯を。南風が吹いて、ぽかときてるんだから、ぐずぐずしてると、鰯が腐っちまうよ。いわしが!」
「やかましいやい。いわし、いわしってどなりゃあがって・・・
お昼のおかずがいわしだってぇことが、長屋じゅうにわかっちまうじゃねえか」
女房の止めるのも聞かず、熊さん、出かけてしまいました。
普段まったく無いことですから、それを知った長屋の連中が驚いたのなんの。
長屋の界隈にすぐ広まり大騒ぎです。
既に髪結い床の親方にまで伝わっていました。
「いやぁ、びっくりしたねぇ。あそこのうちに刀があったんだね。
あのかかあ、神棚の前へ坐って、なんだか拝んでいたが、三ベンばかりいただいて猫に刀を渡しやがった。
あぶないじゃないか。あのかかあは変わり者だよ。」などと言う。
日頃から久六さんの女房を良く思っていない長屋の女房達の悪口も加わる始末。
と、そこに居合わせた侍が、「変わり者だという、その方達がおかしい。日頃から猫といわれるほど大人しい男が、血相を変えて刀を出せとは、よほどのことがあったのであろう。それを察して、神前に三度もいただいて刀を渡したとは、先方に怪我のないよう、夫に怪我のないように夫を思う女丈夫というべき賢女なり。貞女なり。天晴れ、いや、あっぱれだ」と言ってほめちぎる。
家に帰った熊さんは、髪結い床での話を早速女房にした。
「猫久の女房は変わり者だよ。」といっている熊さんの女房に、はたしてうまく伝わったのか・・・。
そうしているすきに、台所に置いてあったお昼のおかずのイワシを、泥棒猫がくわえて逃げだした。
「おい、おっかあ、そこにあるすりこ木を持ってこいっ。今日という今日は、張り倒してやる。」
どうやら、その猫は魚泥棒の常習犯らしい。
すると女房は、両手ですりこ木を、ていねいに神棚の下で三度も押し戴き、「待っといでよう。いま、あたしゃいただいているところだ」
落語によくあるパターンの噺です。
当事者の猫久さん夫婦が登場もしないし、会話もないという噺です。
まわりが勝手に大騒ぎしているという。
無邪気なものです。
あっ、そう言えば、時間が押していたということで、花緑さん、マクラもそこそこに噺に入りましたので、お祖父ちゃん(五代目柳家小さん師匠)の話題が入りませんでした。
それで(が)いいのだ。

2011年8月26日 (金)

目黒のさんま祭り

落語が取り持つ縁とでもいうべき「目黒のさんま祭り」。Photo
目黒駅前商店街は、秋の恒例イベント「第16回 目黒のさんま祭り」を9月4日に開催するそうです。
場所は誕生八幡神社近辺から目黒通りにかけての周辺一帯で。
岩手県宮古市直送のサンマ6000匹を無料で振る舞う同イベント。
毎年多くの人でにぎわい、昨年は、最高気温が34度を記録する中、上大崎3丁目の交差点からJR山手線沿いを目黒駅近くまで行列が伸びた。
今年は、「がんばれ! 岩手県宮古市」をテーマに東日本大震災のチャリティーを実施。
誕生八幡神社で入場無料の落語会「目黒のさんま寄席」も開催。
開演は10時で、4部構成。

「目黒」と、さんまの水揚げ地で有名な「宮古市」とのコラボレーションによる町興しイベントです。Photo_2
宮古と言えば、震災・津波の被災地ですから、今年はまた特別のイベントになるでしょう。
さて、落語が取り持つ・・を考えて、「○○(地名)・△△(動物など)」という題名の噺は、ほかにありませんか・・・。
「王子の狐」、「今戸の狐」・・・・。こんなものですか?
「目白のいわし」とか「蒲田のうなぎ」とか「本所のえび」なんていうのは・・・、ありませんね。
殿様が目黒まで遠乗りに出た際に、供が弁当を忘れてしまった。殿様一同腹をすかせているところに嗅いだことのない旨そうな匂いが漂ってきた。
殿様が何の匂いかを聞くと、供は「この匂いは下衆庶民の食べる下衆魚、
さんまというものを焼く匂いです。決して殿のお口に合う物ではございません」と言う。
殿様は「こんなときにそんなことを言っていられるか」と言い、供にさんまを持ってこさせた。
これは網や串、金属、陶板などを使わず、サンマを直接炭火に突っ込んで焼かれた「隠亡焼き」と呼ばれるもので、殿様の口に入れるようなものであるはずがない。
とはいえ食べてみると非常に美味しく、殿様はさんまという魚の存在を初めて知り、かつ大好きになった。Photo_4
それからというもの、殿様はさんまを食べたいと思うようになる。
ある日、殿様の親族の集会で好きなものが食べられるというので、殿様は「余はさんまを所望する」と言う。だが庶民の魚であるさんまなど置いていない。
急いでさんまを買ってくる。

さんまを焼くと脂が多く出る。
それでは体に悪いということで脂をすっかり抜き、骨がのどに刺さるといけないと骨を一本一本抜くと、さんまはグズグズになってしまう。
こんな形では出せないので、椀の中に入れて出す。

日本橋魚河岸から取り寄せた新鮮なさんまが、家臣のいらぬ世話により醍醐味を台なしにした状態で出され、これはかえって不味くなってしまった。
殿様はそのさんまがまずいので、「いずれで求めたさんまだ?」
「はい、
日本橋河岸で求めてまいりました」
「ううむ。それはいかん。さんまは目黒に限る」。

有名な噺です。

初代三遊亭圓右

Photo_2

初代三遊亭圓右(1860年6月15日 - 1924年11月2日)。
本名は沢木勘次郎。
「四代目橘家圓喬」と並び称される明治期から大正期にかけての名人。
一代で圓右の名跡を築いた。
1872年頃に「二代目三遊亭圓橘」門下で橘六
1877年に二つ目で「三橘」
1882年に「圓右」となり
1883年真打昇進。
1924年10月24日、大師匠三遊亭圓朝の27回忌に、二代目圓朝の名跡を管理していた「藤浦三周」からその年の秋に名乗る事を許されるが、既に身体は肺炎に冒されていた。
結局病床で襲名するも間もなく逝去。享年65歳。
二代目圓朝となったのは事実であるが、圓朝としてはほとんど活躍せずに没したため「幻の二代目」と言われる。
一方、圓右時代の功績が華々しかったためか、一般には「初代圓右」として認識される。
「名人圓右」といえば、初代圓右の事を指す。

「三遊亭圓朝」の囃子方をしていた伯父に連れられて寄席に通ううちに高座へ上がるようになり、弱冠13歳で「二代目三遊亭圓橘」門下に入門。
圓橘といえば圓朝の愛弟子に当る人なのですが、この圓右という人は自分は圓朝門下の出身といって、圓橘の弟子であることを絶対に言わなかったという変り者だったようです。
その後、圓朝から直接芝居噺を習い、24才で真打となり、圓右と改名しています。
人情噺と芝居噺に長けており、特に「唐茄子屋」と「火事息子」が十八番だったようです。
明治の後期から大正にかけてが最盛期で「四代目橘家圓喬」、「三代目柳家小さん」と張り合っていたので、この頃の三名人の一人と呼ばれているようです。
大正13年に圓朝の二十七回忌に際し、二代目圓朝を襲名する運びとなったのですが、折りからの風邪をこじらせ肺炎を併発し病床での襲名披露となり、そのまま息を引き取ってしまったのです。
「二代目三遊亭圓朝」の由来です。

唐茄子屋(政談)

「東京落語会」で、「三遊亭遊三」師匠がお演りになった「唐茄子屋政談」。
「政談」という題名ではありますが、実際にお白州でお裁きをする場面は出て来ません。
この噺もいい噺で、これもいつか演ってみたいほどに好きです。
遊びすぎて、”お天道様と釜の飯は付いてくる”と自ら勘当された若旦那”徳”は最初の内は良かったが、そのうちに誰にも相手にされなくなってしまう。
いよいよ路頭に迷って吾妻橋までさしかかり欄干から飛び込もうとするところを、たまたま叔父さんに助けられた。
何でもするからと、達磨横丁の叔父さんの家に連れられていった。
おばさんに挨拶して食事をさせてもらうと、疲れがどっと出て、死んだように眠った。

翌朝、叔父さんに起こされ、今日から「唐茄子」を売り歩けという。
「みっともないから・・」と言うと、叔父さんからさとされ、天秤を担いでヨロヨロしながら長屋を出ていった。
アミダになった笠も直せず、天秤にしがみついて歩いていたが、吾妻橋を渡って田原町に来た時にはたまらず、荷を投げ出して倒れてしまった。
そこで、通りかかった親切な住民が手分けして買ってくれた。
残った唐茄子二つを担いで歩き始めたが売り声も出ない。
吉原脇の田んぼの中で売り声の練習をしながら、道楽三昧の日々を思い出していた。
声も出る様になって、誓願寺店に入って来ると、質素だが品のいい奥さんに声を掛けられ、残っていた二つを売り切ることが出来た。
弁当を使わしてくれと頼んで食べ始めると、五歳ぐらいの男の子が「おまんまだ!」と言って離れない。
事情を聞くと、亭主からの送金が無くなってしまい、何も買う事も出来ず、とても困っていると言う。
徳は、自分も路頭に迷ったのでひもじいのはよく分かると、子供に弁当をやって、売り上げを全部渡し、おかみさんを振り切るようにして、叔父さんの家へ戻ってきた。

完売した事に叔父さんも喜んでくれた。
叔父さんが顛末を聞いていたが、売り上げを見せろと言うが、徳は長屋のおかみさんに全部あげてしまったので無い。
「誓願寺店で親子に弁当とお金を全部上げた」というと、叔父さんが「本当ならイイが、これから行こう」と提灯を持って立ち上がった。
誓願寺店に着いてみると、長屋では大騒動の真っ最中。
話を聞いてみると、あげたお金を因業大家が
Photo_25全部、店賃として取り上げてしまったので、おかみさんが悲観して首をくくってしまった。
徳は感極まって、因業な大家の家に怒鳴り込んで、やかん頭にやかんで殴りつけ、溜飲を下げた。
おかみさんは医者に診てもらい、幸い寿命が会ったと見えて助かり、叔父さんが親子を引き取り暮らした。
収まらないのは徳さんで、自分が行かなければ奥さんは助からなかっただろう。
この事を奉行に願って出た。
裁きの結果、大家はきついおとがめ、徳さんは人助けをしたとして、青差し十貫目の褒美をもらい、勘当が許されたという。”情けは人の為ならず”唐茄子屋政談の一席。

私が、この噺で唯一気になる部分は、首をくくった貧乏長屋のおかみさんが死なないというところです。
心情的には、是非生きていて欲しいと思いますが、首をくくって無事助かるはずがありません。
だから、冷酷ながら死んでしまうか、自殺の方法を変えるかするべきだと思います。
川へ飛び込むというのは、既に徳がやっていますので、これ以外のやり方で・・・。
私も「浜野矩随」では母親を死なせる演出にしましたが、この「唐茄子屋政談」では殺したくありません。
幼い子どもを二人残して死ぬなんて言うのは、落語国には似合わないから・・。
このあたりの整合性を工夫する必要かあると思います。

柳家小さん代々

柳派のトップでもある「柳家小さん」。
Photo_31柳家小さん」の名跡は、江戸落語界の勢力を「三遊派」と二分してきた「柳派」の大看板であり、三代目が文豪夏目漱石によって「三四郎」などの作品中で作中人物の口を借りる形で絶賛されたり、五代目が落語家として初の人間国宝に認定されたりするなど代々実力者ぞろいです。
名前の由来は、初代が「鬼」という渾名を持ち、非常に不器用であり、その逆効果を狙って当時芸者や花魁で流行っていた愛嬌のある芸名だった「小さん」を用いたとされています。
そうか、芸者さんの名前なのか・・・。
柳家小さん代々を俯瞰
してみましょう。
■初代春風亭小さん
後に四代目朝寝坊むらくを襲名。本名不詳。
最初は「春風亭」だったんですね。
ということは、やはり「春風亭柳枝」というのは、「小さん」より大きな名跡なんですね。
Photo_12■二代目禽語楼小さん
柳家小さんから禽語楼小さんを経て、晩年は柳家禽語楼を名乗る。
本名は大藤楽三郎。
(三代目から五代目まで、代々「名人」の評価を受けています。)
■三代目柳家小さん
元は初代柳家小三治。本名は豊嶋銀之助。
先日述べたとおり、明治の文豪「夏目漱石」に絶賛された、明治の名人です。
上方の噺を数多く江戸(東京)に移入した功績も大きな師匠です。
■四代目柳家小さんPhoto_5
元は4代目蝶花楼馬楽。本名は平山菊松。
私は知りませんが、この師匠も名人の誉れ高い噺家さんだったようです。Photo_6
■五代目柳家小さん

元は九代目柳家小三治。四代目の弟子。
本名は小林盛夫。
言わずと知れた、人間国宝・"永谷園"の小さん師匠です。
志ん生・文楽・圓生・小さんが「昭和の名人」と言うのでしょうか。
■六代目柳家小さん
元は三代目柳家三語楼。五代目の長男。本名は小堀義弘。
Photo_7先代が立派だと、後を継いだ人は大変ですね。
他の大名跡に比べると、世襲でも、世襲でなくても、次代を担う人は複数いるようで、そういう意味では一番安泰かもしれません。
今の「柳派」の隆盛を見れば、あの人だって、あの師匠だって・・・。
これまた野次馬としては楽しいものです。

2011年8月25日 (木)

川柳発祥の日

今日は「川柳発祥の日」だそうです・・・。Photo
川柳というのは、五・七・五の音を持つ日本語の詩の一つ。
口語が主体であり、季語や切れの制限もない。
字余りや句跨りの破調、自由律も見られる。
同じ音数律を持つ俳句とともに、俳諧すなわち俳諧連歌を源とする。
付け句からあらかじめ用意された七七を省略し、五七五として独立した。
江戸時代の前句師・柄井川柳が選んだ句の中から、呉陵軒可有が選出して「誹風柳多留(はいふうやなぎだる)」を刊行し盛んになったことから、「川柳」という名前で呼ばれるようになった。Photo_2
宝暦7年8月25日(1757年10月7日)、初代川柳こと柄井川柳が川柳風の前句付興行を始めた日を記念して、川柳学会が提唱したものだそうです。
ということは、約250年の歴史ということですね。
機知に富んだものもあり、落語とも縁浅からざるところもあります。
言葉の遊びというのは、楽しいものです。

即席(インスタント)ラーメン

8月25日は「即席ラーメン記念日」なんだそうです。Photo_3
1958年のこの日、日清食品が世界初の即席ラーメン「チキンラーメン」を発売した日で、日清食品が制定したもの。Photo_5
日清食品の創業者安藤百福が開発した、麺を油で揚げて乾燥させる「瞬間油熱乾燥法」を用いて製造した「チキンラーメン」が最初だそうです。
Photo_4インスタントラーメンが日本の食文化に刻んだ功績は大きいですね。
私など、リアルタイムでインスタントラーメンとともに生きて来たようなものです。Photo_6
小学生の頃には、この「チキンラーメン」をはじめ、「ぴよぴよラーメン」「ハイラーメン」。Photo_7
中学生の頃は、「チャルメラ」「出前一丁」「サッポロ一番」。
高校生で受験の頃は、「カップヌードル」「ぺヤングソース焼きそば」・・・。
お世話になりました。
麺の製法や具や味付けは色々変わりましたが、今も基本的にPhoto_8は昔のままのようで、大変嬉しいものです。
私は、「サッポロ一番・噌味ラーメン」が一番だと思いますねぇ・・・。
海苔と卵とネギを入れたら最高です。
これじゃあ太るわけですなぁ・・・。
ところで、現代の日本でも、ハンバーガーや牛丼の類の「ファーストフード」が隆盛ですが、落語の舞台の江戸も、エコタウンであると同時に、ファーストフードが多い街だったようです。
「時そば」の「二八そば」なんて、その典型ですね。

大仏餅

八代目桂文楽師匠最後の高座が、この「大仏餅」。
Photo_3これも、「三遊亭圓朝」作で、三題噺をもとに作ったものだそうです。
出題は「大仏餅」「袴着の祝い」「新米の盲乞食」の3題です。
「圓朝全集」にも収録されていますが、昭和に入っては「八代目桂文楽」師匠の独壇場でした。
積もりそうな雪が降ってきた。父親が怪我をしたので血止めを分けて欲しいという子供が店の中に入ってきた。
聞けば、新米の盲目乞食が仲間内から縄張りを荒らしたと突かれて怪我をしたと言う。
山下の大店のご主人は、奥から取って置きの薬を塗ってあげた。
子供の歳を聞くと六つだという。
「当家の息子も袴着の祝いで八百善から料理を取り寄せ、お客さんに食べて帰ってもらったところだが、息子は旨い不味いと贅沢すぎる。その反対にこの子は雪の中、裸足で親の面倒を見ている感心な子だ」と、料理を分けてあげたいという。
出した面桶は朝鮮さわりの水こぼし、あまりにも茶人が使う高級品。
それを分かって、部屋に上げて八百善のお膳を二つ用意した。Photo_4
聞くと、過日は八百善の料理を味わっていた事もあるし、お茶の心得もあったが、貧乏して茶道具の全ては売り尽くし、この水差しだけは手放せなかった。
千家の宗寿(そうじ)門弟で芝片門前に住んでいた神谷幸右衛門だという。
あの神谷さんですかと驚いた。
出入りの業者が言うには庭がどうの茶室がどうのと言っていたが、一度招かれたが所用があって行けず残念であったと述懐した。
その河内屋金兵衛ですと自己紹介した。
お互い相知った仲であった。

鉄瓶点てで、お薄を差し上げたいと言い出した。Photo_5
お菓子が無いので、そこにあった大仏餅を菓子代わりに差し出し、子供と食べ始めたが餅を喉に詰まらせ息が出来なくなってしまった。
あわてて、背中を強く叩いたら息が出来るようになった。と、同時に眼が見えるようになった。
そこまでは良かったが、鼻がおかしくなって声が巧く出ないようになってしまった。
「鼻?、今食べたのが大仏餅、眼から鼻ィ抜けた。」

「大仏餅」というのは、近世、京坂地方で流行した餅で、上に大仏の像を焼印で押したものだそうで、京都の誓願寺前や方広寺前などに有名な店があったそうです。
のちに江戸でも流行。
江戸では浅草並木町(現・台東区雷門2丁目)の両国屋清左衛門が始めたといわれています。
大仏の像を焼き印で押した餅菓子で、浅草の観音詣でをした人に土産として売れたそうです。
・・・今はありません。
文楽師匠の専売特許だったということですから、この噺は聴いたことがありません。
文楽師匠も、高齢になって、いつでもやれる噺として、晩年はかなり多く演っていたそうで、その"安全パイ"で言葉が出なくなったのですから、物凄いショックだったのでしょう。

三遊亭圓朝門下の名人たち

Photo_3

今年の夏は圓朝ばかりです。
さて、「三遊亭圓朝」は、直弟子だけでも20人を超えていたと伝えられています。
主な一門のメンバーを当たってみました。
【三代目三遊亭圓生】
明治維新後、素噺に転向した圓朝が、それまで用いていた「道具入り芝居噺」の道具一式を譲った「三代目三遊亭圓生」は、通称「のしんの圓生」と呼ばれ、役者から落語家に転向したと伝えられています。
この「のしん」については、本名「野本新兵衛」に因んだものと言われる一方で、元々天狗連の真打格であったことから、「○○連の真打」と言われ、その「の真打」が「のしん」に転じたという説も。
三代目圓生を襲名した時期も、明治5年(1872年)とする説とそれより少し早い明治2~3年(1869~70)頃とする説がありますが、明治初期の芝居噺の第一人者であったことは確かです。
養母の死後神経を病み、明治14年(1881年)、43歳で死去。
【四代目三遊亭圓生】
背負いの小間物屋から圓朝の弟子となり、一時廃業して芝居茶屋の主人となるも上手く行かず落語界へ復帰。
明治15年(1882年)、四代目圓生を襲名します。
師匠圓朝の私信に「圓生は生来名人なり」とあり、落とし噺では圓生に適わないと言わしめたほどだったといい、廓噺を得意としたほか、人情噺にも優れ、さらには自らも噺を創作して、明治中期を代表する名人の一人として活躍しました。
【初代三遊亭圓馬】
圓朝の門人になる以前の経歴はほとんど分かっていません。
一説には、「三代目翁屋さん馬(後の四代目三笑亭可楽)」の門人に「翁家らん馬」という落語家がおり、その人物の門下で天狗連狂言亭市馬」と名乗っていた人物がこの圓馬だといわれているようです。
狂言亭市馬はその後「月亭花生」と改名、芝居噺を得意としていたそうです。
プロとしては「二代目三遊亭圓生」門下で圓馬と名乗りました。
「三遊亭圓朝」の真打昇進に伴い圓朝の父「橘屋圓太郎」の依頼などで、圓朝一門を補強するため12歳も年下の圓朝門下に加わったされています。
圓朝門下になってからは主に素噺を演じたようです。
晩年は西両国の駒止に住んでいた事から「駒止の圓馬」と。
1880年没。享年53。
門下に「二代目三遊亭圓橘(後に圓朝の門下へ)」がいます。
【二代目三遊亭圓橘】
麹町出身。14歳の時に父が亡くなり、以後は上絵師などの仕事して生計を立てるかたわら、「京橋連」という天狗連で落語を披露していたようです。
その後「三代
目立川焉馬」の下に入門、「花久馬」。
慶応3年の秋頃に、「初代三遊亭圓馬(通称「駒止の圓馬」)」門下に入って「三遊亭市馬」に。
明治2年2月の末(1869年4月)に三遊亭圓朝門下に入り、1873年5月に真打昇進。
この時に「三遊亭圓橘」に改名したと思われます。
一時期圓朝と不和になり、
1884年9月には「四代目立川焉馬」を襲名しますが、後に和解し、1886年頃?には再び三遊亭圓橘に戻ったようです。
「幻の二代目」といわれた「初代三遊亭圓右」は、この人の門下ということになります。

圓朝七回忌の法事の日に、参会者の面前で倒れ、愛弟子の「立花家橘之助」の膝に抱かれでこの世を去ったそうです。
人情噺から怪談噺まで芸の幅は広く、また茶道や書画などにも精通しており、人格者としても知られたとのこと。
以上の四人をして「圓朝門下四天王」と謳われたといいます。
さらに、名人上手は続きます。
【初代三遊亭圓遊】Photo_4
多士済々の圓朝の弟子たちの中でも一際異彩を放ち、また、落語の近代化と大衆化に絶大な功績を残したのが、本来は「三代目」でありながら、後年あまりにも有名になったことで俗に「初代」とされる三遊亭圓遊です。
23歳頃に圓朝門下となった圓遊は、「ステテコ踊り」という珍妙な踊りで人気を博す一方、本格芸では当時の名人たちに適わないと悟るや、当時は比較的軽視されがちだった滑稽噺に斬新なギャグや時代・風俗描写を巧みに盛り込んで、新作・改作を連発。
「滑稽落語」というジャンルを確立した点で、圓朝に勝るとも劣らぬ落語界の一大功労者と言えます。
「ステテコ踊り」から「ステテコの圓遊」、また鼻の大きさを売りにしたことから「鼻の圓遊」の異名を取りました。
【四代目橘家圓喬】Photo_3
既に触れているとおり、名人の呼び声が高く、「圓朝に最もよく似ていた」と言われたのが四代目橘家圓喬です。
師匠譲りの長編人情噺から四代目圓生系の落とし噺、三題噺に上方の噺に至るまで幅広い芸域を持ち、その芸は後世に多大な影響を与えました。
明治30年代から既に「二代目圓朝」に推す声があり、本人もその気持ちがあったといいますが、一方で「生意気」「高慢」など仲間内の評判が悪く、人望の点でいま一つだったことがあって、圓朝襲名は実現しないまま、大正元年(1912年)11月22日、肺病がもとで48歳で亡くなりました。
【二代目三遊亭圓馬】
明治から大正にかけて東西の落語界で重きをなした人だそうです。
【初代橘ノ圓】
二代目三遊亭圓馬の実弟だそうです。
今も落語芸術協会にいらっしゃいますが、「たちばなのまどか」なんて、何となく可愛いですね。
【二代目三遊亭小円朝】
明治の末に「落語研究会」を起こしました。
【三遊亭一朝】
圓朝譲りの怪談噺や芝居噺を後世に伝え、「一朝老人」と敬われた人です。
八代目林家正蔵(彦六)と五代目古今亭今輔視師匠が最も大きな影響を受け、晩年の世話もしたという話は有名です。

乱志の「ねずみ」裏話

私の「ねずみ」の裏話をひとつ。Imgp0776
昨年の9月の「学士会落語会」の「創立5周年記念会員落語会」への出演が決まり、迷わず仙台が舞台になっている「ねずみ」に決めたのですが、もともとのネタに加えて、数名の噺家さんの「ねずみ」を聴かせてもらい、練り上げることにしました。
ちなみに、私の「ねずみ」は、入船亭扇橋師匠のものをベースにさせていただいています。
そして、本家本元の桂三木助師匠から、桂歌丸・立川ぜん馬・柳家さん喬・三遊亭遊雀・鈴々舎わか馬・入船亭扇辰・立川志の輔そして三遊亭圓窓の各師匠方のものまでを・・・。
この中で、入船亭扇辰さんの「ねずみ」は、ラジオディズからのダウンロードだったのですが、噺の後に、解説・随談が入っていました。Imgp0779
山本進先生と本田久作さんとの対談です。
ここで、山本先生が仰っていたことがあります。
まず、三木助師匠がオリジナルの演出で、この「文芸路線」でやるならいいが、ねずみ屋の卯兵衛が、愚痴話を進めて行く途中で、「あ、わたくし卯兵衛と申します」と言うのは、いかにも演出しているようで、あまり好きではない。
(山本先生が)あの演出は好きではないと言ったら、直してくれた若手の噺家さんがいたそうです。(柳家三三さんでは?)
次に、三木助師匠は、良い虎の例えに「王頭の虎」と説明しているが、ちょっとくどい感じがする。2011072121380001
・・・そこで乱志は考えました。
この山本先生こそ学士会落語会の代表(会長)ですから、少なくとも上の2点は、気をつけてやらないといけないと・・・。
そこで、本番では、「卯兵衛と申します」という台詞は、愚痴話の冒頭で言わせることにしました。
それから、「王頭の虎」というのは、私も無駄だと思い、もともと台詞に入れてありませんでしたからそのままに・・・。
初めて告白することで、誰にも言っていませんでしたが、分かってもらえたでしょうか・・・?2011072222200001
ところで、本田さんは、この「ねずみ」のオチがくだらないというコメントをしていました。
が、私は、全くそう思いません。
「あれは虎ですか?私はてっきり猫だと思いました」と言いたくて演ろうとしたんですから。
尤も、ねずみの天敵が猫だというのも、最近は分かりづらくなったかもしれませんが・・。
これでも、いろいろ考えて演っているんです。
それがまた楽しいのですが・・・。

水盃(みずさかずき)

最近、話題がちょいとマニアックになっているのではと、色々ご不満もあろうかと思いますが・・・・。
「浜野矩随」で、矩随の母親が、矩随に水を汲んでもらって自分が飲み、その残りを矩随に飲ませるシーンがあります。201005302149000
その様子を聴いて若狭屋甚兵衛が、「水盃だ!早く帰れ!おっ母さん、どうなっているか分からない!」と気づきます。
「あっ、そうか!水盃だ!」と、夢中になって駆け戻る露月町の家・・・。
・・・母親は、家に伝わる九寸五分で喉元を突いた、見事な最後・・・。
「水盃」というのは、再び会えるかどうかわからない別れに際して、酒の代わりに互いに盃に水をついで飲むこと。
おそらく、「水盃を交わす」というのは、略式の生前葬儀なのでしょう。
「末期の水」を「水盃」で飲むということです。
・・・悲しい別れは、「浜野矩随」のクライマックスです。

2011年8月24日 (水)

二代目三遊亭圓朝?

「三遊亭圓朝」が、一代限りの「永久欠番(止め名)」だと思っている方は多いと思います。
ところが、圓朝には二代目がいたのです。
・・という話なのですが、面白いと思いませんか?
(ご通家の方はご存知だと思いますが。)
圓朝門下からは、多くの名人上手が輩出しています。
噺の実力から言えば、「四代目橘家圓喬」が最右翼だったことは、最近述べたばかりですが、この名人圓喬も、二代目圓朝を襲名してはいません。
それでは、二代目は誰だったのか・・・・。
Photo_2初代三遊亭圓右」という噺家さんがいました。
実は、この人が「二代目三遊亭圓朝」になることになっていたのです。
この人も「名人圓右」の呼び声が高く、明治期から大正期に大活躍した噺家さんだそうです。
えっ?この人が「二代目三遊亭圓朝」になることになっていた
"なることになっていた"というのは、何か複雑な言い回しですが、実は、初代圓右という人は、二代目圓朝を襲名することが決定はしたものの、一度も披露目をせず(二代目圓朝として一度も高座に上がらず)に、病のために亡くなってしまったのだそうです。
そのために、人呼んで「幻の二代目」と称されているのです。
ということで、二代目圓朝はいた。圓朝は二人いたのです。
勿論、その後、圓朝の名跡が「止め名」のようになっているのは、よくご存知のところでしょう。
三遊亭圓朝一門のこと、そして「幻の二代目」・初代三遊亭圓右のことは、また別項で述べることにいたします。

腰元彫り

「浜野矩随」は、「腰元彫り」の名人と言われた人です。
「腰元」という言葉は身のまわり、特に腰の回りというような意味で、そこから身辺の世話をする侍女を”腰元”とよんだり、刀剣の付属品を意味するようになりました。
2_2「腰元彫り」というのは、刀剣装飾品を彫刻すること、刀剣の付属用品を製作することを言います。
鉄・真鋳・銅などを加工するため、彫金術に長けていなければなりませんでした。
腰元彫りの名人たちと言えば、落語「金明竹」のあの早口な上方弁の口上でお馴染みです。
「先度、仲買いの弥一が取次ぎました道具七品のうち、祐乗・光乗・宗乗三作の三所物。横谷宗珉"四分一拵え小柄付の脇差し・・・」
後藤祐乗・光乗・宗乗を輩出した後藤家では、天皇家・将軍の「三所物」を手がけ、金工の保守本流だったそうです。
Photo_6ころが、江戸時代、泰平の世が続くと、刀剣は武器としてより装飾品としての様相が強くなって来て、武士よりも力を持ち始めた町人はこの目貫などの刀の道具を緒締め・紙入れ・帯止め・煙草入れの金具や「根付け」に使い楽しむようになりました。
その江戸庶民の要望に応えた筆頭が町彫りの横谷宗珉であり、浜野矩随もその一人だったという訳です。
200910252008000という訳で、「根付け」というのは、煙草入れ、矢立て、印籠、小型の革製鞄(お金、食べ物、筆記用具、薬、煙草など小間物を入れた)などを紐で帯から吊るし持ち歩くときに用いた留め具。

動物、人間、花等々とあらゆる物があります。
現代流に言えば、高級な携帯電話のストラップみたいなもの・・・。
200910252029001落語の「浜野矩随」を視聴していると、先代の三遊亭圓楽師匠は、彫った観音像などを風呂敷に包み、首っ玉に巻いて(背負って)若狭屋にやって来たり、古今亭志ん朝師匠は、仕草からはこけしぐらいの大きさに見えます。
200910252040000圓窓師匠からのご指摘や、立川志の輔の映像から、やはりこの観音像は、根付の大きさでないとおかしいということで、そんなつもりでやりました。
「浜野矩随」は、それほど仕草の多い噺ではありませんが、「腰元彫り」の大きさと質感を出すのは必要だと思います。
小さな観音様をどのように持つか。・・なんて。

お初徳兵衛浮名桟橋

「五街道雲助」師匠に酔いました。
今では「船徳」があまりにもポピュラーで、「お初徳兵衛浮名桟橋」の方は、ほとんど聴くことができません。
「船徳」は、初代三遊亭圓遊によって、この噺から切り出されて滑稽噺になったものです。2_3
遊びが過ぎて勘当をされた若旦那の「徳兵衛」は、いつも世話をしていた柳橋の船宿に転がり込み、居候の身の上。
そのうちに「船頭になりたい」と言い出すので、親方は「やめておきなさい」と意見をするが、本人の意志が固く、とうとう船頭になる。
(ここいらあたりが「船徳」の部分ですね)
それから数年・・・・。
今は立派な船頭になった徳兵衛は、男ぶりがいいこともあって、柳橋の芸者衆の間で大変な人気者になっている。
ある日、ご贔屓に連れられた売れっ子芸者の「お初」を乗せて吉原へ向かうが、吉原でご贔屓だけを降ろして戻る途中、にわかの土砂降りに遭い、船を首尾の松近くにつけて、しばし休息することに。
二人きりの時が流れる中、お初は「あなたのことを、ずっと前から知って(慕って)いる。」と意外なことを言い出す。
まだ船頭になる前から、若旦那の徳兵衛を見染めて、ずうっと思い(慕い)続けていたのだという。
そこへ落雷。
驚いたお初は、思わず徳兵衛に抱きついて・・・。

「お初」と「徳兵衛」のカップルは近松門左衛門の浄瑠璃「曽根崎心中」から出ています。
良く知られたこの浄瑠璃から登場人物の名を借りて作られたのが、人情噺「お初徳兵衛浮名桟橋」で、その発端部分がこの一席という訳です。
ずっと徳兵衛を思い続けている、お初の純粋な気持ち。
徳兵衛に近づくために芸者にまでなるという、お初の一途な心。
幼い頃から、ずっと同じ人を思い続けられる人、その人に思われ続ける人というのは、ともに実に幸せだと思いますし、その一途な思いが何とか遂げられるようにと、心から祈ってしまいます。
そんな、甘いお伽噺のようなことを考えてしまうのです。
・・・いずれ、そんな心情を表現してみたいものです。

桂文楽師匠最後の高座

八代目桂文楽師匠の最後の高座と、三代目柳家小さんとの逸話をちょいと・・・。2
文楽師匠は高座に出る前には必ず演目のおさらいをしたそうです。
最晩年は「高座で失敗した場合にお客に謝る謝り方」も毎朝稽古していたそうです。
今から40年前の1971年8月31日、三宅坂(半蔵門)の国立劇場小劇場の「第42回・第五次落語研究会」で、三遊亭圓朝作「大仏餅」を演じる予定でした。
ところが、前日の「東横落語会」恒例の「圓朝祭」で、この噺を演じていたため、この日に限って、出演前の復習をしなかったそうです。
しかし、この日の文楽師匠は、全く同じところを二度繰り返してしまうなど、異変が目立ちます。
噺の中途、盲目の乞食が本当の出自を明かす決定的な場面の台詞、「あたくしは、芝片門前に住まいおりました……」に続く「神谷幸右衛門…」という台詞をまったく思い出せず、高座の上で絶句してしまいます・・・・。
文楽師匠は土下座すると、消え入るような声で、
「台詞を忘れてしまいました……。申し訳ありません。
     もう一度……勉強をし直してまいります」 m(_ _)m

・・と、深々と頭を下げ話の途中で高座を降りてしまいました。
舞台袖で待ち構えていたDさん(第五次落語研究会の裏方でもある)は両手を差しのべて高座から降りた文楽師匠を抱き止めます。
そして文楽は「D君、僕は"三代目"になっちゃったよ」・・・。
文楽師匠は冷静なままだったそうですが、Dさんはその場で大粒の涙をこぼして泣いたそうです。
三代目柳家小さんと同じように、高座の上で失態を見せてしまったということです。
昭和の名人も恐れていた老いが、とうとう逃げようもない所まで押し寄せて来た瞬間でした。
文楽師匠は、以降のすべてのスケジュールはキャンセル。
公式の引退宣言はなかったものの、二度と高座に上がる事はなく、稽古すらしなくなった。
やがて肝硬変で病院に入院し、吐血し苦しみながら亡くなった・・。
これが今でも伝説として残る、名人桂文楽の落語家としての壮絶な幕切れという訳です。
三代目も八代目も、晩年はさぞや辛かったことでしょう。

2011年8月23日 (火)

ホール落語(会)

もとは専ら寄席で演じられていた落語は、やがて寄席以外の様々な場所で開催されるようになりました。
特に、現在は「ホール落語(会)」というのが盛んです。
「ホール落語」というのは、演芸を上演する目的で造られた寄席や演芸場ではなく、通常は演芸を上演しない劇場やホールで開催される落語会のことを言います。
「ホール落語」というのは俗称ですが、上演場所を指すだけではなく、一定以上の力量を持つ数名(4~5名)の落語家が競演し、演目は原則落語だけで、色物は出演しないという「型」も含まれている気がします。
これが寄席と決定的に違う点です。
出演者の多い寄席と違って、一人あたりの上演時間は長く取ることが出来ますから、概ね20分以上、30分~1時間程度になります。
寄席では主任以外は15分程度ですから、寄席ではかけられない大きな演目が期待できるという訳です。
従って、噺家さんは、噺の
省略や途中でサゲることなく、きっちりと最後まで演ずることも求められます。
また、ネタ出し(事前に演題を公表)している落語会も多いようです。
5三遊亭圓生師匠は、このホール落語が盛んになった功労者の一人だと思います。
本寸法の落語を守るため、自身の芸を高めるため、戦前は落語研究会を復活させたり、戦後の有力なホール落語会にも精力的に出演したり。
この活躍があって、名実ともに「昭和の名人」と評されることにもなったのでしょう。
また、落語協会を脱退して、寄席への出演が叶わなくなって、文字通り東奔西走し、全国各地でホール落語会や独演会を開きました。
その疲れが、その死を早めた原因にもなっている気がします。
さて、現在都内で定期的に開催されている主なホール落語会を整理しておきます。
私が生まれた直後ぐらいからずっと続いている老舗の落語会もあり、最近新設された立派なホールでスタートした会もあります。
現在では、特に、柳家小三治・立川志の輔・柳家さん喬・柳家権太楼・春風亭小朝・柳亭市馬・立川談春・春風亭昇太・柳家喬太郎・柳家三三などの各師匠方が出演する落語会は、即日完売になると言っても過言ではありません。
■東京落語会/NHK/虎ノ門・ニッショーホールPhoto_17
昭和34年から続いています。
今月開催が【第626回】でした。
はじめの頃は、形式上NHKからは独立している「東京落語会」(会長・久保田万太郎)という団体が主催という形をとったんだそうです。
ニッショーホールは、座席数752。
過去は、 サンケイホール、銀座ヤマハホール、イイノホールなどで開催されていたこともあるそうです。
ももう数年間会員になっていて、毎月聴きに行きます。
開演時刻が6時と早いのと、NHKらしく、全方位外交をしていますので、内容にはやや物足りなさがあります。
■三越落語会/三越/日本橋・三越劇場

2_5昭和28年から続いているという老舗中の老舗。
主催は勿論三越です。
最近では7月開催で【第562回】でした。
この会も久保田万太郎の提唱で始まったそう。
会場は、三越劇場(日本橋三越本店本館 6F) 座席数514。
内容も良いのですが、サラリーマンには開演が6時で、仲入りの時間が長いのがネックなのですが、そこは一流デパートの店舗内の会場だと諦めて・・・。
開演時刻が早いので、最近はちょっとご無沙汰気味です。
チケットのプレオーダーの抽選にはエントリーしています。
■紀伊國屋寄席/紀伊國屋書店/新宿・紀伊國屋ホール

2_3昭和39年からスタート。
主催は、紀伊國屋書店(田辺茂一)。
今月開催が【第560回】でした。
会場の紀伊國屋ホール(紀伊國屋書店新宿本店 4F) 座席数418。
月末月初近くの月曜日というのが開催パターンです。
チケットは、昔ながらのアナログ対応が中心で、公演会場内で次回分を買うか、チケット売り場まで足を運ぶかでゲットして、かなり多く通っています。
圓窓師匠も、この落語会には最低1年1回必ずご出演されている常連のようです。
ただ残念ながら今月の公演は、師匠体調不良で休演されました。
そう言えば、直接正式に師匠に入門(大袈裟?)をお願いしたのは、ここのロビーでした。
■落語研究会/TBS/半蔵門・国立劇場小劇場

Photo_13昭和43年からの「第五次落語研究会」です。
主催はTBSです。
最近7月で、【第517回】でした。
会場の国立劇場小劇場 座席数590。
出演者も良いのですが、なかなか行くことが出来ません。
会員になるのが超難関で、サラリーマンには無理だと思います。
当日券に並んで数回行きましたが、最もハードルの高い会です。
■朝日名人会/朝日新聞/有楽町・有楽町朝日ホール
Photo_12平成11年からの比較的新しい落語会です。
主催は、 朝日新聞(朝日ホール)。
「圓生百席」の京須偕充さんがプロデュース。
最近7月で【第111回】でした。
会場の有楽町朝日ホール(有楽町マリオン 11F)座席数718。
出演者が充実していることもあり、チケットは即日完売も多いです。
年間(と半年)通し券の抽選があり、当たるとラッキーです。
今年は、年間通し券に当たっていますので、毎回通っています。
今は亡き先輩の「麻雀亭駄楽」師匠にお伴して、楽屋へ圓窓師匠を訪ねたことがあります。
楽屋には、歌丸師匠、権太楼師匠、市馬さんがいました。
■読売GINZA落語会/読売新聞/銀座・ルテアトル銀座
Photo_14
平成年からスタート。
主催は、読売新聞社。 
最近7月で【第34回】でした。
開催がやや不定期なので、よく見ておかないといけません。
会場のルテアトル銀座(ホテル西洋銀座3F)座席数772。
会場内は黒が基調なので、落語を聴くにはやや暗い感じです。
日本伝統の話芸・落語の復活を目指し、新たなる落語会の名人を生み出すため、才能と勢いのある若手・中堅の落語家を支援する」という目的でスタートしたとのこと。
■大手町落語会/産経新聞/大手町・日経ホール
Photo_11平成22年に新築の大手町日本経済新聞社内の日経ホールでスタート。
主催は、産経新聞(サンケイリビング新聞社)。
オフィスM'sが企画しているようです。
今月で【第8回】でした。

会場の日経ホール(日経ビル3F)座席数610。
まだ新しい落語会で、会場も新しく、ゆったり見ることが出来ます。
さて、以下は、残念ながら今は開催されていないホール落語会で、私も何度も通った落語会です。
□東西落語研鑽会/六人の会/有楽町・よみうりホール
Photo_16
平成15年にスタート。
主催は、春風亭小朝さんなどの六人の会。
30回ぐらいまで続きましたが、残念ながら終了したようです。
会場は、よみうりホール(ビックカメラ有楽町店7F) 座席数1100。
六人の会は、小朝・志の輔・昇太・鶴瓶・花緑・正蔵さんでしたか、「大銀座落語祭」もやっていました。
□にっかん飛切落語会/日刊スポーツ新聞・イイノホール

Photo_10昭和49年から平成19年まで開催されていましたが、会場のイイノホールが建て直しのためクローズしたため終了してしまいました。
先代の三遊亭圓楽師匠が主になって始め、力を入れていたと聞いています。
最近、別の会場で「新にっかん・・・・」という会が始まっているようですが、まだ行ったことはありません。
間もなく、あのイイノホール(イイノビル)が新築オープンしますが、「東京落語会」は戻るのか、別の落語会が始まるのではないかなど、とても楽しみにしています。
・・・という訳で、寄席もいいし、ホール落語もいい。
それぞれに求めるものを見出して、バランスよく通いたいと思います。

処暑

今日は「処暑」。
Photo_9 二十四節気の一つで、「立秋」の後15日。暑気止息するという意味でしょう。
このあたりは、日本は台風来襲の一つの
特異日にあたっていますから、暴風や大雨にみまわれることが少なくありません。
最近は、ゲリラ豪雨が頻繁になって来ていますから、気をつけないといけません。
夏と秋の狭間ということでしょうが、まだまだ暑い・・・。

夏目漱石と三代目柳家小さん

落語と文学界との逸話をもうひとつ。
これまた有名なのが、夏目漱石の「三代目柳家小さん」絶賛の一文です。
文豪夏目漱石の「三四郎」に、以下のような一節があります。Photo_13
小さんは天才である。
あんな
芸術家は滅多に出るものぢやない。
何時でも聞けると思ふから安つぽい感じがして、甚だ気の毒だ。
実は彼と時を同じうして生きてゐる我々は大変な仕合せである。
今から少し前に生れても小さんは聞けない。
少し後れても同様だ。
――圓遊も旨い。
然し小さんとは趣が違つてゐる。
圓遊の扮した太鼓持は、太鼓持になつた圓遊だから面白いので、小さんの遣る太鼓持は、小さんを離れた太鼓持だから面白い。
圓遊の演ずる人物から圓遊を隠せば、人物が丸で消滅して仕舞ふ、小さんの演ずる人物から、いくら小さんを隠したつて、人物は活溌溌地に躍動するばかりだ。
そこがえらい。

・・・初代三遊亭圓遊との比較が興味深いです。
三代目柳家小さんという人を調べてみると・・・。

Photo_12明治大正期の落語家(1857-1930)。
一橋家の家臣の子。本名豊島銀之助。
はじめ家寿太夫の名で常磐津語りであったが、明治15・6(1882,83)年ごろ初代柳亭燕枝に入門して燕花を名乗る。
一時4代目都々逸坊扇歌について都家歌太郎、21年2代目小さん門で柳家小三治,28年師名を譲られ3代目小さんとなる。
訥々としたなかに巧まざる可笑しみを生む芸風で、昭和初期まで柳派の中心的存在であった。
もともと上方噺だった「らくだ」「うどんや」「時そば」などを東京へ移した功績も大きい。

夏目漱石とて人の子ですから、落語に親しんだりもしたのでしょう。
でも、この漱石に限らず、噺家さんというのは、時の大物たちに気に入られることが多いようです。
いつの世にも曾呂利新左衛門」は必要なんですね。
初代圓遊との比較も興味深いですね。Photo_2
圓遊は、落語の登場人物の中に圓遊が見える。
小さんは、小さんが登場人物になっている。
「登場人物の了見になる」という言葉に繋がるのかもしれません。
ところで、この名人を巡っては、桂文楽師匠の「迷言?」が有名です。
文楽師匠が、あの「落語研究会」での最後の高座の時の・・・。
これは別項で述べることにします。
名人にも晩年があり、小さんの晩年も痛々しかったようです。

昭和五年十月、放送室に観客を入れた放送がはじめて行われた。
協議の結果すでに
寄席を引退していた三代目小さんに頼もうということになった。
老齢のことでもあり、万一の場合に備えて、
講談の五代目一龍斉貞山に付き添ってもらった。
演題は「うどん屋」。
噺が始まると「うどんやァ、うどん」の第一声は実に堂々としたもので、一同も安心したのだが、一、二分もすると少し変になってくる。
いつのまにか話は「馬の田楽」に変っている。
するとまた突然、気づいたのか「うどんやァ、うどん」とはじめる。
しかしまた脇道に入ってしまい、三度目の「うどんやァ、うどん」となったときに、貞山は放送を止めさせ、その日の代演を勤めた。
小さんは、その末期に重度の認知症になり、高座で演じている最中に別の噺と混ぜこぜになる、噺の同じところをぐるぐると回り進行しないなど、全盛期とはあまりにかけ離れた悲惨な状態を見せていた。
芸というのは、これだから悲しいし、素晴らしいのでしょう。
三代目柳家小さんもまた、名人の名をほしいままにした噺家さんだったようです。
それでは次は、この三代目小さんと八代目桂文楽最後の高座との関係?についてですね。

浜野矩随代々

「浜野矩随」というのは実在の人物です。
落語の「浜野矩随」は、先代の三遊亭圓楽師匠が、講談の「一柳斉貞鳳」先生から教わった講釈物を落語にしたと言われていますので、史実と違っている部分もあるようです。
実在の方々を調べてみました。
浜野矩隨(はまののりゆき) 江戸後期に3代続いた彫金家。3
〔初代〕 浜野矩隨
元文元年~天明7年(1736-1787) 通称忠五郎。
望窓軒・蓋雲堂と号す。
「浜野政隨」の高弟で、一家を成し神田小柳町に住した。
天明7年8月29日没、享年五十二歳。
派独特の細密精巧な中に、乗意風の薄肉合彫を取り入れた作風。
門弟に「吾妻永隨」、「中沢矩最」、「遠山直隨」、「水戸利隨」、「水戸保隨」、「水戸弘隨」等。
〔二代目〕 浜野矩隨 明和8年~嘉永5年(1771-1852)
本名染野松次郎。壽松軒、東龍斎と号す。
天明5年(1785)十四歳の時初代(父)に従い初め、政方のち矩施と称する。
寛政6年(1794)23歳の時、師家の後継者となった。
嘉永5年7月1日没、享年八十二歳。
門弟に「斎藤富隨」、「森矩明」。
〔三代目〕 浜野矩随 通称十五郎。
初め壽隨と称し、耕雲斎、生龍軒、鶴臨堂と号す。
4浜野政随(はまのしょうずい) 金工。江戸中期に四代を数える。
〔初代〕 浜野政随
元禄9年-明和6年(1696-1769)通称 太良兵衛、別号を乙柳軒・味墨・閑経・子順・遊壺亭・穐峰斎・半圭子・一瞬堂・玉渓舎・圭宝。
江戸神田竪大工町に住み、「奈良利寿」に彫金術を学び、一派を開いて「浜野派」を立てた。
門人に「室田寛随」・「牧田宝随」・「初代浜野矩随」・「堀江興成」・「高橋政山」らがいる。
・・・ということで、「浜野矩安」という名前は出て来ません。
親子で名人というなら、初代
矩随(忠五郎)に師事した息子・松次郎が二代目矩随を継いでいますので、この人かもしれません。
圓窓師匠に稽古をつけていただいた時に、「噺のような矩安・矩随という親子、師匠弟子はいないんだね・・・。」なんて、色々話をしたことがあります。

植木のお化け

「人形町らくだ亭」で、「春風亭一朝」師匠がお演りになった「植木のお化け」。
あまり聴かない噺です。
それにしても、一朝師匠お見事の一席でした。
こういう「音曲噺」というのは、筋を追う面白さではなく、言葉や調子で遊ぶ楽しさが全てです。
2_2 隠居の所に、権助に煮え湯をかけられた恨みで植木のお化けが出るという噂を聞き、長屋の連中がそろって見物に押しかけた。
一杯やって待っていると、続々とお化けたちが登場してくる。
「あの、酒乱の二人は何だい」
「榊(酒気)に蘭(乱)だ」
「何も言わないで消えた奴は」
「梔子(口無し)だろう」
「鞍馬八流の天狗の試合を演じているのは」
Photo_20 「花菖蒲(勝負)だろう」
「見事だなァ、勧進帳の富樫と弁慶のいでたちだ」
「あれは、石菖蒲(関所うぶ)に弁慶草に違いない」
「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経……とずいぶんにぎやかに出て来たが、あれは南無妙法蓮華経草かい」
「なあに、蓮華に橘さ」
 
落語には、日蓮宗がよく登場します。
Photo_19 オチの「橘」は、日蓮宗の紋所「井筒に橘」から来たのでしょう。
ちょっと分かりづらいと思います。
長屋連がにぎやかに化け物見物に出掛け、お化け達もにぎやかに登場するというストーリーですが、なかなか難しい噺だと思います。

日蓮(1222〜1282)は、多くの僧が「浄土往生(じょうどおうじょう)」の教えを説いたのに対し、「南無妙法蓮華経」を唱えればこの世に受けた肉体のまま仏になることが出来るという「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」を説きました。
南無妙法蓮華経・・・・・。

2011年8月22日 (月)

人形町らくだ亭

今日のお目当ては「五街道雲助」師匠です。Ohq 
 ◆ 権助魚            春風亭朝呂久
 ◆ 親子酒            鈴々舎馬るこ    
 ◆ 植木のお化け         春風亭一朝
 ◆ お初徳兵衛浮名桟橋    五街道雲助
 ◆ 船徳              古今亭志ん輔
えぇ?「お初徳兵衛浮名桟橋」の後に「船徳」・・ですってぇ?
まるで一遍「仮名手本忠臣蔵」の通しを観た後で、「七段目」だけを観直すみたいな感じ?
リレー落語でもありませんから、こんなに噺が"つく"番組というのはありませんね。
しかし、これもご趣向ということでしょう。
このあたりは主催者も百も承知です。
Photo_15夏を代表する滑稽噺の傑作「船徳」、その元になった人情噺「お初徳兵衛」。
親子ともいえる間柄ながら、まったく色合いの異なる2席の競演!
・・・だと言っています。
「お初徳兵衛浮名桟橋」は、いつか演ってみたい噺で、何としてでも聴きたかったのです。
学士会落語会で、雲助師匠のお弟子さんの「隅田川馬石」さんのを聴きましたが、やはり雲助一門はシブい。
(総領弟子の桃月庵白酒さんはデブいですが。)
初代三遊亭圓遊が、これから「船徳」を作り上げたということです。
志ん輔師匠の「船徳」は、何度か聴いたことがあります。
一朝師匠の「植木のお化け」は良かったですよ。
聴いたことのない珍しい噺を楽しく聴かせていただきました。Photo_4
勿論、いつもの「一朝懸命」付きでした。
さて、いよいよ雲助師匠です。
お初の台詞は、ぞくぞくっとしました。
この気持ちが、現代にはない女心でいい。
トリの志ん輔師匠の熱演「船徳」との組み合わせもバッチリだったと思います。
改めて、初代三遊亭圓遊の構想力に脱帽です。
今夜はいい噺を3題聴いて、ご機嫌な夜でした。

30年前の今日・・

30年前の今日、作家の向田邦子さんが、台湾で航空機事故に遭い、お亡くなりになりました。Photo
昔のことですからお許しいただくとして、仙台から東京のある拠点に転勤し、新任地に着任したと同時に届いたのがこの悲しいニュースでした。
実は、向田さんは大変重要な「お客さま」だったのです。
上司たちが、色々と飛び回ったり、ご遺族の方がお見えになったりしていたのを、遠巻きに拝見していました。
名前ぐらいは存じ上げていましたが、作品などを読んだこともなかったのですが、その後、今日に至るまで、向田さん(の作品)についての評論や書籍が刊行されているのを見るにつけて、あの時のことを思い出します。
年代的には、私の親の世代ですが、刊行されている本の中の写真を拝見すると、大変魅力的な姿に驚かされます。
あれから30年・・。
当日は土曜日で、あの頃はまだ完全週休2日になっていなかったので、通常どおり出勤していたのか、あるいは翌週の月曜日に大騒ぎだったのか、もう記憶は定かではありません・・・。
初めて仙台から東京に出て来て、とても不安でした・・・。
作家で脚本家の向田邦子さんが取材旅行中の台湾で乗っていた航空機が墜落し、急逝してから22日で30年。
今年はドラマの再放送やリメークが相次いだ。
51歳9カ月で突然「生」を絶たれた悲運の作家の言葉は今も読み継がれ、観られている。
出版不況をよそに、向田さんの作品は着実に版を重ねている。
「特別なフェアがなくても毎年1万部以上の増刷がかかる」(新潮文庫編集部)のは世代を超えて読み継がれている証しだろう。
今朝の新聞記事の一部を拝借しました。

御前口演

昭和48年の三遊亭圓生師匠の「御前口演」については、詳しく書かれたものがありますので、それにおまかせしましょう。
http://ginjo.fc2web.com/96omikidokkuri/gozenkouen.htm
Photo_13 鈴本演芸場のHPでも紹介されています。
昭和48年3月に、皇后陛下古希の祝賀の余興として、「六代目三遊亭圓生」が「御前口演」をいたしました。Photo_7
その時に、高座が両陛下より低い高さであったところ、圓生が恐る恐る宮内庁の役人に「落語の演技は動作を含め全体が芸になっておりますので、もしお許しを頂けるならば、陛下より一段高く高座を上げて頂けませんか」と注文を出したそうです。
早速、陛下にお伺いを立てたところ、「そういう事であれば一向に差し支えない」と仰せられたので、一段高く高座は作り直されたということです。
お客様の目線以上の高さがないと、演技がとても見ずらいものです。
Photo_8昭和皇后陛下の古希のお祝いの余興に呼ばれたのだそうです。
この時の様子は、三遊亭圓楽師匠の本「圓楽 芸談 しゃれ噺」でも、詳しく書かれています。
「ちょっと行って来る」なんて言って、身一つでちょいちょい、という訳にはいかなかったようですね。
圓楽師匠がお付きだったそうです。

「鰍沢」の圓喬伝説

落語「鰍沢」と名人「四代目橘家圓喬」の名人伝説の一端です。Photo_14
「鰍沢」は、四代目橘家圓喬が得意とし、その高座は伝説と化してしまっている。
「・・・耳にこびりついているから、演れったってとても出来はしませんよ。・・・急流のところでは本当に激しい水の流れが見え、筏が一本になってしまうのも見えた。」(八代目桂文楽)
「さっきまで晴れていたのが雨音がする。『困ったな』と思ってたら師匠が鰍沢の急流を演ってた。」(五代目古今亭志ん生)
胴巻の金を見つけ「それを見逃すおくまではない。じろりと見る流し眼のよさ。凄さ。」(小島政二郎)800pxkajikazawa_in_kai_province
・・・・などの証言が残されています。
六代目三遊亭圓生師匠も、圓喬の「鰍沢」をかなり意識し、金子を見つめるお熊の一瞥を「ここが眼目です。」と述べ、「自身の腕をどこまでできるか試すために演じている。」と述べており、圓生師匠数ある噺の中でも最高の演目とされています。
四代目橘家圓喬という人は、そんな名人だったという訳です。
「鰍沢」という噺に関して言えば、個人的には、噺の内容もオチもそれほど図抜けて素晴らしいものだとは思いません。
この噺が重く評価される理由は・・・・、
 ①三遊亭圓朝作の三題噺である
 ②珍しい旅噺で壮大な雰囲気がある
 ③日蓮宗(身延山)の宣伝になっている
 ④名人の名演が伝説になっている
・・からではないかと思います。
「お題目(材木)で助かった」のオチは、変えた方が良いでしょう。
いつか演る時は、オリジナルのオチにしようと思います。

扇子っ子連・要亭発表会

Photo 圓窓師匠のご指導による、豊島区の「落語体験教室」。
我々「千早亭」が第1期ということになるのですが、第2期の「要亭」の発表会が開催されるそうです。
 ・日時は8月30日(火)午後6時から
 ・場所は千早文化創造館で
この要亭には、我が落研の大先輩である「愛詩亭朝大」師匠が参加されていて、「要亭長矢」でご出演です。
「権兵衛狸」をお演りになるそうです。
月末近くの平日夜の会ですから、何とも言えませんが、行けたらと思っています。

浜野矩随

「東京落語会」での三遊亭好楽師匠の「浜野矩随」。Photo_2
私にとっては、学生時代に鈴本演芸場で、初めて先代三遊亭圓楽師匠のを生で聴いてチャレンジし、その約30年後の落研創部50周年記念で再度高座にかけたという、宝物のような噺です。
三遊亭圓窓師匠にも、稽古会で何度も稽古をつけていただきました。
今まで、古今亭志ん生・古今亭志ん朝師匠親子や、立川志の輔さん、立川ぜん馬師匠、立川談四楼さんなどの音源を入手し、春風亭小朝さん、当代三遊亭圓楽さん、林家三平さん、三遊亭竜楽さん、桂藤兵衛師匠などは生の高座を聴かせていただきました。
そこで感じたのは、様々な観点から見て、やはり先代圓楽師匠が、ストーリーや語りが一番練り上げられていることを実感し、私のネターのペースにさせていただいて大正解だと思っていました。
この噺は、圓楽師匠が広めたと言っていい噺ですから、圓楽一門の噺家さんが頻繁に演っているようです。
好楽師匠も同門下ですから、非常に楽しみでした。
江戸寛政年間、浜野矩安(のりやす)という腰元彫りの名人がいた。
矩安存命中は、浜野家の前には骨董屋・道具屋が列をなしたが、息子の矩随(のりゆき)代になって誰も相手にしなくなった。
それは矩随がヘタだったから。
しかし、一人だけ、芝神明の「若狭屋甚兵衛」は、先代に世話になったからと矩随が彫って持って来る品をどんなものでも1分で買い上げていた。
ある朝も、野原を駆け回る
若駒を彫ってきたと言うが、この馬が3本足。
徹夜して彫っていて、明け方ウトウトとして彫り落としてしまったという。
その心魂に呆れ、若狭屋は言いたくないことだったが、矩随を叱る。
「ミカン箱に13箱も、頭に皿を乗せているが下は狸になってしまう河童狸"みたいなゴミばかり。こんな物ばかり彫って、意地というものがないのか。こんな物しか出来ないなら死んでしまえ! 今日限りで縁を切るから、5両の縁切金を持って帰れ!」

家に帰って、矩隋は母親に、伊勢詣りに行くからと嘘をついたが、母は全てお見通し。
若狭屋との一件を聞き出す。
「死にたければ死んでも良いが、最期に私に形見を彫って欲しい」と観音様を所望する。
2
井戸端で水をかぶり、仕事を始めた。
隣では母親が神頼みの念仏を唱えていた。
3日目の朝、やっと出来上がった観音を母親にみせると、「もう一度若狭屋さんに行って、30両びた一文まからないからと見せて(売って)おいで。と矩隋にに言い聞かせ、「その前に、お水を一杯ちょうだい。後の半分をお前もお飲み。では、行っておいで。」

矩隋は、言い過ぎたと謝る若狭屋に観音像を見せる。
「おっかさんに町で会ったとき、先代の品は残っていないのですかと聞いたら、『全て食べ物に変
わってしまった』と言われたが、やはり残っていたんだな。素晴らしい観音様だがお前には分からないだろうな。で、いくらなんだ。」
「30両びた一文まからないんです」
「30両か。買った!ところで、お前は本当に情けない野郎だな。30両ばかりの金で泣いていやがる」
「若狭屋さん。それは私が彫った物なんです」
「馬鹿野郎!一番言ってはいけない事を今言ったんだぞ。根性も曲がってしまったんだな。・・・(裏の銘を見て)どうして、これが出来たんだ」
「あの日帰って、母親に話すと形見を彫ってくれと言われたので彫った。少しでもマズかったら死んでも良いと言われ、心魂込めて彫ったのがこの観音様です」
「矩随さん、出来たな。必死になって彫ればオヤジと同じように魂の入ったものが惚れるんだ。道具屋仲間にも自慢できるよ。おっかさんの目利きも凄いが、どうしている? え!?水を、半分ずつ飲んで出掛けてきた? 馬鹿野郎、それは水杯ではないか。すぐ帰れ」。
とって返した自宅は内から戸が閉まっていた。中にはいると線香の煙の中で、母親が九寸五分で喉元を切って絶名していた。
「おっかさん、本当は売れないと思っていたんでしょう。若狭屋さんはおとっつぁんのと間違えて買ってくれました。おっかさ~ん。おっかさぁ~~ん」。
名人矩随が出た、との噂で浜野の家の前に道具屋の行列が出来たが、「私の作品は若狭屋さん以外納めませんから」との事で、若狭屋にお客が集中した。
お客の中には「どんな彫り損じでも良いから」とねだる者も出て、初期の作品の3本足の馬や河童狸もミカン箱から売れていった。
「怠らで 行かば千里の 果ても見ん 牛の歩みの よし遅くとも」
寛政の時代に親子二代にわたって名人と言われた浜野の一席です。

201005302212000
昨年5月の落語っ子連の発表会でも演らせていただいたのですが、その時に圓窓師匠から、一生懸命やったということで褒めていただき、「圓楽さんより良かった」との、大変光栄な講評を頂戴しましたので、そういう思い入れもあって、好楽師匠を聴かせていただきました。
正直なところ、「乱志(流三)は、決して負けていないぞ」と。
台詞、演出、仕草・・全ての局面で、強くそ
う思いました。
よぉし、この噺を、もっともっと練り上げよう。
やはりこの噺は、私にとってはライフワークになる噺です。

2011年8月21日 (日)

ブルーレイ・レコーダー

お恥ずかしい話ですが、落語のDVDをほどほど持っているのに、我が家にはDVDプレーヤーというものがありませんでした。
専ら、パソコンで視聴していた訳ですが、さすがに操作も複雑で時間もかかる、画像が不鮮明、時々固まる等々、不満に感じていました。
ところが先日、メカ音痴の我が家でも、滑り込みセーフで「地デジ」対応のため、テレビを新しくしたのですが、初めて薄型の液晶テレビがあると、やはりこれでDVDを視聴したい・・・。
必殺衝動買い!Photo_6
昨日、近くの家電量販店「K」で、ブルーレイ・レコーダーを・・・・。
家に帰ってセットして、最初に視聴したのが、金願亭乱志「浜野矩随」ですよ。
前日の好楽師匠を聴いた後でしたから、「負けていないよなぁ」という訳。
次は、学士会落語会での金願亭乱志「ねずみ」。
その次は、お江戸OB落語会での金願亭乱志「佃祭」。
おいおい、全部自分のじゃないの。
ってな訳で、綺麗な画面で視られるようになりましたから、「落語百選」を第1巻からという気持ちになり、早速・・・。
【第1巻】    ◇ 子ほめ      古今亭菊之丞
         ◇ 目黒のさんま  入船亭扇辰
【第2巻】   ◇ 時そば      柳家喬太郎
         ◇  芝浜        五街道雲助
【第3巻】   ◇ 替り目       春風亭正朝
         ◇  長短        柳家さん喬
【第4巻】   ◇ 金明竹      古今亭菊之丞
         ◇ 子別れ      古今亭志ん輔
休日の怠惰なひととき・・・。

日曜日のラジオ番組

先週は帰省していて聴きませんでした。
2週間ぶりです。
まず「落語DEデート」は志の輔さんの番組。
 ◇ 皿屋敷     三遊亭百生Photo
上方弁の師匠で、今は上方弁の落語を聴くのも違和感はありませんが、この百生師匠や桂小南師匠の功績だとも言えるでしょう。
次は「落語はやおき亭」で、林家たい平さんが司会。
今朝は、笑点メンバーの林家木久扇師匠とのトークでした。
内容は、木久扇師匠の来歴で、よく高座でも聴いていますから、スイッチオフにしようかと。
来週も続きがあるみたいで、つまらない・・・。
望むような落語番組はありませんね。
志の輔さんのは、どちらかというとトーク番組。
しかし、このパターンは限界だと思います。
番組のコンセプトに近いゲストももういない感じですし、時間の関係で落語の演題が限られていて。
落語をじっくり聴かせるなんていう時代ではないんでしょうね。

「昭和の名人完結編」(14)

このシリーズ(全26巻)も、後半に入りました。
専用バインダーも、「上」は13巻全てファイル出来ました。
そして、今回からは「下」にファイルすることになります。
「昭和の名人完結編」(<br />
 14) 
今回配本は「六代目三遊亭圓生」です。
  ◇ 御神酒徳利(上・下)       三遊亭圓生
  ◇ 真景累ヶ淵~豊志賀      三遊亭圓生
                    「昭和の名人完結編」(<br />
 14)
圓生師匠には、もう何度も触れていますが、やはりその存在感は大きいです。
何と言っても、私の師匠(とても僭越)は、この六代目のお弟子さんの三遊亭圓窓師匠ですから、私にとっては「大師匠」ということになるのですよ。
「御神酒徳利」は、昭和48年に、昭和天皇皇后両陛下の前で口演した、落語界初の「御前口演」という名誉に浴した噺です。
圓生師匠は、私の祖父と同い年(明治33年生まれ)でしたから、天皇陛下がどれほど雲の上の存在であったか、容易に想像がつきます。
その記念すべき口演の演題に選ばれたのですから、「御神酒徳利」という噺も名誉だったことでしょう。
この噺も長講なのですが、最後の舞台が、大坂の豪商「鴻池」ということですから、「役者」は揃っていると言えるでしょう。
しかも、お稲荷さんが出て来ますから、神道もしっかり入っています。
これに限らず、圓生師匠の落語界における功績は、極めて大きいものがありますが、「ホール落語」を定着させたのも、そのひとつだと思います。
このあたりも、おいおい述べて行くことにしましょう。

二葉亭四迷

近代文学史の勉強をすると、最初に出て来るのが「二葉亭四迷」という人の名前です。
「くたばってしまえ」という語呂からの名前だそうです。Photo_4
この二葉亭四迷の「言文一致運動」に極めて大きな影響を与えたのが、「三遊亭圓朝」だというのは、極めて有名な話です。
小説や随筆など文章を紙に書く文化が発達した言語では、書き言葉である「文語」と話し言葉である「口語」が分化する傾向があります。
日本語の場合、書き言葉は平安時代の口語を元にした源氏物語などの王朝文学で確立し、その後、和漢混淆体などある程度のバリエーションが生まれながらも、さほど大きな変化はなく戦前まで長い間使われてきました。
一方、話し言葉である口語は時代を経るに従って大きく変化し、しかも地域や身分などによっても多彩な形態が現われてきます。
そのため、明治のころには文語と口語は同じ言語とは思えないほど異なるものになってしまっていました。
明治時代の文人に二葉亭四迷という人がいます。
東京外国語学校(今の一橋大学と東京外大の前身)でロシア語を専攻し、ロシア文学にも造詣の深かった二葉亭四迷は、「小説神髄」を発表して新しい小説のあり方を提唱した坪内逍遥に刺激され、新しい時代に相応しい小説を書こうとします。
Photo_3新しい時代の小説はどのように書くべきか、悩んだ二葉亭四迷は友人である坪内逍遥に相談したところ、三遊亭圓朝の落語を参考にしたらどうかとアドバイスを受けます。
史上最高の名人と誉れも高い圓朝は、当時高座で自作の落語を演じるだけでなく、速記本という形でも作品を世に送り出していました。
圓朝の語りをそのまま速記で文章に起こしたこの速記本は、当然ながら口語のままの文体で書かれています。
生粋の江戸っ子だった二葉亭四迷はこれならできると早速作品に取り掛かり、明治二十年、近代日本で初めて言文一致体で書かれた小説「浮雲」が発表されたのです。
言葉という点では、恐らく通ずる部分も多かったと思います。
ただ、圓朝の速記本というのも、現在のように、録音された音源を忠実に文字化している訳ではないようですから、この世界は深いものがありそうです。

武田節

「ちゃっきり節」が、静岡の「民謡」ではなかったことは、先日申し上げたとおりです。Photo_16 Photo_17
なんと遊園地のコマーシャルソングだったという・・・。
私は、山梨と静岡の県境で生まれて育ちましたので、故郷は、時に応じて山梨だったり、静岡だったりなのです。
住所は山梨、気候と文化は静岡という、山静ハーフという訳です。
左側が静岡県、右側が山梨県の地図ですが、静岡県の中央で一番くびれたところ、山梨県では、伸ばした人差し指のように南に飛び出している所の突端(爪の先)が、我が故郷の町ですから、天気予報は、いつも「静岡県東部中部地方」をチェックしているのです。
さて、山梨県にも「武田節」という有名な歌があります。
落研に入部してからというもの、よく歌った(歌わされた)ものです。
歌と言えば「武田節」と「チャンチキおけさ」が双璧でした。
そういえば、先輩の「釣り亭金魚」師匠の結婚披露宴では、新婦が山梨県のご出身だということで、余興で歌う羽目になりました。
あの時は確か、金魚師匠の同期の「山椒亭から志」師匠が、「長屋の花見」で一席お伺いしたはずです。
これも「節」なんという題名がついてはいますが、明らかに「山梨民謡」ではありません。
ミリオンセラーを記録したヒット歌謡曲とでもいうのでしょうか?Photo_18
1961年に作られた民謡調歌曲。
作詞は米山愛紫、作曲は明本京静。
本来は三橋美智也が歌唱する民謡調流行歌または新民謡と呼ばれるジャンルの曲であるが、山梨県の民謡が少ないこともあり、現在は山梨県の民謡とみなされることがある。
三橋による『武田節』のレコード売上はミリオンセラーを記録した。
山梨県では愛唱歌となっているが、作曲者の明本京靜が理事長だった日本文化協会が、1961年から彼が死去する1971年まで、毎月20日の夜に日比谷公会堂で開催されていた「みんなでうたう音楽会」の愛唱歌になっており、毎月歌唱指導が行われていたため、現在もカラオケで歌われることが多い。
武田信玄とその配下の武士たちの出陣の様子を歌にしたもので、曲の間には風林火山の文句を歌う詩吟がはさまれている。

・・・ということで、身近に口ずさんでいた「ちゃっきり節」も「武田節」も、落語で言えば「新作落語」という訳ですね。
        ≪武田節≫
    
米山愛紫作詞・明本京静作曲/昭和36年
 甲斐の山々 陽に映えて
  われ出陣に うれいなし
  おのおの馬は 飼いたるや
  妻子(つまこ)につつが あらざるや
  あらざるや
     祖霊(それい)まします この山河
     敵にふませて なるものか
     人は石垣 人は城
     情けは味方 仇(あだ)は敵
     仇は敵

   (詩吟)
   疾如風(ときことかぜのごとく)
   徐如林(しずかなることはやしのごとく)
   侵掠如火(しんりゃくすることひのごとく)
   不動如山(うごかざることやまのごとし)
       つつじケ崎の 月さやか
       うたげを尽くせ 明日よりは
       おのおの京を めざしつつ
       雲と興(おこ)れや 武田武士
       武田武士

御神酒徳利

三遊亭圓生師匠が、昭和48年に昭和皇后古希のお祝いの余興の「御前口演」でお演りになったのが、この「御神酒徳利」です。Photo_11
馬喰町の旅籠屋、刈豆屋吉左衛門には、葵紋の銀の御神酒徳利がある。
煤取りの日に、放置されている徳利を通い番頭の善六が水瓶の中に借り置きした。
煤取りが終わって、御神酒徳利が見つからないと大騒ぎになった。
善六は帰宅したが、水瓶の中に置いたことを思い出して女房に相談すると、算盤占いの振りをして当てたことにしろと言われた。
すぐに店に戻って水瓶の中を当ててみせた。Photo_12
そこで大坂の豪商鴻池家の番頭が、善六の占い能力に感心して、店のお嬢さんの病気を見てくれと、一緒に大坂までに行くことになった。
旅の途中、神奈川の旅籠で薩摩藩士の巾着と密書が盗まれて、宿主が嫌疑を受けている。
善六のインチキ占いが期待され、仕方なく占いを始め、隙をみて逃げ出そうという時に、宿るの女中が占いの名人からは逃げられないと、庭のお稲荷さんに隠したことを善六に告白する。Photo_9
善六は機転を利かせて、算盤占いの振りをして、巾着と密書の場所を言い当てた。
さらに、大坂の鴻池でもたまたまインチキ占いが当たり、お嬢さんの病気が治ったので、お礼として、馬喰町に旅籠屋をプレゼントされ、善六の宿は大いに栄えたと言う。
算盤で成功したから、その暮らし振りは桁違いという・・・・。

こういうのは、落語にしかない展開だと思います。
この噺、柳派では別名「占い八百屋」という題名で、番頭さんではなく、出入りの八百屋さんが主人公になっています。
この噺も、みんながハッピーになるという点では、「井戸の茶碗」と一脈通ずるところがあるかもしれません。

2011年8月20日 (土)

四代目橘家圓喬

Photo_3

名人の三遊亭圓朝の門下には、きら星のごとくの名人が輩出するのですが、その最右翼が「橘家圓喬」だと言われています。
当代屈指の実力派である「柳家さん喬」師匠は、「五代目柳家小さん」門下でありますが、「喬」は、この「圓喬」から一字を取っているんだそうです。
ここでは「四代目橘家圓喬」のことを指します。
1865年11月9日生まれ。本名は柴田清五郎。
1872年 7歳で三遊亭圓朝門下に入門し三遊亭朝太。
1878年 
二つ目昇進し、2代目三遊亭圓好に改名。
1882年 東京を離れ上方で修行。
1885年 4代目三遊亭圓喬となり
1887年 改めて4代目橘家圓喬を襲名。
1903年 「第一次落語研究会」発足に参加。
1912年11月16日新宿末廣亭での最後の高座。
    その6日後、宿痾の肺病のため死去。
日本橋住吉町の玄冶店に住んでいたので「住吉町の師匠」や「住吉町さん」や「
玄冶店の師匠」などで呼ばれた。
圓朝門下の逸材で師の名跡を継ぐ話もあったが、狷介な性格が災いして立ち消えになった。
実力から言えば、「二代目三遊亭圓朝」を継いでもおかしくなかったとも言われます。
尤も、この「橘家圓喬」という名跡も、その後「止め名」になっているほどですから、本当に上手い噺家さんだったのでしょう。
刀鍛冶の世界に例えて、圓朝は「正宗」、圓喬は「村正」といわれたそうです。
斬るということだけでは、正宗を凌駕していたと言われる妖刀です。
この名人には、「鰍沢の圓喬伝説」があるそうです。
これについては別項で述べることにしましょう。

ちゃっきり節

大変唐突ですが、先日の清水次郎長とのつながりで、ちょいと述べることにします。
「ちゃっきり節」というのは、静岡県で古くから歌われている民謡のようにイメージされていますが、実は「北原白秋」の作詞による、比較的新しい歌だというのは、地元以外の人はご存知の方は少ないかもしれません。
しかも・・・・・、
Photo1927(昭和2年)、静岡市近郊に開園した狐ヶ崎遊園地(後の狐ヶ崎ヤングランド 1993年閉園)のコマーシャルソングとして、静岡電気鉄道(現静岡鉄道)の依頼によって制作された。
大正時代から昭和時代初期にかけては、地域おこしや観光宣伝のため、旧来からの民謡を広く紹介し、あるいはPRソングとして民謡風の新曲を作るなどの動きが日本の各地で見られたその一つである。
静岡電鉄は当時すでに名のある詩人であった白秋に懇請して作詞を引き受けさせたが、取材のため静岡を訪れた白秋は、静岡の花柳地・二丁町・蓬莱楼で芸者遊びを続け、一向に詩作に取りかかろうとしなかった。
豪遊続きの長逗留に電鉄会社側が作詞依頼の取り下げも検討し始めた頃、老妓の方言によるふとした一言にインスピレーションを得て、白秋は30番まである長大な歌詞を書き上げたという。

・・なんてす。へえぇぇ、驚きました。
Photo_2あの「狐ヶ崎遊園地」のCMソングですか。
思えば、4歳か5歳の時に、祖父に連れて行ってもらった記憶の断片があります。
この歌詞をよく読んでみて、再確認した部分があります。
「蛙が鳴くんて 雨ずらよ」というところ。
「蛙が鳴いているから きっと雨だろうよ
」という意味です。
ここで、蛙が「鳴くん"で"」ではなく、「鳴くん"て"」なんですよ。
レコードでは「市丸
」さんが(市馬さんのお弟子さんではありません。当時の売れっ子の芸者さんみたいな歌手です。)「鳴くんで」と歌っているそうですが、正しくは「鳴くんて」です。
「私もすぐ行くんて、先に行っといて」なんていう場面で使いますよ。
        
≪ちゃっきり節≫
    北原白秋 作詞
    町田嘉章 作曲
      唄はちゃっきり節 男は次郎長
       花はたちばな 夏はたちばな 茶のかおり
       ちゃっきり ちゃっきり ちゃっきりよ
       蛙(きゃァる)がなくんて 雨ずらよ
                (以下30番まで続きます) 

1ヶ月あまり経って・・

落研OBの友楽師匠とぴん吉さんと3人で、被災地の南三陸町にお邪魔して、はや1ヶ月あまりとなりました。
何て言ったらいいのか、大変不謹慎な表現に受け取られるかもしれませんが、「あれは何だったんだろう」と思うことがあります。
あれから、自分が遠く及ばない、心の深い部分に何かがあって、何とも表現出来ないのです。
しかし、あの日(3.11)に、未曾有の災禍が、あの平和な街々に突然牙を剥いて襲いかかって来たことは紛れもない事実でした。
あの破壊された街角(らしきところに)立った時、恥ずかしながら、それを現実として受け止められず、まるで映画のセットにでも立ったような・・・、そんな気がしたものでした。
臨場感のない自分を見つけて、酷く狼狽したことを覚えています。
Photo_5 そんな甘っちょろい者が、4ヶ月も経ってから現地を見た訳ですが、それでも何か、何とはいえないんだけれども、何か感じて、何か思いを新たにした気がしています。
「花色木綿」を演らせていただきました。
そして、「花色」のような、あの静かな海が忘れられなくなりました。
今「ホテル観洋」の前は、ひまわりの花が咲き乱れているそうです。
太陽に向かって咲く花が・・・。力強く。

ぞろぞろ

「ぞろぞろ」というのも、実にほのぼのした噺です。Photo_24
以前は大いに栄えた浅草の太郎稲荷だが、人気がなくなり、たくさん立っていた幟の数もたった一つになった。
この稲荷の前に一軒の茶店が残ったが茶店だけでは成り立たず、荒物や飴菓子を並べている。
ある日、突然の夕立で通行人が雨宿りに駆け込む。
雨が上がって外に出るが、泥濘んでいるからと次々に戻って来て、草鞋が全部売れてしまった。
そこへ源さんが訪ねて来て草鞋を求める。
売切れで物がないと断るが、天井裏をみると一足ぶら下がっている。
取るとまた新しい草鞋が出てくる。
また取ると新しいのがぞろぞろっと出てくる。
この話が転がると、これは太郎稲荷の御利益だと評判になって、参詣客がどんどん増えた。
近所のはやらない髪床が評判を聞いて、自分にも茶店と同じように御利益を与えてくださいと、七日間の裸足参りをして帰ると、店には客が溢れている。
早速御利益があったと、大変喜んで客の髭を当たると、剃ったあとから髭がぞろぞろ~。
2_4圓窓師匠の口演による「ぞろぞろ」と「寿限無」が、教育出版刊の小学校4年生の国語の教科書に採用されています。
師匠は、「五百噺」達成の後のライフワークとして、各地の小中学校などを訪れて「落語の授業」を行っています。
学校寄席のように、体育館に全校生徒を集めてやるのではなく、普通の教室で、1コマの授業としてやっています。
そんな訳で、この「ぞろぞろ」は、師匠にご指導いただいている素人連のメンバーがよく演るので、非常にポピュラーな感じがしています。
実は、個人的には、さほど好きな噺ではないのですが・・。
髭がぞろぞろ~って、気持ち悪いと思いませんか?
「東京落語会」での「蜃気楼龍玉」さん、なかなか良い味を出していました。
通る声で聴きやすかったです。

2011年8月19日 (金)

東京落語会

暑中「東京落語会」お見舞い申し上げます。
とはいえ、今日は雨が降って、とても涼しくなり、身体への負担も随分和らぎました。
         
   ◆ ぞろぞろ      蜃気楼龍玉
   ◆ 酢豆腐       古今亭菊之丞
   ◆ 佐々木政談    古今亭志ん輔
   ◆ 浜野矩随      三遊亭好楽
   ◆ 猫久         柳家花緑
   ◆ 唐茄子屋      三遊亭遊三
今日は、大きな噺が並んでいる気がします。
何と言っても、好楽師匠の「浜野矩随」が聴きたくて・・・。
龍玉さんは、なかなか堅実な語り口、さすが雲助一門ですね。
菊之丞さんは、ご一緒している「頓平」師匠によれば、昨日の「念々寄席」でも「酢豆腐」を演ったそうですから、2日連続ということ。
昨日は、今日のためにちょいとおさらいをしたのかもしれません。
噺家20周年の独演会も控えているようで、人気もすっかり定着している様子。
志ん輔師匠の「佐々木政談」は二度目だと思います。
さあ、楽しみにしていた「浜野・・」です。
予想通り、ややがっかりしました。
予想通りがっかりというのも変な言い方ですが、本音です。
この噺は、やはり難しいんだと思います。
詳しくは別項でコメントしたいと思います。
仲入り後の花緑さんは、全体が押しているということで、軽めの「猫久」でした。
トリの遊三師匠は、相変わらずよく通る声で、大変分かりやすい展開です。
プログラムに、噺が「つく」というのを、保田武宏さんがコメントしていましたが、今日の番組は、政談でつき(佐々木政談・唐茄子屋)、自殺でつき(浜野矩随・唐茄子屋)、刃物(浜野矩随・猫久)でつき、・・・・でした。
最近の香盤は、あまり考えないんですかね。
             
終演後、頓平・金魚師匠といつもの3人で、いつもの店で一献。
金曜日の夜。一番解放感に浸れる至福の時間です。

永代橋

8月19日は、その昔、隅田川にかかる「永代橋」が落橋した日だということで。
永代橋が架橋されたのは、元禄11(1698)年8月、五代将軍徳川綱吉の50歳を祝したもので、現在の位置よりも100m程上流で、隅田川で四番目に作られた橋だそうです。Photo_3
「永代橋」という名称は、当時佐賀町付近が「永代島」と呼ばれていたからという説と、徳川幕府が末永く代々続くようにという慶賀名という説があります。
当時としては最大規模の大橋で、橋上からは「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総」と称されるほど見晴らしの良い場所であったと記録されています。
元禄15(1702)年12月の赤穂浪士討ち入りでは、吉良上野介の首を掲げて永代橋を渡り、泉岳寺へ向いました。
幕府財政が窮地に立った享保4(1719年)年、幕府は永代橋の維持管理をあきらめ、
廃橋を決めますが、町民衆の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に存続されることになり、通行料を取り、橋詰にて市場を開くなどして維持に努めたものの、文化4年8月19日 、深川冨岡八幡宮の12年ぶりの祭礼日に詰め掛けた群衆の重みに耐え切れず、落橋してしまった訳です。
橋の中央部よりやや東側の部分で数間ほどが崩れ落ち、後ろから群衆が次々と押し寄せては転落し、死者・行方不明者は実に1400人を超え、史上最悪の落橋事故と言われています。Photo_4
この事故について、大田南畝が
狂歌を書き残しています。
永代と かけたる橋は 落ちにけり
        きょうは祭礼 あすは葬礼

その後も色々な変遷を経て、現在の橋は、大正15年に関東大震災復興事業の第一号とし架橋されました。
さて、落語の「永代橋」です。
太兵衛(たへい)の家に居候して入る武兵衛(ぶへい)が、深川の祭りに出掛けたが、永代橋に差しかかると、人の山に紛れて、巾着切りに紙入れを掏られてしまった。
途方に暮れている時に山口屋の旦那に出会い、家に誘われ、御馳走になっていると、外が騒がしい。
話によれば、人の重みで永代橋が落ちて多くの死人が出ていると聞き、お互いに運が良かったとそのまま一晩泊まった。
家に帰ると「おお武兵衛か、一緒に来い。
お前は昨晩永代橋から落ちて死んだので、死骸を引取りに行く」と、本人が出向く展開に。
役人によれば、掏摸の懐から出て来た紙入れに武兵衛の名があり、間違えたのだと。
「弔いを出せ」「出せない」で言い争い、武兵衛は、太兵衛に頭をポカポカやられた。
武兵衛が「出るところに出て争うつもりだ」と申し出る。
すかさず役人が「やめとけやめとけ、太兵衛(多勢)に武兵衛(無勢)は敵わない」

題材が実際にあった惨事ですから、あまり気持ちの良いものではありません。
ちょっと「粗忽長屋」にも似たストーリーです。
私は生では聴いたことがないと思います。

広瀬さんの権太楼師匠評

いよいよ「柳家権太楼」師匠のコメントです。
新宿、上野、浅草、池袋と、都内に四軒ある寄席の定席。
ホール落語や独演会などで落語を楽しむのが一般的になったとはいえ、毎日昼夜休み無く、数多くの芸人が入れ替わり立ち替わり登場する「寄席」という空間が、大衆芸能としての落語にとって重要なホームグラウンドであるのは、今も変わらない。
その寄席の世界で長年パワフルに活躍し続け、「寄席の帝王」ともいうべき圧倒的な存在感を見せつける演者が、柳家権太楼だ。
1947年生まれで、1970年に五代目柳家つばめに入門。
1974年につばめが46歳の若さで亡くなったため、つばめの師匠である五代目柳家小さんの門下に移籍。
1982年に真打昇進して三代目柳家権太楼を襲名した。
権太楼の「何が何でも笑わせる」パワー、わかりやすさを重視する大衆的な芸風は、亡き上方落語の人気者、桂枝雀を思わせる。
上方きっての理論派だった枝雀は独自の落語論に裏打ちされた緻密な計算により、大袈裟な演技で爆笑させる独特の芸風を確立したが、権太楼も相当な理論派だ。
著作や対談などを読むと、力技で観客を引き込む権太楼の滑稽噺が、したたかな計算に基づいて綿密に組み立てられていることがよくわかる。
滑稽噺は奥が深い。
ドラマティックなストーリーで引き込んだり、人情噺で泣かせたりするのも容易ではないが、滑稽噺できっちり笑わせる方がずっと難しい。
一流の噺家は皆、異口同音にそう指摘する。
滑稽噺は多くの場合、たいしたドラマが起こるわけでもなく、あらすじを語るだけなら数十秒で済んでしまう。
そこに、演者の個性という「魂」をどうやって込めるか。
滑稽噺の難しさは、そこにある。
オリジナルの新しいギャグを入れて笑わせるのもいいが、それはあくまで「滑稽噺の本質」がしっかり腹に入っていてこその話だ。
権太楼は、決して小細工はしない。
「いつもと同じ、お馴染みの演り方」で、毎度きっちり爆笑させる。
それが出来るからこそ「爆笑派のチャンピオン」なのである。
※週刊ポスト2011年8月19・26日号
2
広瀬さん、ちょっと権太楼師匠を格好良く持ち上げ過ぎている気がします。
今最も旬で、私も好んで聴く噺家さんであることは確かで、その実力のほどは言葉を待ちません。
が、年齢を重ね、看板が大きくなるに連れて、ややソフトになって来はしましたが、良い意味で本寸法の落語と「きわもの」との境目にある芸風の噺家さんです。
ただ、あまり「桂枝雀」師匠と重ならないようにして欲しいです。
枝雀師匠は、上方落語の噺家さんですし、意識しなくても、もう十分「権太楼ワールド」があるのですから。
いずれにしても「個性的な」噺家さんです。
だって、落語を演ろうとする時に、アクが強いので、ネタにしたり、真似をしない方が良い噺家さんの最右翼だと思いますから・・・。

陰徳陽報

「陰徳あれば陽報あり」。
人に知られずに善い行いをすれば、必ずよい報いを受けるものだということ。
休みの徒然に「落語で知る人生の知恵」という本を読んでいて、「佃祭」の項で見つけた言葉です。
「積善の家に余慶あり」という言葉にも通じるのでしょうか。
情けは人のためならずです。

8月19日

毎朝聴くラジオで「今日は何の日」というのがあります。
何かにちなんで定められた日であったり、歴史上の出来事があった日だったり。
「○○の日」なんていうのは、月日の数字をベタに語呂合わせしていることが多いです。
8月19日も、やはりありましたよ、”819”の語呂合わせが。Photo_2
それも2つも・・・。
まずは、「バイクの日」。
総務庁交通対策本部が1989年に制定したもので、バイクの安全を考え、バイクによる交通事故の増加を防止するための日だそうです。
それから「俳句の日」。Photo
夏休み中の子供達に俳句に親しんでもらおうと、正岡子規研究家の方々が提唱し、1991年に制定されたとか。
・・・私なら、今日は「大食漢の日」にしますね。
大食漢は、ふつうの人の"倍喰う"という訳。 
そもそも「制定した(された)」とありますが、中には、関係者がただ騒いでいるというものもあるのでしょう。
ところで、歴史的には、こんなことがあった日だそうです。
■1807年 富岡八幡祭の人出で隅田川にかかる永代橋が崩落。
       死者1500人以上。(新暦9月20日)
■1832年 鼠小僧次郎吉が鈴ヶ森刑場で処刑。(新暦9月13日)
■1991年 ソ連の8月クーデター。
       ヤナーエフ副大統領ら保守派がゴルバチョフ大統領を
       休養先で軟禁、一時政権を掌握も、ボリス・エリツィン
       ロシア大統領の抵抗により失敗。
ソ連のクーデターは、確か夏休みで家族で伊豆高原をドライブ中に、車のラジオで聴きました。
正式には「ソビエト社会主義共和国連邦」。
米国と世界を二分する大国の突然の崩壊には驚かされました。
あれから20年経つんですね。

2011年8月18日 (木)

舟が沈って・・・

川下りの舟が沈(しも)るという、痛ましい事故が起こりました。Photo
天竜川で23人が乗った川下りの船が転覆。
2人が死亡し、船頭さんを含む3人が川に流され行方不明だと。
船は長さ約11・6メートル、幅約2メートル、重さ約1・3トン。
現場は急流で渦を巻いており、船は岩壁か岩にぶつかったようです。
船を運行している会社は「コースの中で流れが一番速く、一番難しい場所」と説明しているそうです。
子供の乗客には救命胴衣を着用させていたが、大人には転覆時に浮輪代わりとなる救命クッションが備えられていることなどから着用を促すだけで、強制はしていなかったそうです。
まさに「板子一枚下は地獄」です。
落語「佃祭」のような事故です。
それにしても、どうして大人たちは救命胴衣を着用していなかったのでしょうか?
ルールでは、子どもには着用が義務付けられていたようですが、大人は任意だったようです。
しかし、任意だったとはいえ、我々は、この地震や津波で、自分たちの想定の甘さや力の無さを、いやというほど思い知らされたのですから、危機感や緊張感(リスク感覚)がないと言われても仕方がないと思います。
勿論、着用していれば必ず助かったかどうかは分かりませんが。
昔、車のシートベルトが装着され始めた頃、「邪魔だ」「窮屈だ」「俺は大丈夫だ」と、なかなか定着しませんでしたが、今は完全に定着しています。
それは、可能性は少ないけれども、万が一のことがあった場合には、必ず効果を発揮してくれることが分かったからだと思います。
「俺だけは」「面倒くさい」「強制ではない」・・・。
傲慢でもあり、誤ったスタンスだと思います。
局面は違いますが、徒然草の「高名の木登り」を思い出しました。

鰍沢

Photo_6 またまた三遊亭圓朝の原作「鰍沢」。
「鰍沢町」は、平成の町村大合併により、現在は「山梨県南巨摩郡富士川町」に。
日蓮宗の総本山「身延山久遠寺」のある身延町の北隣の町です。
写真は、葛飾北斎の「富嶽三十六景~甲州石班沢」という名作。
鰍沢の手前で釜無川、笛吹川など甲府盆地を潤す数多の川が合流して富士川の荒波となる。
押し寄せる波が岩にぶつかり激しく泡立つ様子は圧巻で、漁師の泰然とした風情と対照的である。
漁師を頂点にして突き出た岩と投網が作りだす三角形、富士の稜線が相似形となって呼応する。

現在、この絵の場所を探すことは困難だと思います。
なぜならば、かつて「日本三大急流」といわれた富士川は、随分水量も減っておとなしくなっているからです。
明治19(1886)年1月8日。
(全く関係ありませんが、1月8日は私の誕生日です。
三遊亭圓朝は、ご贔屓の一人でもある「井上馨」のお伴で、身延山久遠寺にお参りをしているそうです。
詳細は知りませんが、この身延詣りの時に、「鰍沢」の構想を描いていたかもしれません。
そんなことを考えると嬉しくなります。
帰省の途中、富士川の対岸から、鰍沢の街を見て、この奥にある小室山妙法寺・法論石から身延へ抜けるのに、どうやって迷ってしまったのか・・・、なんて思いを馳せました。
圓窓師匠は、「ゆれるとき」の中で、「三遊亭三生」が、圓朝の父「橘屋圓太郎」と身延詣りに行って、雪の鰍沢で道に迷った話をするシーンがありました。2_2
主人公は、小室山の毒消しの護符と「南無妙法蓮華経」のお題目(材木)で助かったんです。
身延山への参詣に出掛け、大雪で迷った男が、一軒の家を見つけて一夜の宿を求めた。
中では美女が迎えてくれたが、どこかで見た顔だと話を進めると、吉原の花魁と客だった。
一宿のお礼に二両を渡すと、女が恐縮して玉子酒を振舞い、飲んだ男は酔って先に寝た。
熊の膏薬売りの夫が帰って来て、飲み残しの玉子酒を飲むとすぐに苦しみ出す。
旅人を眠らせて金を奪う策略で、毒を入れたと告げる。
これを聞いた旅人は逃げ出そうとするが毒が回って体が利かない。Photo_10
小室山でもらった毒消しの護符を口に突っ込み雪で押し込むと毒気が消えた。
雪の山中に逃げ出すが、女が鉄砲を持って追いかけてくる。
断崖絶壁で、突然雪崩に足元を掬われ鰍沢の筏の上に落ちた。
その拍子に蔦が切れて筏が流れ出した。急流で岩にぶつかりバラバラに壊れた材木一本にしがみついて「南無妙法蓮華教」と御題目を唱える。
女が鉄砲を撃つ。
かすめて岩に当たった。
ああ、御題目(材木)のお蔭で助かった。
この落語「鰍沢」には、「橘家圓喬」という、圓朝門下の名人の伝説があるそうですが、これは別項で述べることにします。

落語ブーム

「落語ブーム」もかなり落ち着いて来たようです。
京須さんの著書によれば、戦後「落語ブーム」というのは、3回あったということです・・。
最初のブームは戦後間もない1950年代からの約10年間。Photo
Photo_2この頃は、落語協会には五代目古今亭志ん生、八代目桂文楽、六代目三遊亭圓生、八代目林家正蔵(彦六)、二代目三遊亭円歌、八代目春風亭柳枝、五代目柳家小さん、九代目桂文治、日本芸術協会(後の落語芸術協会)には、六代目春風亭柳橋、初代桂小文治、三代目春風亭柳好、五代目古今亭今輔、八代目三笑亭可楽、四代目三遊亭圓馬、四代目三遊亭圓遊、三代目桂三木助、それにフリーで三代目三遊亭金馬といった大看板たちがいて、更に林家三平などのPhoto_3人気者を輩出するなど、落語家の人材は多彩で豊富でした。Photo_4
また、民間放送開始などで、落語が頻繁にラジオから流れるようになり、テレビにも落語家がタレントとして進出したこと、「ホール落語」という本格的に落語を鑑賞する場が生まれたことで文化指数が向上したこと、そして落語家のPhoto_7自伝や落語全集などが次々に刊行され、活字の世界でも落語が大きなウエイトを占めたことが大きかったと、京須さんは分析しています。
このあたりは、私はまだ「意識のない」頃で、「歴史」で習うというところです。
しかし、それにしても多士済々で、当時の賑やかさが想像できます。
次のブームは1970年代に訪れます。Photo_5
古今亭志ん生、桂文楽など「第1次ブーム」の頃の大看板が相次いで亡くなる中で、六代目三遊亭圓生がカリスマ的存在となり、古今亭志ん朝、三遊亭圓楽、立川談志という新しい世代が台頭。Photo_6
これに五代目春風亭柳朝、月の家圓鏡(現橘家圓蔵)を加えた「四天王」説も、落語ファンの間を賑わせました。
落語そのものに関しては、ラジオの落語が陰を潜めた代わりにレコードが進出し、落語全集を読む代わりにレコードで落語を聴く楽しみが生まれて来ました。
またちょうど同じ頃に、上方四天王の努力によって、上方落語も復興を遂げて来て、東西の落語家同士の交流もこの頃から盛んに行なわれ始めました。Photo_8 20100402225455839jpg_2
この「第2次ブーム」が終わりを迎えた頃に突如勃発したのが、昭和53年の「落語協会分裂騒動」です。
「真打昇進制度」を巡って、落語協会前会長である三遊亭圓生が、当時の会長・柳家小さんらと対立した末に落語協会を脱退、「落語三遊協会」を旗揚げするという、落語界始まって以来とも言うべき大騒動となりました。
このあたりはリアルタイムで、ブームだったのかなぁ、と思う部分もありますが、圓生師匠や正蔵(彦六)師匠や小さん師匠に馬生師匠と、素晴らしかったと思います。
そして21世紀に入ってからが「第3次ブーム」です。Photo_9
特定の中心人物はおらず、若手落語家に同年代の客層が定着し、しかも女性客が増加したことと、落語をテーマにしたドラマのヒットも大きかったと、京須さんは分析しています。Photo_10
そして、現在続く「第3次ブーム」の最大の特徴として「『名人』や『名人芸』が主導しないブーム」であることを挙げた上で、「『偶像崇拝』から解放された、このブームは、300年のキャリアで老化した落語の世界に新しい活力を注ぐことになるだろう」と結んでいます。
このコメントは、ブームが始まった頃のものですが、私はそろそろこのブームも一休みという気がします。
Photo_11もともと、ドラマが起爆剤になっている程度、しかも今時の若者が主人公ですから、伝統や芸そのものが受け入れられたというより、多様化したエンターテインメント、毎日のように出ては消えるコンテンツのひとつとして捉えられ、若者たちには目新しく映ったのでしょう。
女性が強くなって、「歴女」と同様に「落女?」も随分増えましたが、これも時が経てば落ち着いて来るものだと思います。2
女性は、どうも芸人(噺家)さん個人を追いかけるパターンが多いようで、韓流と同じような感じもします。
どんな動機、どんな形でも、トータルで落語全体を愛してくれれば、まことにありがたいものです。
私は、今ぐらいの状態がいいですね。
訳の分からない人たちが、我が物顔に入って来なくなりました。Photo
ただ、高齢者の芸能であることは間違いなく、携帯を鳴らしたり、補聴器がハウリングを起こしたり、口演中にお喋りをしたり・・・、まあ、我慢するしかありませんね。
圓窓師匠は、「落語は座ったきりの芸です。そのうちに寝たきりになるかもしれない。」なんて、よくマクラで仰って、高齢者の喝采を浴びています。Ensou
高齢者なんて言わずに、”じいさん(じじい)”・”ばあさん(ばばあ)”でいいじゃないですか。
江戸っ子は、親愛を込めて言っているのです。
ところで、いつの世にも「きわもの」といわれる芸人さんが出て来ます。
こういう存在も絶対に必要だと思いますが、彼らが斯界のメジャーにはなりえませんし、決してなって(させて)はいけません。
我々落語ファンは、個人では自分の好きな噺家さんや噺を楽しみつつ、全体では本寸法な噺家さんや落語の幹を太く逞しく育てて行かなければと思うのです。

前橋若手落語家選手権

8月上旬に、前橋市で開催された「第3回前橋若手落語家選手権」で、古今亭菊六さんが三遊亭夢吉さんとのし烈なトップ争いを制して優勝したそうです。
来場者の投票により雌雄を決するもので、二つ目さん5人が芸を競い、今回は立川志の春、三遊亭鳳笑、三笑亭夢吉、三遊亭時松、古今亭菊六の噺家さんが出場したそうです。
実に順当な結果だと思います。
細かいことは知りませんが。

2011年8月17日 (水)

休日雑感

あまりに暑いので、部屋に引きこもる不健康な夏休み。
久しぶりに平日のAMラジオを聴いていて、各局の番組のパーソナリティが昔と変わっていないのに驚かされます。
毎日続けて何千回、なんていう番組ばかりです。
あれ?、5年前にも聴いたよ。10年前もやってたよ。・・なんて。
聴取者は、商店や作業場で働いている人、ドライバー、主婦などが中心だと思いますが、やはり毎日同じことの繰り返しというのが、安心感につながるのでしょうか。
究極のマンネリという点では、寄席にも通じると思います。
日本人というのは、同じ形や繰り返しに安心するんですね。
ところで、聴いていてちょっと気になるのは、弁護士事務所のコマーシャルが目立つことです。
昔はそんなになかった気がするのです。
多重債務や利息過払い問題というのは根が深いのでしょうか?
乱立する法律事務所の生き残りのためのあがきなのでしょうか?
人というのは、外面と内面とが違う人も多いようで、裕福だと思っている人が借金だらけだったり、夫婦(家庭)円満だと思っていたら不仲だったりで。
人生いろいろです。

それにつけても今日の暑さよ

今日も暑い。
朝顔たちは暑くないのでしょうか?
涼しいうちに咲いてしまうから、それほど暑さは感じない?
ただ、この暑さも明日までで、やっと明後日あたりからは涼しくなって来るそうです。
まぁ、涼しいと言っても暑いでしょうが、今よりはマシでしょう。
ところで、感覚的なレベルですが、ここのところ確かに暑い日が続いていますが、単純に猛暑日の日数や場所、最高気温のレベルを見ていると、去年の方が暑かったのではないかと思うのです。
相変わらず館林市や熊谷市は常連ですが、愛知県の多治見市などはどうなんだろう・・・。
それとも、猛暑日もニュースにならなくなったからでしょうか・・?
もう、最高気温が40℃を超えるぐらいでないと、38~39℃は珍しくないという・・?
聞けば、今年最初の猛暑日は、7月17日だったそうです。
7月17日と言えば、南三陸町に慰問に行った日です。
あの被災地を歩いた時、確かに暑かった・・。
勿論、東北地方の現地は猛暑日ではありませんでしたが、ジリジリと照りつける太陽が物凄かったのを思い出します。
・・・あれからどうなっているんだろう・・・・。

朝日名人会のチケット

朝日名人会のチケット
「朝日名人会」のチケットが送られて来ました。
今月は公演がありませんので、来月の分です。
改めて番組を見ましたが、次回は爆笑の会になりそうです。
 ◇ 武助馬     桂才紫
 ◇ 宮戸川     三遊亭兼好
 ◇ 宿屋の富    瀧川鯉昇
 ◇ 猫の災難    三遊亭小遊三
 ◇ 茶の湯     柳家権太楼
じっくり聴くというより、リズミカルなお笑いを味わうということか。
まぁ、それもよしだと思います。
才紫さんの「武助馬」は、圓窓師匠に稽古をつけてもらったんじゃあないかなと思います。
「紀伊國屋寄席」にも出演し、今度は「朝日名人会」ということですから、期待される二つ目さんということでしょう。

師匠の「高座本」

Ensoila

圓窓師匠の口演のネタ本とも言える「高座本」を、師匠は小冊子にまとめて譲って(販売して)くださっています。
最近の師匠のプログによれば、それがもう183冊になったそうです。
大変なライブラリーです。
師匠は「圓窓五百噺」という、前人未到のチャレンジを完遂されましたから、今度は「圓窓高座本五百噺」を実現して欲しいものです。
さあ、今出来ている高座本は以下のとおりです。
        『 圓窓 高座本 』 一覧表
 (圓創)は 圓窓の創作(47席)/ (創)は 他者の創作(3席)/ 無印は 古典
 2011・7・25現在(183席・各号 300円)/ シリーズ合本・時価円)

あ 青菜69 欠伸指南84 明烏112 明日ありと(圓創)30 頭山87
   熱き思い54 熱き思い(ピアノと)170 有馬の秀吉27
い 頂き猫179 井戸の茶碗173 芋泥125
う ういろう売り(圓創)94 浮世根問67 牛褒め31 馬のす80 梅の春34
   厩火事86 浦島老人(圓創)65

お 押絵になった男(圓創)36 お節徳三郎・下75 お節徳三郎・上143
   お富の貞操(圓創)58 鬼の涙(創)4 おはぎ大好き(圓創)48
     お花半七・上20 帯久73 親子酒26 親子蕎麦(圓創)62
     お若伊之助35
か 笠の内(圓創)44 鰍沢23 火事息子172 釜泥12 蝦蟇の油100
     蝦蟇の娘15 亀の手足(圓創)42 からくり料理(圓創)101
     枯木屋(圓創)115 替わり目134 看板の一110 雁風呂72
き 鬼子母神・薮中の蕎麦(圓創)160伽羅の下駄141 金明竹85
く  くしゃみ講釈169 九年母152 首提灯39首屋106
     九品院・蕎麦喰い地蔵(圓創)43

こ 孝行糖108 高座の徳利(圓創)127 甲府ぃ120 小言念仏153
     後生鰻22 来ぬ人を(圓創)129 小判十一両(圓創)56 子褒め6
     子別れ・下71 蒟蒻問答171 権助魚131 権助提灯149
     権兵衛狸92 コーラスコーヒー151
さ ざこ八28 山茶花咲いた(圓創)50 匙加減167
     坐禅の遊び(圓創)49 真田小僧89 三軒長屋・上7 
     三方一両損117
し 鹿の巻筆(圓創)52 閑かさや(圓創)122 十徳99
     将棋の遊び(圓創)119 写経猿(圓創)33 三味線栗毛40 尻餅156
    洒落番頭37 寿限無17 城木屋137人呑鬼(創)14
す 水神60 水神(ピアノと)162 救いの腕(圓創)79
せ 節分鍋128 セロ弾きのゴーシュ(圓創) 77
そ 粗忽長屋107 徂徠豆腐55 ぞろぞろ91
た 高砂や156 たが屋93 澤蔵司・蕎麦稲荷(圓創)45 だくだく180
    竹の水仙3 叩き蟹2 叩き蟹(コーラスと)161 叩き蟹(ピアノと)138
    垂乳根124
ち 父帰る(圓創)57 千早ふる82 チャンコの恩返し(圓創)126
     町内の若い衆19 丁半指南(圓創)68 チリトテチン132
つ 鼓が滝5 壷算46 通夜の烏(圓創)59 通夜の猫140 釣女房165020701
     鶴83
て 天災155 転失気11
と 道灌8 道具屋177 唐茄子屋1 時蕎麦47
な 中村仲蔵16
に 二十四孝154
ぬ 抜け雀66
ね 猫定21 猫忠18 猫に小判158 猫の茶碗113鼠109
     鼠(ピアノと)136
の 野晒し118 野田の宿帳(圓創)24
は 蝿寄せ(創)76 萩褒め(圓創)32 八九升133 初天神147
     初音の鼓174 花筏130
   花見酒143 鼻欲しい148 はなむけ144 半分垢10
ひ 一目上がり81 雛鍔97 百年目63 平林98
ふ 河豚鍋150 武助馬111 普段の袴96 文七元結105 

ほ ほうじの茶159法要猫166 牡丹灯篭・下駄の音41
      法螺の種(圓創)38 本膳146
ま 饅頭怖い29 豆屋123 松山鏡178 万病円182
み 味噌豆176 みんな違って(圓創)64
     みんな違って(圓創ピアノと)135  木乃伊取り74
む 胸の肉(圓創)53
め 目黒の秋刀魚95
も 桃太郎88 元犬90 百川168
や 薬缶114 薬缶泥116 柳田角之進121 薮入り145
ゆ 夕立屋61 夢の枕屋・高座舞い(圓創)102
    夢の枕屋・地唄(圓創)51 夢の枕屋・日舞(圓創)103
    湯屋番139 揺れるとき(圓創)183
よ 淀五郎25
ら 雷月日70 雷月日・日舞(圓創)104 羅宇の仲人(圓創)163200906252108000
り 悋気の火の玉164 
る 

ろ 六尺棒13 ろくろっ首181
わ 和歌三神9 吾輩は坊っちゃんである(圓創)78

・・・・という訳で、これまた楽しい高座本です。Imgp0740
これで、私がこれからチャレンジ出来る噺、即ち「山」がいかに高いかが実感できます。
必ずしも、師匠の口演だけをベースにする訳ではありませんが、どんな噺があるのか、果たして自分がチャレンジできる噺があるのか等、我が落語徘徊の貴重なお手本になると思います。
師匠から、たくさん譲っていただくことにしようと思います。
まずは「救いの腕」を仕上げなくては・・・。

2011年8月16日 (火)

共存共栄?

       
今年は、蝉が鳴き始めるのが遅かったと聞いていますが、今日あたりは今を盛りと鳴いています。
田舎者には、梅雨時の蛙、真夏の蝉、秋のコオロギなんていうのは、身体(耳)に染みついていますので、元気に鳴いてもらいたいものです。
朝顔の細い茎に止まっている蝉を眺めていると、短い夏の儚い命を、お互いに助け合って、競い合って生きている感じがします。
自らに与えられた命を、疑いもせず、嘆きもせず、精一杯生きる。
これが「生きる」ということなのでしょうか・・・・?
落語国の人々も、同じように明るく生きています。
ところで、千代女以外にも、朝顔の俳句もいいものがありますね。
 ”朝顔や  客が好みの  立ち話”    水原秋桜子   
  ”暁の  紺朝顔や  星一つ”      高浜虚子

そして、蝉と言えば、有名な一句がありますよ。
 ”閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声” 松尾芭蕉

女子大生の日

今日は何の日。
お盆の最終日、送り火の日だけじゃありません。
何と「女子大生の日」なんだそうです。
女子大生といっても、今時の脳内が緩んだお嬢ちゃんたちの下俗な日ではありません。Toh_e_m_p
1913(大正2)年のこの日、東北帝国大学(現東北大学)が女子受験生3人の合格を発表しました。Photo_23
これが日本で初めての女子大生の誕生でした。
そのうちの一人は日本最初の女性理学博士となった「黒田チカ」でした。
この人は佐賀県の出身で、お茶の水女子大学の名誉教授になっている方のようです。
・・・どうです。「東北帝国大学」ですよ。
筋金入りの女子大生誕生の記念すべき日なのです。
それにしても、わが母校は、研究第一主義を標榜するだけのこともあり、進取の気風もあったんですね。Photo_21 Photo_22
さて、これをご覧になって、例えば「津田塾大学」や「東京女子医科大学」の関係者の方は、「何言ってんの(仙台弁では「語ってんではねえ」!)。こちらは1900年に開校しているんだから、こちらの方が先じゃぁないの。」なんて仰るかもしれませんね。
ごもっともだと思います。
そこでちょいと沿革なんぞを調べてみますと、いずれも1900年が開校(創立)ですが、「女子英学塾」・「東京女医学校」ということで、大学組織ではなかったようです。
付け加えますと、両校が「大学」になったのは、津田塾大学は1948年、東京女子医科大学は1947年だそうですから、「女学生」では古いかもしれませんが、「女子大生」では、「トンペイ」が一番古いということになるのではと思います。
まぁ、どうでも良いことかもしれませんね。

酷暑の中も可憐に

                    酷暑の中でも
「今日も高気圧に覆われて猛暑が続くでしょう。」と、言われなくても分かっているよと言いたいような天気予報。
暑さで知られる熊谷市あたりでは、今日で10日連続猛暑日になるそうです。
そんな暑い時でも、健気に咲く花があります。
こんな暑さだからなおさら、清々しさ、爽やかさを感じさせてくれるものです。
 "朝顔に 釣瓶取られて もらひ水"
加賀の千代女の気持ちが分かります。
それでも週末ぐらいには、秋雨前線が出てきて、いくらか涼しくなるそうです。
ということは、あと3・4日ぐらいの我慢ということです。
そう言えば、今年は震災の影響で、入谷の朝顔市が中止になってしまったことを思い出します。
この朝顔は、去年の朝顔市で買って一夏愛でたものの種をとっておき、今年蒔いたもので、手塩にかけて育てたものだそうです。
こんな小さな命も、脈々と繋がっているという訳です。
種から育てただけに、可愛さもひとしおだと思います。
        
名前も知らない花々ですが、一生懸命生きているんでしょうね。 

牡丹燈籠

Photo_6 三遊亭圓朝作「牡丹燈籠」。
根津の浪人萩原新三郎が、医者の山本志丈に連れられて訪ねた旗本、飯島平左衛門の娘お露が新三郎に恋をして、新三郎も一緒になりたいと思うが、浪人と旗本では身分が違うので、思いを告げることもなくあきらめる。
やがて、山本志丈が来て、お露があの世の人になり、お付の女中のお米も死んだと伝えた。
新三郎はがっくり、俗名を書いて自宅でお参りする。
盆の十三日、庭で新三郎が寝て、ふと目が覚めると九つの鐘がなり、下駄の音がカラ~ンコロン、カラ~ンコロン。
誰かと思って覗いてみると、「飯島のお嬢さん」「萩原の旦那様」と、互いに、相手が死んだと告げられたことを知る。
二人は部屋に上がり、夜明け前に帰った。
それから毎夜九つにお露とお米が訪ねてくる毎日が続き、ある夜お露と新三郎は結ばれた。
毎晩女の声がすると隣の伴蔵が覗いてみると、高島田の女の顔は骸骨だった。
人相見の白翁堂勇斎がみると新三郎には死相が表れ哀れな姿に・・・・。

さて、これからいかが相成りますことやら、 「牡丹燈籠」、今晩はこれにて・・・・。
「江島屋騒動」、「乳房榎」、「真景累ケ淵」と「牡丹燈籠」は三遊亭圓朝の創作した怪談です。
「牡丹燈籠」は、圓朝二十歳代の時に創られたものだと言われています。
明治17年(1884)、47歳の時、速記本として出版され、大変な人気を得ました。
この「牡丹灯籠」は元々中国に同じような話があり、それを江戸時代日本語に翻案し、それを圓朝が江戸前に創り直したとされます。
上野の夜の八ッの鐘がボーンと忍ヶ岡の池に響き、向ヶ岡の清水の流れる音がそよそよと聞こえ・・・。
「牡丹燈籠」とは、女中のお米が持っている提灯の牡丹の絵柄。
夜になると「カラーン、コローン、カラーン、コローン」という下駄の音。
幽霊にあるはずもない足をつけたという、有名な噺です。
幽霊が灯りを点けてくるのもまた・・・。
そして、この後、怪談「牡丹燈籠」は、「栗橋宿」へと、話が続いていきます。
下男の伴蔵、お峰夫婦は江戸から栗橋に引き払い、その金で荒物屋「関口屋」を始めて成功し、大旦那と奥様となった。(お峰と伴蔵)
金が出来ると伴蔵は茶屋遊びに出て夜ごと楽しんでいたが、そのことが女房お峰に分かり、夫婦喧嘩になった。
大きな声で「仏像を盗んだのはお前で、その時の金,百両を出せば別れてやる」と騒ぎ立てた。(関口屋ゆすり)
伴蔵は高飛車に出ていたが幽霊の一件になると困って平身低頭、やり直そうと提案。
その夜は無事過ぎて。
翌日、隣町幸手の祭りを見た帰り、利根川土手に、二人は連れだって出掛けたが、伴蔵の悪巧みで女房のお峰は亭主の伴蔵に殺されてしまう。(お峰殺し)
長い、長い噺です。

国境(くにざかい)

国境
今年は、節電やら、電力会社間の電力融通などが話題ですが、実家の前の小川の写真は貴重だと思います。
何と言っても、写真右側の岸は「東京電力・50ヘルツ」、左側の岸は「中部電力・60ヘルツ」なんです。
この小川が、県を分け、電力会社も分けている訳です。
                    国境
あちらの水が60ヘルツ、こっちの水が50ヘルツです。
ですから、あの蛍でさえも、あちらで育ったのとこちらのとでは、お尻の点滅のスピードが違うのです。
あちらの蛍は、電力供給には余裕がある「平気(平家)ボタル」、こちらの蛍は、電力利用を極力控えている「減じ(源氏)ボタル」です・・・・。

三遊亭圓生代々

(お盆ネタが続きます。)
谷中「全生庵」の三遊亭圓朝の墓の隣に、「三遊亭圓生」代々の墓があります。
初代から四代目までが墓誌に刻まれています。
       三遊亭圓生代々墓
歴代の圓生をまとめてみました。
圓生約250年の歴史です。落語の歴史でもあります。
【初代】(1768―1838)本名橘屋松五郎。 三遊派の祖。
初め東亭八ッ子(とうていやっこ)門で多子(たこ)。
初代三笑亭可楽に従って東生亭世楽。独立して山遊亭猿松。
烏亭焉馬門となり立川焉笑。再度独立して三遊亭圓生。
「身振り声色芝居掛り鳴物入り」の元祖。
【二代】(1806―62)本名尾形清次郎。    圓朝の師匠
初め三升家しげ次。初代圓生門に入って竹林亭虎生。
三遊亭花生、橘屋圓蔵を経て2代目襲名。
芝居噺を創作。門下から圓朝が出た。
【三代】(1839―81)本名野本新兵衛。    圓朝門下
歌舞伎役者から4代桂文治門となり桂万治。圓朝門に移って圓楽。
1872年(明治5)3代目襲名。
圓朝から道具を譲られて「道具入り芝居噺」を演じた。
【四代】(1846―1904)本名立岩勝次郎。   圓朝門下
鯉朝、小圓太、3代圓喬を経て1886年(明治19)4代目襲名。Photo_9
人情噺、廓噺に優れ、三遊派を統率。
【五代】(1884―1940)本名村田源治。       六代目の義父  4代橘家円蔵門下。
二三蔵、小圓蔵、圓窓、5代圓蔵を経て1925年(大正14)5代目襲名。
「でぶの圓生」といわれる。
豪放のなかにも細緻な芸を示し、『三十石』『首提灯』『文七元結』『双蝶々』などを得意とした。Photo_8
【六代】(1900―79)本名山崎松尾。          昭和の名人 5代目の養子。
6歳で子供義太夫・豊竹豆仮名太夫。
10歳で落語に転じ4代圓蔵門下。
圓童、小圓蔵、圓好、圓窓、6代圓蔵を経て1941年(昭和16)6代目襲名。
圓朝ものの『真景累ヶ淵』『怪談牡丹灯籠』『怪談乳房榎』をはじめ廓噺、音曲噺、芝居噺など広い芸域を誇り、『圓生全集』『圓生百席』(レコード)など多くの著作・資料を残す。
78年6月に真打の"粗製乱造"に反対して、落語協会を脱退して「落語三遊協会」を結成したが、活躍中に急逝。
・・・そして七代目は・・、今まさに生みの苦しみというところ・・。

繁昌亭の"繁昌"ぶり

Photo

上方の話題なので、あまり詳しくは知りませんが、「天満天神繁昌亭」の客入りがやや鈍って来ているそうです。
ある新聞によれば、チケット売り場に「当日券あります」の張り紙がひんぱんに出るようになったというのです。
「天満天神繁昌亭」は、開場以来常に満席で、特に昼席は前売り券完売で入手難といわれていました。
ところが、最近は土日・祝日以外は当日券があるという。
これまでが異常人気だった訳で、やっと普通の状態になったということですが、関係者は、客足は落ち始めると早いと、危機感を感じ始めているようです。
関西に60年ぶりに復活してオープンしてから9月で丸5年。
支配人は、「3・11の東日本大震災後、団体のキャンセルが続いています。いまどき笑っていてよいのかという心理的なものと、経済的な要因の両方ではないか」と・・・。
また、大阪各地で開かれている落語会は1カ月で300近くに激増し、繁昌亭ができる前の2倍以上になっているのも原因のひとつだとも・・・。
繁昌亭がオープンする直前では、「毎日100人ぐらいのお客さんがあればトントンでいける」と計算していたそうですから、想定外の反応だったということもありそうです。
新しい建物・繁昌亭への興味、舞台との親近感、漫才が低調でその反動、落語家の熱演など、好調の原因は多くある訳です。
協会の努力も物凄かったようです。
「また来たいといわれるように」とアイデアを出し合ったり、同じネタが多すぎると指摘されると、「動物園」「時うどん」「手水(ちょうず)回し」の前座ネタ3つをしばらく“禁止”する一方、トップ出番の持ち時間を10分から15分以内と幅を持たせて、若手のネタ充実をはかったり・・・。Photo_2
また、これこそが寄席定席ならではだと思うのですが、教育の場となった楽屋で若手は先輩にしつけられ、ネタ以外のことも教えてもらったり出来、普段言葉を交わす機会の少ない大師匠と直接話ができるなどたくさんの“定席効果”があったようです。
そんな中での観客減少ということですから、とても悩ましいことではあると思います。
新しいスターの登場やマスコミの様々な企画の再来などには期待は出来ませんから。
私が思うに、いわゆる「落語ブーム」が一巡した今が、とりりあえずリアルな姿でしょうから、必要以上に焦ったりせず、愚直に地道に努力と工夫を積み上げて行くことだと思います。
これは上方落語だけでなく、落語界全体のことだと思います。
ブームのおかげ?で、噺家さんの数も随分増えました。
これからは淘汰の局面で、本物だけが残って行くことになります。
それでいいじゃないですか。

2011年8月15日 (月)

南部の火祭り

故郷のお祭り。奇祭「南部の火祭り」です。Photo_5
東北の南部氏のルーツである我が故郷で、お盆の行事として昔から続いている夏祭り。
盆の送り火と川供養の奇祭であると同時に、稲を病害虫から守るための虫送りの意味も込められていると言われています。
もともとは江戸中期の元禄時代頃に富士川下流沿岸で行われていましたが、次第に縮小され、現在は南部町の富士川沿岸のみで行われています。

幼い頃は沿岸の集落毎に行われていました。
母の実家が富士川沿岸の集落だったので、毎年お盆に行くのが楽しみでした。 Photo_6
オープニングを飾る「投明」、「大松明」の炎が仏様の道明かりとなり、「燈籠流し」が厳かに行われます。
一斉に点火される「百八たい」が富士川の両岸で燃え上がると、祭りはクライマックスを迎えます。

南部の町のお祭りだけが観光資源として残っている感じで、私が毎年楽しみにしていた、ささやかな感じではありませんが、やはり故郷の祭りですから、懐かしい思いはするものです。
人混みを避けて、随分長い間行ってはいませんが・・・。

≪投松明≫
「蜂の巣」と呼ばれる麦わらであんだ籠を載せた、高さ10数mもする竿を川原に立てる。
夕方日没になると、手に手に松明をもって集まった子供達が、投げ入れの合図とともに、点火した松明を片手でクルクルと回しながら、頭上の蜂の巣目がけて投げ合う。
松明が命中すると、蜂の巣が天空で火の塊となって燃え上がる。
燃えつきたあと、竿を揺さぶると、あたかもクス玉を割ったように火の粉が折からの風にのって飛び散っていく様は見事です。
≪大松明≫
Photo_7大松明は町内各寺院から古くなった塔婆を集め、積み重ねて山となし、大松明に仕上げたもの。
僧侶による読経のなか、点火され、煌々と照らす塔婆の炎と低く流れる読経が闇の川辺に幽玄な響きをもたらしていく。
≪燈籠流し≫
僧侶の読経に合わせて百八つの燈籠が流される。
燈籠流しはお盆の間に家に戻っていた古い先祖の御霊や新しい仏さまの魂を送る荘厳な儀式。Photo_8
≪百八たい≫
人間の百八の煩悩を炎で除去、あるいは死者の慰霊や稲の害虫であるウンカを虫送りする意味があると言われる。
富士川の両岸約2kmに百八基の円錐形のたき木の山を作る。
百八たいはもともと仏教の「百八煩悩を絶つ」ということに由来しているといわれる。
夜8時、富士川原に静寂が戻ると、一斉に点火され、百八つのかがり火は一度に燃え上がり、川原は勿論のこと、近くの山や空も真赤に染めて、焔は川面に映り、2倍の焔となって辺りを火の海の饗宴に包んでいく。
・・・故郷の「夏祭り」です。

夏休み


暑さで、自宅に引きこもりで終わりそうな夏休み。
後半に予定していたことが、直前でドタキャンになったので、「寝正月」ならぬ「寝盆」ということになりそうです。
真面目に「落語研究」でもしましょうか・・・。
と思いながら、恐らく、惰眠を貪るだけになると思います。
でも、この暑さのピークを避けて体力を温存するというのは、「夏休み」という理に適った休暇だと思うのですが・・・。
土日と違って、世の中が動いているのに、自分だけボーっとしているのは、ちょっと焦りと不安を感じて、心中が穏やかではありません。
これも、せこいサラリーマン気質ということです。トホホ。

瀬音優しく懐かしく

       瀬音ゆかしき
帰省して、実家の前を流れる小川を眺めるていると、何かホッとするものです。
いつも、同じせせらぎが迎えてくれます。
ずっとこのままの流れでいて欲しいものです。
・・・今年は、故郷の景色が変わってしまった人が大勢いました。
母なる海に「牙」を剥かれて・・・・、それでも海を愛している、海とともに生きようとしている人もいます。
故郷はいいものですね。

終戦記念日


終戦から66年目。
「全国戦没者慰霊式」の出席者も、戦没者の親はゼロ、配偶者は1%、子どもが30%程度だということで、・・・随分時間が経ったものです。
私たちは、文字通り「戦争を知らない」世代ですが、考えてみると、生まれた時は、まだ敗戦から10年あまりしか経っていなかった訳で、幼心には分かりませんでしたが、まだ戦争の傷跡もあったんだろうと思います。
平和な時代に生まれ、育つことが出来ました。
実家の仏壇に、軍服姿の凛々しい青年の写真が置いてありました。
弱冠22歳で戦死した父の兄。私の伯父だそうです。
最愛の長男を亡くした祖母が、問わず語りに、この伯父のことを話してくれました。
全く知らない人でしたが、今、語る祖母の気持ちを思うと・・・。
ちょうど今、私の長男が22歳です。
絶対に繰り返してはいけない過ちですね。

2011年8月14日 (日)

ひそかに15万件

今回はひそやかに。
このプログへのアクセス累計が、本日15万件に達しました。
ありがとうございます。
       

内海桂子師匠

漫才協会名誉会長の「内海桂子」師匠が肺炎で入院しているそうです。Photo_4
桂子師匠は、今月6日から10日まで東京・国立演芸場に出演したが、公演前日の5日に体調不良を訴えていたという。39度の発熱があり、熱中症と判断し自宅で静養。ところが、翌6日になっても体調は回復しなかった。
 何とか舞台出演は続けたが、9日の公演終了後に夫でマネジャーの成田常也氏に病院に連れて行かれ、肺炎と診断。そのまま入院した。10日は病院から酸素吸入器を付けて会場に行き、舞台は最後までやり通した。
 公演終了後は治療に専念し、現在は体温や酸素吸入量も回復。「酒も飲まず、いわれた通りの薬を飲んで今しばらく横になっています」とツイッターで報告している。
 関係者によるとあと10日ほどは入院が必要だが、21日からの舞台には復帰する意向という。

・・・だそうです。
ところで、師匠は88歳だそうですが、
ツイッターを活用する芸能人の最高齢ではないかと言われ、またそのつぶやきが面白いと評判なんだそうです。
「さすが漫才師」とうならされるものばかりだとか。
「戌年の私が猫の夢を見ました。ドロボー猫呼ばわりされているかわいそうな猫に同情している内に目が覚めたんですが、犬に比べて猫には悪い例えが多いですね。あまり尻っぽを振らないせいもあるんでしょうか」
「ツイッターとはつぶやけばいいんだと聞いて頭をひねっていますが、用語辞典で正確な意味を調べてみました。いくらページをめくっても出て来ません。どうしてなのか亭主に聞いたら、85年出版の辞典には 載っていませんよと。つい最近始まったばかりだそうで知らぬ事とはいえ大変失礼いたしました」」・・・。Photo_5
私は、桂子師匠の相方だった「内海好江」師匠が好きでしたよ。
若くして亡くなってしまいましたが。
春日三球照代の照代さんと、好江師匠はよかったなぁぁ。

甲州弁?

甲州弁?
私の実家は「駿河弁」がベースですから、「・・ずら」の圏内です。
一方、同じ郡内の生まれでも、家内は「甲州弁」の圏内です。
数年前、鰍沢から身延へ向かう道を走っていて、面白い標識を見つけました。
「飛ばしちょし」・・・。
要するに、甲州弁で「飛ばしちゃ駄目」という意味で、「スピードの出し過ぎに注意しましょう」と言っている訳です。
今回の帰省で、同じようなものを見つけました。
交通安全ではなく、ガソリンスタンドの宣伝看板です。
「寄ってけし」・・・。
「寄ってけよ(寄ってってくださいよ)」ということですよ。
  甲斐のぉ山々ぁぁ  陽にぃ映ぁえぇて~
  けえろ(蛙)が鳴くんて 雨ずらぁよぉぉ~

ふたり

最近は、ニュース番組以外は視聴することかせ少なくなったのですが、先日、夏バテで早く帰った時に、途中から視聴し始め、とうとう最後まで・・という番組がありました。
2人の人物の絆を描くドキュメンタリー「ふたり」。
今回は映画監督・Mさんと長男。
2011年夏公開の作品は、長男が監督、Mさんが脚本を担当。
2人の合作ともいえる作品だ。
しかし2人の間には知られざる葛藤があった。Photo_3
70歳にしてなお映画への情熱をたぎらせる父。
偉大な父と比較される宿命を負いながらも、挑戦を続ける息子。
6年前、長男は父の反対を押し切ってアニメーション映画の監督になった。
そんな息子をMさんは認めていなかった。
そんななかで始まった今回の映画作り。
番組は10か月にわたって、制作現場に密着した。
幾度も衝突する父と子。
カメラは、2人の葛藤を丹念に追っていく。
主人公のキャラクター設定をめぐって始まった壮絶なバトル。
途中、公開延期の危機さえ訪れた。
そして、制作の山場に起こった「東日本大震災」。
映画はがけっぷちの状況に追い込まれる。
衝突しながらも
、「映画を創る」という同じ目標に向かい、情熱を燃やす父と子の物語。
私が一番印象に残ったのは、東日本大震災が起こった直後のMさんの態度と言葉です。
「たとえどんなことがあっても、"生産現場"を止めてはいけない」と。
「生産現場」という表現を使っていましたが、本当のプロの考えることは、どの世界・どの分野でも同じだと痛感させられました。
地震にも動ずることなく「牡丹燈籠」を演じた三遊亭圓朝。
世の中の様々な分野で、こういうプロフェッショナルがいて、それが日本が世界から賞賛されたベースになっているのです。
何があっても続けなくてはならない。
後のことは、それがあってのことで、ゆっくり考えて行けばいい。
続けることが全てだと。

2011年8月13日 (土)

墓参

      墓参  墓参
お盆で帰省しての大切な仕事は、先祖の墓参です。
家内の実家と自分の実家のお墓参り。
自分の実家のお墓というのは、私自身の「終の棲家」でもあります。
お盆のために、老いた両親が磨き込んでいたという墓石は、なるほど綺麗に光っていました。
墓前に線香を上げ、手を合わせ、お題目を唱えると、改めて祖父母のことが思い出されます。
思えば、決して裕福とは言えなかったけれど、とても幸せな家庭・家族だったなぁと思います。
家族に愛情を注がれながら暮らした、幼かったあの頃・・・。
この幸福(感)を、次代に繋げて行かないといけません。
果たして、我が子どもたちにそれを繋いでいるか・・・?
隣で、無心に合掌している息子を横目に、「おい、分かっている(そのうち分かってくれる)よな。」と、心の中で囁いていました。
時は流れ、世代が継がれて行きます。

旧盆

旧盆
迎え火を焚いて、ご先祖様をお迎えです。
今年も家族とともに過ごすことの出来る幸せに感謝しつつ。
春、東日本大震災がありました。
多くの人が亡くなり、未だに行方不明の人も多くいます。
顔も名前も知りませんが、突然命を奪われた人たちのご冥福も祈りながら。
いつもとはちょっと違ったお盆です。
南三陸のあの光景や触れ合った人々のことを思い出しながら。

習志野圓生祭


六代目三遊亭圓生師匠は、1979(昭和54)年9月3日に、公演先の習志野市で倒れて、そのまま還らぬ人となりました。
落語協会を飛び出して落語三遊協会を旗揚げしたものの、寄席に出られないため、全国各地をまわり落語会をやっていた最中でした。Ensyo_hi_1
・・あれから時は流れ、今年はもう33回忌ということになります。
この圓生師匠の終焉の地である習志野で、ずっと追善の落語会を開催している方々がいらっしゃいます。
そして、今年もその「習志野圓生祭」が開かれます。
案内葉書をいただきました。
9月4日(日)の午後です。
何年か前、先輩の杜の家頓平師匠に誘われて行きました。
「圓生の求めたもの、遺したものを、それぞれの胸に抱き、演者は高座に臨む」と・・・。
何人かの方が、圓生師匠のネタを演るのですが、正直なところ玄人とは違いますが、素人離れしていたことを思い出します。
木戸銭が無料だということもあるかもしれませんが、200人ぐらいの会場は満席でした。

春風亭柳枝と談洲楼燕枝

時代小説「圓朝語り」の中で、「春風亭柳枝」が総領弟子の「談洲楼燕枝」に、「三遊亭圓朝」の非凡さを認めた上で、「圓朝に負けるな」と叱咤する場面があります。
フルキャストで大看板の名前が登場するのが、まるで「火曜サスペンス劇場」で、ストーリーに何の関係もない名所が出て来るのと似ています。Photo
冗談はともかく、「談洲楼燕枝」といえば、明治時代に三遊派の圓朝と覇を競った柳派のエースだった名人です。
この場面を読んで感じたのは、噺家さんの名跡のことです。
2〜3年前に、「春風亭小朝」さんの離婚騒動があった時に、その別れた奥さんの「Yさん」が、「小朝さんに三遊亭圓朝を襲名して欲しかった」などと、その無茶苦茶な行跡と同様に騒いでいました。
まぁ、別れた奥さんが勝手に騒いでいるといえばそれきりですが、この「Yさん」の実家は、三代続く由緒ある?噺家さんの家系ですから、ちょっと気になりました。
一方、3年ほど前に「春風亭柳朝」という名跡が復活しました。
襲名したのは、先代柳朝師匠からは孫弟子にあたる、小朝さんの兄弟子の一朝師匠のお弟子さんでした。
この時、「小朝さんはどうして柳朝を襲名しなかったんだろう」という話題にもなりました。
総領弟子の一朝師匠が「一朝という名跡は、八代目正蔵(彦六)師匠が心酔した三遊一朝老人の名前を取ったものだから」と、「柳朝」を継がないことは明らかでしたから。
でも、考えてみると、大師匠の林家正蔵(彦六)師匠も、「林家」という亭号は借りたものですし、柳朝師匠ももとは「林家照蔵」だった訳で、この「春風亭」とて本流ではなく、「柳朝」という名跡も、先代の人気で大きくなったもので、あまり魅力はなかったのかもしれません。
私は実は、小朝さんが「Yさん」と結婚した時、小朝さんは「正蔵」を狙っているのではとも思いました。
しかし、その大名跡も、先代の孫である当代が襲名しました・・・。
ついでに「三平」も正蔵さんの弟が継ぎ、「共倒れ兄弟」と揶揄されています。
その後、ある著名な評論家の先生が、小朝さんは、「春風亭柳枝」という柳派で一番大きな名跡があるのだから、これを継いだら・・・と仰っていたのを耳にしたことがありました。
・・・と言う訳で、色々述べて来ましたが、「春風亭柳枝」というのは大きな名跡なんですね。
圓窓師匠が最初に師事したのが、八代目柳枝師匠でした。
一時、圓窓師匠の柳枝一門時代からの兄弟子の「三遊亭圓彌」師匠がという動きもあったそうですが・・・。
柳派の「春風亭柳枝」と「談洲楼燕枝」、復活するといいですね。

2011年8月12日 (金)

猫は"炬燵"で

猫は炬燵で
この暑さに、"炬燵"や"ストーブ"なんていう言葉などは聞きたくありませんね。
それにしても、猫が羨ましいですよ。
だって、今は、外(世の中)が全て炬燵の中みたいな状態ですから、猫も丸くなり甲斐があるというものでしょうから。
気持ちよさそうにして。
こっちは汗だくなのに。
まだまだ暑さが続きそうです・・。
夏の夕立は、竜(たつ)が降らせるそうですが、冬は竜の倅の"こたつ"がまいります。

うえの


私のホームグラウンド?の上野のタウン誌8月号。
震災関連の記事も少なくなり、夏休みですから動物園、就中、パンダの記事が目立ちます。
街もパンタ゜一色です。

「不適切なテロップ」の反響

某テレビ局の情報番組が岩手県産米のプレゼント当選者に関し「怪しいお米セシウムさん」など不適切なテロップを表示した問題で、CMの提供を取り止めるスポンサーが相次いでいるそうです。
あるスポンサーは、「抗議の意味を込めた」、「CMを流すには不適切な放送局と判断した」とコメントしているようですが、それ以上に「公共的使命を担うには不適切な放送局」だと思います。
テロップを実際に見ましたが、それはもう酷いものです。
担当者が勝手に作ったものとは到底思えないような、本当に「立派な」テロップでした。
こういうものは、「以後再発しないように徹底します」で許されることではありません。
ある空間(世界)に存在するためには、どんな理由であれ、絶対にやってはいけないことというのはあるはずで、レッドカードが出されてから「これからやりませんから許してください」ということがまかり通る訳がありません。
ごく一部の心ない社員がやったのだからという見方もあるでしょうが、そういうことも全て含めて、リスク管理をしていくのが、企業統治というものだと思います。
言葉や映像を使って、様々な情報を正しく伝えるべき放送局が、その言葉でしくじったのですから、もう存在してはいけないでしょう。
だから、この放送局は閉局、担当者は業界から永久追放が適当な処分だと思います。
それぐらいの緊張感でやって行かないと・・・、そんなに軽く甘いものではありません。
心ない風評被害を被った人たちのことを考えても。

委細承知(之助)

圓窓師匠創作の「ゆれるとき」に登場する「三遊亭三生」の口癖は、「委細承知仕(つかまつ)った」だったそうです。
すべて承知したという意味の「委細承知」を人名に擬していうと「委細承知之助」。
はや呑み込みをする人や、何ごとをも知ったかぶりをする人のことも言うようです。
「宮戸川」の、霊岸島に住む半七の叔父さんは、何でもすぐ飲み込んでしまうということですから、この人種の一人かもしれません。
これが、「ゆれるとき」のオチに繋がるのです。
同じような意味で「合点承知(之助)」というのもありますね。
「合点」はもともと和歌徘諧で優劣を判断する人が、自分の良いと思う作品に付けた印で、現在では承諾したことの意味ですから。
このほか落語には、火事を見物するのが大好きな、「野次馬之助」という尻尾のない馬も登場します。
「オーラ、オラオラ、邪魔だ、邪魔だぃ。」って、てめえの方がよっぽど邪魔なやつのことです。
それから、「おそれ入谷の鬼子母神」だとか、「その手は桑名の焼き蛤」「驚き桃の木山椒の木」など、日本語独特のリズムとアクセントを楽しめますね。

2011年8月11日 (木)

幽霊画展

Photo

谷中の「全生庵」の本堂で、毎年恒例となっている「三遊亭圓朝コレクション 幽霊画展」が開催されているそうです。
三遊亭圓朝がコレクションした円山応挙、伊藤晴雨、河鍋暁斎らの幽霊画が約40点展示されているそうです。
「7割近くが女性客。男性客よりもじっくりと熱心にご覧いただいている」とお寺の方が言っているそうです。
Photo_3「毎年リピーターとしてご来場いただくお客さまも増えている。これに来なければ『夏が始まらない』とわざわざ遠方から足を運ばれるお客さまも」。
あちこちで節電が叫ばれている今年の夏ですから、「近場で涼めるスポットとして団体客のご利用も増えている。暑い夏に、気持ちだけでも涼んでいただければ」、「近年は浴衣を着て来場される女性客も目立つ。谷中は浴衣が似合う町なので、ぜひその風情を楽しんでほしい」とも。Photo_4
Photo_2

圓朝忌

8月11日が三遊亭圓朝の命日(圓朝忌)です。Photo
亡くなったのが1900(明治33)年ですから、111年忌です。
「圓朝まつり」もいいですが、「圓朝忌」として、落語界全体で偲ぶような形になれば良いと思うのは、私だけでしょうか?
・・・そして、あの痛ましい地震・津波から、ちょうど5ヶ月目です。
あの日から、日本は随分変わりましたね。

寿限無

圓窓師匠の「ゆれるとき」で、「三遊亭三生」が「三遊亭圓朝」に「寿限無」の稽古をつける。
圓窓師匠が三生に乗り移り、「寿限無」の稽古の場面。
Photo_3 「寿限無」は、一番有名な落語。
恐らく、ほとんどの人が、ストーリーは知らなくても題名は知っているでしょう。
私は、天邪鬼ですから、ポピュラーな落語が好きではありません。
「落語」といえば、この「寿限無」のほかにも、「時そば」も有名ですし、「松竹梅」などは「なったぁ、なったぁ蛇になったぁ」なんて、訳も分からずに言われています。Jpg
あたしゃどうも、こういう誰でも知っている噺から逃げているのです。
「寿限無」は、ただ長い名前をつけた親のバカバカしい噺で、早口で名前を繰り返すと受ける噺だという訳ではない。
待望の子どもを授かった喜び、その大切な子どもに永久の命を願い、祈る親の気持ちが表現出来なくてはいけない。
この噺は早口言葉ではない。
子どもの名前が繰り返されるが、各場面で全て言い方が違っていないといけない。
落語っ子連や扇子っ子連の稽古会の時に、この噺にチャレンジするメンバーに対して、師匠がいつも仰る言葉です。Photo_4
忘れもしません。扇子っ子連の最初の稽古会の時、この何度も名前を呼ぶ場面では、一人一人を前に出して、そのシーンに合った呼び方を言わせ、さらに丁寧に指導してくださいました。
私は、八っつぁんが、なかなか起きない「寿限無・・・」を揺り起こそうとする場面をやりました。
「声が大きいのと雰囲気が出ている」と言われました。
柳派の先代の小さん師匠が仰っていたという、「登場人物の了見になれ」ということと同じことだと思います。
そしてさらに、山岡鉄舟の「無舌」にも繋がるものだと思います。Photo_5
「落語は、お客さんを笑わそうと、わざとらしく演っては駄目だよ。普通にやれば笑ってもらえるように出来ているんだから、その場(場面)や人(心理)をしっかり描くことが大事なんだよ。」
師匠にいつも言われています。
「ゆれるとき」の「三遊亭三生」も、全く同じことを若き圓朝に力強く説いていました。

2011年8月10日 (水)

灼熱の街角・・

   灼熱の街角・・
仕事の都合で、どうしても外出しなければならず、オフィスを出たのが、ちょうど正午頃。
霞が関ビルの上空も真夏の雲。
陽光も黄色く見える感じです。
暑い
外堀通りと桜田通りが交わる虎ノ門交差点を渡り、霞が関駅に向かっていて、ある"異変"に気がつきました
"異変"と言っても、身体(体調)ではありません。
さすがの私も、今日はネクタイは外していましたが、いつもどおりの長袖のワイシャツにスーツの上着を着て歩いていました。
ちょうど昼休みで、霞が関の官庁街からは多くの人々が出て来ましたが、上着を着ている人、ネクタイをしている人、長袖の人は、誰一人もいませんでした。
私は「えぇ〜」と思いましたが、恐らく、私の姿を見て呆れる人の方が普通なんでしょうね。
暑いのと、照れ臭いのとで、上着は脱いで歩くことにしました。
落語の「一眼国」を思い出し、ぞぉ〜っとしました。

鉄舟と次郎長

「奉納落語会」での宝井琴調先生の「鉄舟と次郎長」。
清水次郎長。本名山本長五郎。
その後、明治8年には鉄舟の勧めで富士の裾野を開墾するなど社会活動に励み、明治26年6月12日、74歳で大往生した。

講釈のストーリーは以下のようなものでした。
明治元年九月十八日、徳川幕府の軍艦であった「咸臨丸」が新政府の官軍によって清水港内で攻撃を受け沈没した。
次郎長は傷つく徳川方の軍人を官軍の目の届かぬよう密かに逃がし、また湾内に浮遊する屍を拾い集め、手厚く供養し葬った。
これらの行為が駿府藩の耳に止まり、出頭、詰問を受けたが、そこで次郎長は「死ねば仏だ。仏に官軍も徳川もない。仏を埋葬することが悪いと言うのなら、次郎長はどんな罰でも喜んでお受けします。」と答えた。
このいきさつをあとで聞いた山岡鉄舟は、いたく感心し、鉄舟が明治二十一年に亡くなるまで親交が続いた。
また次郎長も自分より十七歳も年下の鉄舟に心酔し、「自分の親分は山岡鉄舟」と公言するほどだった。

山岡鉄舟が清水次郎長と会った時に以下のようなエピソードもあるそうです。
「おまえの子分で、おまえのために命を捨てる人は何人いる?」
その時に次郎長はこのように答えた。
「いやぁ、あっしのために命を捨てるような子分は一人もおりません」
その後の次郎長の言葉が良かった。
「わっしのために命を捨てるものは一人もおりませんが、わっしは、子分の為にいつでも命を捨てる覚悟をしております。」

清水港の名物は お茶の香りと 男伊達ェ~
私は実家の隣町が静岡県清水市(現在は静岡市清水区)ですから、小学校3年生の時の遠足は清水港や三保の松原だったし、家族で袖師海岸へ海水浴に行ったりしたものです。
昔は「次郎長」、今は「ちびまる子ちゃん」と「春風亭昇太」か・・。

「ゆれるとき」と「圓朝語り」

ここ10日間ぐらいで、圓窓師匠の創作落語「ゆれるとき」を聴き、稲葉稔著の時代小説「圓朝語り」を読んで、フィクションとはいえ、当時の時代背景と、三遊亭圓朝の自らの芸への葛藤の一部を想像することが出来ました。Encho1_s
「ゆれるとき」の圓朝は、真打昇進したばかりの16歳で登場します。
一方、「圓朝語り」の圓朝は、真打になって10年近く経ち、この間「芝居噺」で超売れっ子にはなったものの、その人気に陰りが出て来ている20代の後半。
圓朝が神奈川宿に隠居しているかつての「三遊亭三生」の所に行ったのは何故でしょうか。
この頃の圓朝は、これからの自分の芸や噺の行くべき道を模索していたのではないか。
10年後、「累草紙後日の怪談(真景累ヶ淵)」の芝居仕立ての噺の人気に陰りが出て、素噺に戻ろうと葛藤している真打の圓朝。
ここで、この圓朝を救う?のが「牡丹燈籠」ということになります。
「圓朝語り」は、「牡丹燈籠」という新作を引っさげて高座に上がるまでの圓朝が描かれています。
「ゆれるとき」では、功なり名を挙げた圓朝の最後の高座になった「牡丹燈籠」が登場します。
もう一度圓朝を、もう一度「牡丹燈籠」を読んでみようかと思います。


2011年8月 9日 (火)

熱中症・・?

落語にばかり入れ込んでいたからか、どうやら「熱中症」という、全く色っぽくない症状になってしまったようです。
いい歳をして、この土日にちょいとはしゃぎ過ぎたのかもしれません。
やや頭が重くて、やたらトイレが近くなりました。
かなり水分を摂っているからでしょうが・・。
水分を摂って、身体を冷やすことがポイントだそうですから、昨日は早く帰って寝ました。 Photo_4
私は頑なにクールビズをせず、相も変わらずスーツにネクタイ姿で通勤しています。
さすがに、最近はこんな暑苦しい恰好で通勤している人はほとんど見かけません。
ある人は、そもそもスーツにネクタイというのは、日本より寒い英国の服装なのだから、日本の蒸し暑い夏に着ること自体が異常なことだと言います。
日本には、着物という素晴らしい着衣があるんだからと(絽や紗や帷子や浴衣で通勤すれば良いと)。
確かに、着物というのは、日本の気候に合っていると思います。 
着物で出勤したらどうだろう・・・?

安政の地震

安政2年10月2日(1855年11月11日)午後10時ごろ、関東地方南部で発生したM6.9の地震。Photo_2
被災したのは江戸を中心とする関東平野南部の狭い地域に限られたが、大都市江戸の被害は甚大であった。
被害は軟弱地盤である沖積層の厚みに明確に比例するもので、武蔵野台地上の山手地区や、埋没した洪積台地が地表面のすぐ下に伏在する日本橋地区の大半や銀座などでは被害が少なかったが、下町地区、とりわけ埋立ての歴史の浅い隅田川東岸の深川などでは甚大な被害を生じた。
また、日比谷から西の丸下、大手町といった谷地を埋め立てた地域では被害が大きかった。死者約4300人、倒壊家屋約1万戸とされている。
地震後約30分後に30余箇所から出火、半日後には鎮火したが2.2km2を焼失。
旗本・御家人らの屋敷は約80%が焼失、全潰、半潰または破損の被害を受けた。
亀有では田畑に小山や沼が出来、その損害は約3万石に上った。

これを三遊亭圓朝の年譜に重ねてみると・・・、

安政2年(1855年3月21日:三遊亭圓朝を名乗り真打昇進。
安政5年(1858年):鳴物入り道具仕立て芝居噺で旗揚げ。
圓窓師匠の「ゆれるとき」にもあるように、圓朝が真打昇進した年に、この大地震が起こっているのですねぇ。
新進気鋭16歳の若手真打は、この時何を思ったでしょうか・・?

ゆれるとき

  
圓窓師匠創作の「ゆれるとき」は、真打昇進間もない16歳の三遊亭圓朝が、既に引退して神奈川宿に住まいをしている「初代三遊亭圓生」門下の「三遊亭西生」を訪ねるシーンから始まります。     
この「三遊亭西生」という人は、実在する噺家さんではないようですが、圓窓師匠は、この人に圓朝と語らせているのです。
まず、「初代三遊亭圓生」を調べてみると・・・、
江戸の生まれ、元は芝居の木戸芸者。
1797年4月に「山遊亭猿松」、「烏亭焉馬(立川焉馬)」の門下で立川焉笑を経て、「三遊亭圓生」と名乗った。
芝居の台詞回しや声色を得意とした。
門下には初代三升亭小勝、2代目圓生、初代古今亭志ん生、花枝房圓馬、初代山松亭圓喬、圓桂(のちの初代坂東政吉)、三遊亭圓遊(のちの初代金原亭馬生)、三遊亭圓盛(のちの初代司馬龍生)、初代三遊亭南生、傳生(のちの初代司馬龍斎)、2代目竹林亭虎生らがいた。
・・・とあります
それで、この初代圓生の弟子の「三遊亭西生」という人は、圓朝の師匠である二代目圓生とは兄弟弟子ということになり、圓朝の父親の橘家圓太郎とも親しく、圓朝が「小圓太」で初高座に上がった時に、この6歳の圓朝の様子を見て知っているというのです。
噺の中で、西生が圓朝に「寿限無」の稽古をつける場面があります。
これは西生の身体を借りて、圓窓師匠ご自身が語っているのです。
まさにいつも稽古の時に師匠が仰っていることそのままなんです。
・・・そして、その稽古の最中に江戸に大地震が起こる。
世に言う「安政の大地震」です。
大地が突然大きく揺れても、西生は微動だにしない。
「どこへ行くんだい。外に出たって、外も揺れてるよ。」
このくだりも、3月の東日本大震災の直後に語ってくださった、噺家さんとしての心構えや芸談そのものでした。
その後、芝居噺で一世を風靡する圓朝は、素噺の人情噺で名人の名をほしいままにし、明治32年の「牡丹燈籠」が最後の高座となる。
ここで再び、圓窓師匠は「牡丹燈籠」の一部を語ります。
「カラン、コロン、カラン、コロン・・・」と、愛しい「新三郎」を訪ねる「お露」の下駄の音・・・。
そしてこの高座の最中に再び地震が起こる。
しかし、この時圓朝はぴくりともしない。
何事もなかったように、噺を進めて行く。
そして、客席に一人、これまた地震になど動揺もせず、「牡丹燈籠」に聴き入る女がいる。
寄席がはねた後に楽屋へ訪ねて来たこの女こそ、あの神奈川宿の三遊亭西生の娘だという。
父西生の位牌を胸に抱いて、圓朝の噺を聴いていたと・・。
ここからオチへと繋がって行く訳です。
                      
全生庵坐禅堂の最前列で聴いていて、私が圓窓師匠から教えていただいているのは、まさに「三遊亭」の噺の真髄なんだと思い、身体中に鳥肌が立つようでした。
圓窓師匠演ずる若き圓朝と老いた元噺家西生こそ・・。
文字通り、大師匠(三遊亭圓朝)に"奉納"が叶った名演だったと思います。
この噺、いつか師匠に教えていただこう。

2011年8月 8日 (月)

山岡鉄舟と三遊亭圓朝

「山岡鉄舟」Photo_6幕末・明治前期の剣客、政治家です。
天保7年6月10日旗本小野朝右衛門の長男として生まれ、1855年(安政2)槍の師である山岡家を継いだ。
また千葉周作に剣を学び、のち無刀流を案出し春風館を開き門弟を教えた。
1856年講武所剣術世話役。
1862年(文久2)幕府が募集した浪士隊の取締役となる。
1868年(慶応4)
3月戊辰戦争の際、勝海舟の使者として駿府に行き、西郷隆盛と会見して、江戸開城についての勝・西郷会談の道を開いた。
1869年(明治2)9月静岡藩権大参事、1871年茨城県参事を経て、1872年6月侍従に就任。
ついで宮内少丞・大丞と進み、1881年宮内少輔となった。子爵。
明治21年
7月19日没。
墓は東京
谷中の「全生庵」にある。
この人と、三遊亭圓朝との関わりは、どこにあるのでしょうか?Photo_3
ちょいと調べてみました。

不世出の天才と言われる圓朝も、最初から物凄い噺家だったわけではなかったでしょう。(稀有な才能があったのは勿論ですが。)
その圓朝が自分の芸を磨いているうちに、自分の限界に気がつきます。
それで座禅を組むようになり、偶然、無刀流の使い手にして禅と書の達人でもある「山岡鉄舟」と知り合うという、運命的な機会を得る。

「あんたは噺家らしいが、昔母から聞いた、桃太郎の話をしてくれんか?」と山岡に言われた時、山岡の急な申し出に圓朝はためらう。
「なんで今、この俺が、桃太郎のような昔話をしなきゃぁならないんだ。冗談じゃないぜ。ひょっとして、俺を馬鹿にしているのか?それとも公案(禅の修行者に、師匠が与える悟りを得るための無理難題)なのか?」
そんなことを散々考えた挙げ句、圓朝は結局、山岡の言った「桃太郎」は演らなかった。
ただ、家に
帰っても、圓朝の頭の中は「桃太郎」が引っかかる。
「なぜ?俺に、桃太郎なんだ?」
それから圓朝は、自分で桃太郎を手直し高座で演じるようになる。
(当然のように)大衆には好評を博します。
そこで山岡の所へ駆けつけた時に、
「山岡様、この前できなかった桃太郎の噺をさせてください。是非聞いてもらいたいんです」
すると山岡は眼孔鋭く、小柄な圓朝をにらみ据えて、
「もういいですよ。あの時は、母親が、昔話してくれた昔話を、有名な噺家のあんたさんが、どう話すか、聞いてみたかったんですよ。ただね、圓朝さん、舌で話してはいけませんよ…」
「…」またしても、圓朝は、ショックを受け、一言も声が出ない。
圓朝の心は揺れます。
「時節を逃したってことか…?
それに舌で話すなとは、一体どういう意味なんだ。口や舌で話さないで、どこで話すと言うんだ・・?」

しかしそんなことはお構いなく、圓朝人気は高まって行きます。
圓朝の頭の中では、常に「舌で話すな」という山岡の言葉が、引っかかっている。
そしてついには頭の中が真っ白になり、山岡を訪ね頭を下げる。
「先生、どうか、あっしを弟子にしてやっておくんなさい。どうすれば舌を使わない噺ができるようになるでしょうか?」
山岡は、即座にただ一言「無!!」と答えた。
この「無」という公案は、禅の坊主が弟子によく使う手だそうです。
山岡も圓朝に向かって、ついに「無」と発したという訳です。
この「無」を発する時点で、山岡は、圓朝という噺家が近々に悟りを開き、本当の名人になることが分かっていたという・・・。
だから「無」という問いを最後に与えたということです。

それから2年の間、圓朝は無心になって座禅を組み、己の舌を無くす修行に取り組んでいると、答えは向こうからやって来る。
「舌で語るからいけない。心の奥の奥の芯で語らねば、本当の噺にはならない」
どこからか、そんな言葉が聞こえる。

そしてその成果を、山岡に披露する時が来る。
もちろん噺は「桃太郎」ですが、山岡は噺などは聞いていない。
ただ心の眼で、じっと圓朝の心を観て・・・。

「圓朝さん、今日の噺はいいね。実にいい。真がある」
山岡は和尚と相談し、圓朝に「無舌居士」という法名を与えた。

こういう関わりを経て、山岡鉄舟と三遊亭圓朝は、山岡の創案で作られた「全生庵」で仲良く眠っているという訳です。
そして圓朝の墓銘には、生前の山岡が書いて与えた「三遊亭円朝無舌居士」という字が並んでいます。
「名人は 上手の坂を ひと上り」という言葉が心に響きました。

立秋

「暑い暑い」と騒いでいても、暦の上では今日から「秋」。
そんなこと言われたって・・・、暑さは激しくなるばかり・・。
初めて秋の気配が現れてくる頃とされる。(どこに気配が?)
七月節(旧暦7月)。「暦便覧」では「初めて秋の気立つがゆゑなれば也」と説明している。
夏至と秋分の中間で、昼夜の長短を基準に季節を区分する場合、この日から立冬の前日までが秋となる。
暦の上ではこの日が暑さの頂点となる。
翌日からの暑さを「残暑」といい、手紙や文書等の時候の挨拶などで用いられる。
また、翌日から暑中見舞いではなく残暑見舞いを出すことになる。
 「秋来ぬと目にはさやかに見えねども
            風の音にぞおどろかれぬる(藤原敏行)」

蝉の鳴き声
でも暑いです。
今朝の天気予報で最高気温予想は「34℃」でした。
ミィ~ン ミン ミン・・・・。
そうしたら、こんなコメントを見つけました。なるほど・・・。

「今日は立秋。暦の上では秋に入りましたが、相変わらず暑いですね」などというコメントは、暦の上では立秋こそ暑さの頂点であり、徐々に暑さが緩むのはその翌日からなので、おかしい。
一方、時候の挨拶などで用いる「立秋とは名ばかりのこの暑さ」の場合は、処暑までの期間を意味しているのでおかしくはない。

三遊亭圓朝

Photo

8月は「三遊亭圓朝づくし」です。
ここのところ、小説「圓朝語り」や昨日の奉納落語会での「ゆれるとき」などに触れたので、圓朝の一生(年表)を確認しようと思い立ちました。
落語中興の祖「三遊亭圓朝」の年譜です。
天保10年(1839年)4月1日:初代橘屋圓太郎(初代圓橘)の息子として江戸湯島切通町で生まれる。
弘化2年(1845年3月3日橘家小圓太の名で江戸橋の寄席「土手倉」で初高座。
弘化4年(1847年):父・圓太郎と同じく二代目三遊亭圓生の元で修行する。
嘉永2年(1849年):二つ目昇進。
嘉永4年(1851年):玄冶店の一勇斎歌川国芳の内弟子となり、画工奉公や商画奉公する。
安政2年(1855年3月21日:三遊亭圓朝を名乗り真打昇進。
安政5年(1858年):鳴物入り道具仕立て芝居噺で旗揚げ。
元治元年(1864年):両国垢離場(こりば)の「昼席」で真打披露。
明治元年(1868年):長子の朝太郎誕生。
明治5年(1872年):道具仕立て芝居噺から素噺に転向
明治8年(1875年):「落語睦連」の六代目桂文治と相談役に就任。
明治10年(1877年):高橋泥舟より山岡鉄舟を紹介される。
明治13年(1880年9月24日:山岡鉄舟の侍医である千葉立造の新居披露宴の席で、無舌の悟りを得て、同席していた天龍寺の滴水和尚から「無舌居士」道号を授かる。
明治19年(1886年1月8日井上馨の共をして身延山参詣。
また井上の
北海道視察(8月4日より9月17日)にも同行した。
明治20年(1887年4月26日:井上馨邸(八窓庵茶室開き)での天覧歌舞伎に招かれ、また井上の興津の別荘にも益田孝らと共に招かれている。
明治22年(1889年)4月:向島木母寺境内に三遊派一門43名を集め、三遊塚を建立。初代および二代目三遊亭圓生を追善記念する。
6月30日:各界人士を集め、初代・二代目 圓生追善供養のための大施餓鬼会を施行し、一門の43名が小噺を披露し、記念誌を配布。
朗月散史編『三遊亭圓朝子の傳』が三友舎から出版される。圓朝自身の口述に基づく自伝。
明治24年(1891年)6月:席亭との不和で寄席の出演を退き、新聞紙上での速記のみに明け暮れる。
明治25年(1892年):病の為に廃業。
明治30年(1897年)11月:弟子の勧めで高座に復帰。
明治32年(1899年9月 発病。
10月木原店で演じた『牡丹燈籠』が最後の高座となる。
不行跡により朝太郎を廃嫡処分とする。
明治33年(1900年8月11日午前2時:死去。
病名は「
進行性麻痺」と「続発性脳髄炎」。
圓朝は、「山岡鉄舟」だけでなく、「井上馨」など明治時代に活躍をした名士たちとの交流も多く、そういう面からも、やはり「名人」なんですね。
井上馨と身延山へ参詣したのが、私の誕生日(私が生まれる約70年前)というのが、震えますよ。
ここで、後の名作「鰍沢」をイメージしたのかもしれません。

幕末三舟

恥ずかしながら、「山岡鉄舟」という人のことは、あまりよく知りません。
「幕末の三舟」と言われた一人だと聞いたことはありましたが。
「奉納落語会」の琴調先生の講釈の中でも出て来ました。
幕末から明治時代初期にかけて活躍した幕臣である勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の3名の総称。Photo_5
幕末、徳川慶喜から戦後処理を一任された勝は、官軍の西郷隆盛との交渉役に高橋を推薦するが、高橋は遊撃隊(慶喜の身辺警護にあたる)の隊長を務めており、江戸を離れることができなかった。
代わりに推薦されたのが、高橋の義弟にあたる山岡であった。
慶応4年3月9日(1868年4月1日)、山岡は西郷との会談で、江戸城開城の基本条件について合意を取り付けることに成功した。
その後、勝が単身で西郷と交渉、同年4月11日(5月3日)、江戸城は無血開城されることとなる。
江戸を戦火から救った勝、山岡、高橋の名前にいずれも「舟」がつくことから、この3人を「幕末の三舟」と称するのである。
この人と三遊亭圓朝との関わりあいについて、ちょっと知っておく必要がありますね。
私の知識では、圓朝が鉄舟を師と仰いでいたということを聞いたことあります。
どこに二人の接点があるのか・・・。

2011年8月 7日 (日)

「圓朝まつり」~奉納落語会


いよいよ「奉納落語会・第二部」の開演です。
 ≪全生庵物語・圓朝と鉄舟≫
   ◆ 鉄舟と次郎長    宝井琴調
   ◆ ゆれるとき      三遊亭圓窓
       (三遊亭圓窓作)
倍率7倍のプラチナチケットに当たった幸運な観客150名。
全生庵には、幕末三舟の一人「山岡鉄舟」と、その鉄舟を師事したという「三遊亭圓朝」の二人が眠っています。
今回の奉納落語会・第二部は、この鉄舟と圓朝が登場する噺(講談・落語)の組み合わせです。
しかも、圓窓師匠は、ご自身の創作になる噺ですから、本当に楽しみでした。
先週の「紀伊國屋寄席」では体調不良で休演されましたので、やや心配でもありました。
圓窓師匠は、師匠の出囃子「新曲浦島」ではなく、トリ専用の「中の舞い」のお囃子に乗り、お元気な様子で高座に上がりました。
講談はともかく(琴調先生すみません)、「ゆれるとき」は、幕末の安政大地震も絡み、三遊亭圓朝が登場して来ます。
そして、演劇には「劇中劇」というのがありますが、「噺中噺」というのか、噺の中で噺の実演の場面があり、「寿限無」と「牡丹灯籠」が入っている。
タイムマシンに乗っているような、後の「鰍沢」の完成を思い起こすような台詞も入り、圓朝を堪能する創作噺でした。
また別の項でも述べたいと思いますが、圓朝を偲ぶ骨太の噺に満足でした。
師匠は、こんな重厚な噺を、いつ考え・どこでまとめたのでしょう。
            
外は突然の雷鳴が轟き、会場内にも聞こえて来ました。
圓朝没後111年後の夏、圓朝の姿を垣間見ることができました。

「圓朝まつり」~奉納落語会場

やっと開場の時間が近づいたので、入口の近くへ。
     
我々の前に並んでいた男性が、下足用のビニール袋を我々の分も取ってくれました。
会場の中は、床の掛軸などにも味があります。
禅宗のお寺の座禅堂ですからね。

畳敷きの広間は、座布団や座椅子はなく、畳の上にそのまま腰を下ろす形になっています。
まあ、1時間強の時間ですから、何とかもつでしょう。 

こういう会場で落語を聴くのはいいものです。
雰囲気があっていいですね。 

「圓朝まつり」~混雑の中で


炎天下に、こんなに人がいる。人、人、人・・・・。
もう、佃煮にしてしまいたいぐらい。
          
その混雑の中に、さらに何か行列が出来ている場所があります。
何だろうと見れば、列の先にいたのは、サインに応じている「柳家喬太郎」さん。
手前のテントの長蛇の列は、柳亭市馬」副会長。
弟子の市也さんが、傍らで時計を気にしています。
やはり人気の噺家さんには人だかりが出来ますね。 

もう暑くて、暑くて。
奉納落語会の開場まではもう暫く時間があります。
会場というか境内を一巡すると、「柳家さん喬」師匠一門の露店「ひょろびり」にも長い列が出来ていました。
「古今亭志ん輔」師匠も、ご自身の「にせ辰」で、お客さんと並んで写真に収まっていたり、「金原亭伯楽」師匠は、「わたしの書いた本を買ってよ」なんて。
色物の師匠たちも汗だくです。
「林家正楽」師匠は、着物姿ではなくこっそりサインに応じている感じだったし、「にゃん子・金魚」のご両人もいました。
鏡味仙花さんは暑さでパテ気味だったようです。
そうそう、洋装の「柳家小菊」さんを初めて見ましたよ。
・・・なるほど小菊さんてそんな感じですか(後はノーコメント)・・・。
「露店の出る形での圓朝まつりは今年で最後ですよ」なんていう噂も、会場内で耳にしました。
ファンの集いのようなイベントは別の場所・時期にして、ここのところは年忌だけで良い気もしますね。

「圓朝まつり」~圓朝の墓前

いくらお祭りだと言っても年忌なのだからという訳で、まずは圓朝の墓前に手を合わせに行きました。
      
生花が生けられ、並ぶほどではないものの、間断なく墓前を訪れる人もいます。
何度も来ている場所ではありますが、いつもとは違う雰囲気です。
「大師匠、私は落語が上手くなりたいんです!」と、静かに手を合わせました。
私の師匠は三遊亭圓窓師匠ですから、私も三遊亭の流れをくむことになる訳だと、勝手に「大師匠」なんて言ったりして・・・。

「圓朝まつり」~駅から会場へ

111年忌の「圓朝まつり」。
落語中興の祖「(初代)三遊亭圓朝」が眠る「谷中全生庵」で、今年も盛大に開催されました。
毎年炎天下でのお祭りですが、今年もご多分に漏れぬ炎天下。
私の唯一の目的は「奉納落語会・第二部」ですから、会場に着いたのは午後2時過ぎでした。
・・・考えてみれば、一番暑い盛りでしたね。

地下鉄千代田線千駄木駅の改札口を出たところに、こんな表示がされていました。
何となく緊張するものです。
千駄木の駅から三崎坂を上るところで、坂を下りて来た、浴衣に帽子(なんて言うんでしょう。毎日香のCMで定吉が被っているやつ)を被った薮入りの小僧さんを縦に伸ばしたような、不思議な雰囲気の人にすれ違いました。
一緒に行った「Ⅰさん」に、「あの人、三三さんですよ」と教えたり。
             
街にも「圓朝まつり」のポスターがたくさん貼られています。
それにしても、全生庵にはいるわいるわ、どこから湧いて来たのかと思うほどの人の波です。
                 
全生庵の入口に、奉納落語会チケット交換処がありました。
柳家さん八・夢月亭清磨・蜃気楼龍玉の3人の師匠。    
               
さん八師匠に「師匠、暑くて大変ですね」というと、「大変になっちまいましたね」との答え。
開場内のテントで、「春風亭正朝」師匠から「公式ガイドブック」を100円で買いました。
・・とにかく暑い。

仙台七夕祭り

「時は流れ また夏が来て あの日と同じ 七夕祭り・・」1
吹く風爽やかな杜の都の七夕祭りも、今年だけは「あの日と同じ」という訳には行きません。
昨日から始まった仙台の七夕祭り。
今年の東北の夏祭りは、どこも復興を願い・復興を期するものになっています。
短い東北の夏のクライマックスともいえる夏祭り。
様々な思いで、中央通りや一番町に飾られている七夕飾りをくぐって歩いたものでした。2011072121380001
・・時は流れ また夏が来て・・・懐かしいですね。
そう言えば、仙台一の旅籠「虎屋」の主だった「卯兵衛」さんが、2階から土間まで転げ落ちてしまったのは、七夕祭りで満員の時、泊まっている客同士の喧嘩を止めようとして突き飛ばされたんでしたね。
医者よ・薬よ・加持祈祷と、色々手を尽くしたのですが、腰が立たなくなってしまって・・・。
「ねずみ」も、七夕祭りとは縁があるんです。
(新聞記事から)
仙台の夏の風物詩「仙台七夕まつり」が8月6日に開幕し、仙台市中心部は多くの市民や観光客でにぎわいをみせている。
東日本大震災を受け、今年は「復興と鎮魂」をテーマに掲げる。
「『仙台七夕まつり』は、もともと星に願いを託すお祭り。
今年は、仙台・宮城そして東北全体の復興を願うお祭りとして開催することを決定した」(仙台七夕まつり協賛会の庄子正文実行委員長)
約3000本の竹飾りが市内の各商店街に取り付けられ、風にそよぐ吹き流しが市民や観光客の目を楽しませている。
仙台市中心部のアーケード商店街には朝から多くの人出でにぎわい、18時までに50万人を突破。
3日間で延べ175万人を見込む。

「圓朝語り」読後

稲葉Photo稔著「圓朝語り」。
斜め読みをしてみました。
主人公の三遊亭圓朝が、殺人事件の解決に関わるという。
その下手人探しの過程で、そろそろ飽きられて来ていた芝居噺に代わるものを模索する姿と、新作落語の創作プロセスが編み込まれています。
そして、その新作「牡丹灯籠」初演されるまで。
ミステリー小説としては、さほどのものだとは思いませんが、江戸末期の街や風俗を知り、圓朝の苦悩のようなものは、何となく味わうことが出来ました。
この小説は、三遊亭圓朝という人がどういう人なのかを知らないと、詰まらないかもしれません。
それに、殺人事件を解決するという面では、圓朝は「名探偵コナン」のような、快刀乱麻なキャラクターではありません。
まぁ、こういう小説もあるんですね。

「圓朝まつり」の朝

今日は、落語協会主催の「圓朝まつり」の日。

何のことはない、噺家さんたちの学園祭みたいなものです。
毎年炎天下で行われています。
今日も暑くなりそうです。
今年は、圓朝が亡くなって111年。
何と言っても、亡くなったのが1900年ですから、数えやすいんです。
そして、今朝「落語DEデート」聴いた圓生師匠が生まれた年でもあります。
だから、9月3日で、圓生師匠がご存命ならば、満111歳ということになります。
そんなことはどうでもいいですが、私は、高座以外で噺家さんと接することはやりませんから、全生庵に出かけて行って、おしゃべりをしたり、何かを買ったりはしません。
ただ、「奉納落語会」は聴きたいと思っています。
今日は、圓窓師匠ご出演の第二部が、午後3時15分開演予定ですから、これに合わせて谷中に行こうと思います。
・・・自宅の部屋からも、蝉の声が聞こえます。
真夏の朝・・・、「落語はやおき亭」を聴きながら。

日曜朝のラジオ番組

暑い日でも、陽の照る日でも、ラジオ番組は予定どおり。
まずは、志の輔さんの「落語DEデート」。
今朝は、名人六代目三遊亭圓生師匠。
   ◇ 浮世床    三遊亭圓生
大看板の「浮世床」というのも、なかなか渋いものがあります。
圓生師匠は、独演会などで長講をお演りになることが多いので、組み合わせとして、小品をお入れになることもありました。
例えば、「江戸の四宿」とか、「おかふぃ」とか・・・。
ところで、「おかふぃ」って、「甲府ぃ」と演題名が似ていますが、全然違います。
あんまり好きな噺ではありませんが。
続きましては、たい平さんの「落語はやおき亭」。
   ◇ 牛ほめ    林家たい平
パーソナリティのたい平さん自身のもので、「横浜にぎわい座」でのものだそうです。
「牛ほめ」も、他愛もない、落語の典型的なパターンの噺ですが、色々な知識を得ることができます。
家普請を褒める場面の、「家は総体檜造り・・」・「天井は薩摩の・・・」「畳が備後の・・・」なんて・・・。
そして、良い牛というのが「天角地眼・・・・」。
今日も暑くなりそうです。

玉屋ぁ~ぁ・・ ヽ(´▽`)/

そもそも「たがや」という噺は、「玉屋」さんという花火屋さんがなければ成り立たない噺です。Photo
打ち上げ花火を褒めるの難しいもの。
ドォ~ンと上がって空の上で開いた後、川へ落ちるまで、声を切らさないで「たぁまやぁぁ~」と長く続けるのが正式?だと言われています。
「たがや」のマクラでそう言ってます。
歌舞伎の掛け声のように、「玉屋っ!」と短く切るのはダメだと・・。
ところで、昔の江戸両国の川開き花火は、「玉屋」と「鍵屋」の2軒の大きな花火屋さんが競っていたそうです。
上流を玉屋、下流は鍵屋が受け持ち、花火が打ち上がると、見物人からはそれぞれの店名を叫ぶ声が上がったということでしたが、Photo_2 天保14(1843)年に、玉屋さんが火事を起こして廃業となってしまいます。
残ったのは鍵屋さんだけだったのですが、それ以後も花火の季節に「玉屋」の声は絶えることはなく、むしろ「鍵屋」よりも多かったようです。
これは技術的に高かった花火店を惜しむ江戸庶民の心情もあるでしょうが、やはり「たまやぁぁぁ~」という語呂の良さ、明るい響きの方がいいですよね。
そこのところが、「キーポイント」ですよ・・。  

呆れた放送(局)

「呆れ果てて物が言えない」とは、こういうことなのでしょう。
被災地の知事に向かってサッカーボールを蹴ったり、暴言を吐いてクビになった勘違い担当大臣がいましたが、またまた同じようなバカな放送局があったもので・・。
愛知県の某テレビ局は、岩手県産米を中傷するような不適切なテロップを流した情報番組の放送を休止。
「ふざけ心ですまされない大変不謹慎な表現に大きな問題があった」などと関係者らに改めて謝罪した。
「担当者がふざけ心で作製した仮のテロップを、操作ミスで放送した。ディレクターらの管理体制に甘さがあった」と・・・・。
また「風評被害を食い止めるべく、細心の注意を払わなければならない私たちが、あたかも岩手県産ひとめぼれが安全ではないような誤解を招きかねない放送をしたことを深く反省しています」詫びた。

こういうのはミスとは言わない。
そもそも作製した者・局は、斯界に存在してはいけないと思います。
放送局は一定期間全ての配信を禁止、担当者は当然クビにしてマスコミから追放ぐらいはしないと。
こんなレベルでは、中国の鉄道事故の対応や報道管制などをとても笑えたものではありません。
番組で、岩手県産米「ひとめぼれ」のプレゼント当選者を「汚染されたお米セシウムさん」などと表記したテロップを流したという・・
本当に許せませんね。

2011年8月 6日 (土)

深川丼

信心をしたので?ちょいとお腹が空きました。
Photo_2 稽古会に、時々煎餅や団子を買っている不動様の参道の入口の「伊勢屋」さんでは、甘味や食事が出来るのです。Photo_3
初めて入ってみて、ご当地の深川丼を注文しました。
・・それから、壁に「水大福」の写真が貼ってあったので、デザートで。
深川丼の美味さは、夏でも最高です。Photo_4
それから、「水大福」は当たりでした。
笹の葉に包まれて、冷たく冷やされたこしあんの大福・・・。
たまには、こういう老舗に入って見るのもいいものです。
ちょっと贅沢な、炎天下の下町散歩でした。

門前仲町

Photo 佃のお祭りを見物して、改めて落語「佃祭」への思いを新たにした後、ふと思いついて、大江戸線を一駅「門前仲町」で降りました。
いつも稽古に通っている街で、改めて行くこともないのですが、炎天下ですが、下町情緒に触れたくなりました。
改めて「深川不動」様と「富岡八幡」様をお参りして。
参道が南北方向ですから、日陰がなくて暑い・暑い・・・。
「住吉神社」の「八角神輿」を見た後で、今度は富岡八幡のあの瀟洒な神輿も改めて見ることができました。
天下泰平・国家安穏・五穀豊穣を祈る気持ちが、神輿に現れているのでしょう

蝉の"鳴き声"

蝉の鳴き声
今年の夏は、あまり蝉の鳴き声を聴いていなかったような・・・・。
「住吉神社」の境内で、一生懸命に羽根を震わせている蝉を見つけました。
「明治は遠くに・・・」なんていう石碑の横あたり、木の肌の保護色のようになっていますから、ちょっと分かりづらいかもしれませんが、健気な姿と、遠くで聴けばうるさいと思う鳴き声も心地よく、暫し見とれていました。
              蝉の鳴き声
もう少し拡大してみましたが、やはり同じようなものですか・・・。
ところで、蝉は「鳴き声」ではないんですよね。
でも、「鳴き声」というのが、一番似合っている気がします。
夏祭りの日の一コマ。

八角神輿

八角神輿
住吉神社の例祭の主役は、何と言っても「八角神輿」でしょう。
ところが、今年は震災のために、渡御が中止になってしまい、神輿庫に入ったままでした。
そこで見つけたのは、並んで保管されている新旧の神輿でした。
上が、デビューが来年に延期になった新しい神輿。
下が、今まで使われていたも神輿です。
    八角神輿
もし、渡御が行われていれば、こんな近くで実物をみることはできなかったかもしれません。  
              八角神輿
手前が新・奥が旧の神輿です。

住吉神社例祭(佃祭)

神田お玉ヶ池で小間物屋を営む次郎兵衛さんが見物に出かけた「佃祭」。
住吉神社例祭(<br />
 佃祭)
今日と明日、佃の「住吉神社」の例祭の別名が「佃祭」です。
落語「佃祭」を演らせていただいたからにはと、次郎兵衛さんの気持ちを慮って、佃に行ってみました。
「佃祭」を演った直後に訪れていますから、渡船場跡などは、よく分かっています。
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2011/06/post-1.html
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2011/06/post-166b.html
              住吉神社例祭(<br />
 佃祭)
今年は例大祭の年で、新しく作られた「八角神輿」がデビューするはずだったのですが、大震災のために来年にされたそうで、今年は神輿のないお祭りになりました。
勇壮な「海中渡御」は、もう随分前に行われなくなっているそうです。    
http://www.sumiyoshijinja.or.jp/rei.html

                             住吉神社例祭(<br />
 佃祭) 
それでも、行って良かったと思います。
次回「佃祭」を演る時は、この雰囲気を醸し出すことができるでしょうか・・・。

マエタケさんの訃報

放送作家(ですよね)の前田武彦(マエタケ)さんが亡くなりました。
肺炎だそうで、享年82歳。
先月、永六輔さんのラジオ番組に出演されていたのを聴きました。
とてもお元気だったのに・・・。
特別何か関わりがある方ではありませんが、昭和という時代を担っていた人ですから、時の流れを感じます。

桂平治さん

桂文治の襲名が決まった平治さんの「紀伊國屋寄席」での高座は、自信溢れる勢いのある高座で、前半の二人がだっただけに、楽しませていただきました。
先代と柳家権太楼師匠が混ざったような雰囲気でした。
桂文治発見!←先月地下鉄駅ホームで発見・・・
ふと、先日の番組を思い出しました。
「林家三平」・「桂文楽」・「三遊亭金馬」そして「桂文治」・・・。
平治さんは襲名前ですが、他の3人の師匠は、いずれも「名人」と言われた先代の後を襲名されています。
何かにつけて先代と比較されて、ご苦労されています。
でも、少なくとも、文楽師匠と金馬師匠は、時間をかけてご自身の芸風と名跡を固めて来られました。
それも、先代のコピーではなく、ご自身の個性をしっかり出して。
色々な評価はあるでしょうが、私はこの二人の師匠は好きです。
8月2日は、赤塚不二夫さんのご命日だったそうですが、「これでいいのだ」だと思います。
だから、平治さんも、勿論三平さんも、ご自身の「素」を大きくして行って欲しいものだと思っています。

山河破れて国あり・・?

3日の日経新聞に、作家の五木寛之さんが寄稿されていました。
題して「山河破れて国あり~公に不信、亀裂は深刻」・・・。
「国破れて山河あり」という中国の杜甫の詩をもじったものです。
太平洋戦争の敗戦は文字通り「国やぶれて・・・・」だったと。
ところが、今回の震災は「山河やぶれて・・・」だと。
でも、「国」も非常に危ういですね。それが「公への不信」ということなのでしょう。
ある危機管理の専門家が言ったことが印象に残っています。
「今の日本は危機管理以前に管理危機である」と・・。
この間の「仲がいい」と「いい仲」の違いなんてものではない、本当にこの国は大丈夫でしょうか?

「昭和の名人完結編」(13)

「小糸ぉぉ・・・、なんで死んだんやぁ・・・」。Photo_4
悲しげな三味線と唄に乗って響く、艶やかな悲しい声。
初めて「桂文枝」師匠の「立ち切れ線香」を聴いた時は、確か大学生の頃でしたが、身体が震えました。
学生時代に身体が震えるほど感動した噺って、このほかには・・。
 □ 柳田角之進  金原亭馬生
      生で初めて仙台で聴いた大看板
 □ ねずみ穴    三遊亭圓生
      初めてラジオで聴いた昭和の名人       
 □ 浜野矩随    三遊亭圓楽
      鈴本演芸場での運命的な浜野との出会い
 □ 芝浜       古今亭志ん朝
      車のラジオで聴き眼が曇りました
・・・・みんな震えました。
そうそう、「昭和の名人完結編」。
「桂文枝」師匠の声が好きでした。
やや甲高い声ですが、とにかく色気があった。
上方落語とは思えない品がありました。
上方落語の四天王のうちで誰が好きかと問われたら、私は即座に「桂(小)文枝」師匠だと答えると思います。
・・実は、上方落語はあまり聴きませんから、偉そうなことは言えませんが。

同じ二つ目さんでも

「紀伊國屋寄席」にこだわります。
Saishi1_2同様に「紀伊國屋寄席」に出演したことがある、二つ目の「桂才紫」さんのプログを見つけました。
あの「湯屋蛮」さんとはえらい違いですよ。
伝統あるホール落語会『紀伊國屋寄席』に出演させて頂きました。
こちらで○年連続の出番。
それだけでも有り難いです。
二ツ目の枠は一回1人なので年間12人。
その中で毎年選んで頂いていることの意味を、毎回自分に問いかけています。

今日は「○○」をかけさせて頂きました。
新たにに色々とお客様から教えて頂きました。
ありがとうございました。
そして、やる演目以上に「このホールで演じること」自体が非常に大きな勉強だと感じました。
これからもずっと上を目指していく私にとって、「その場を実際に経験する」ということは大変重要なポイントだと捉えています。
その中で紀伊國屋ホールで演じられること…次へ次へつなげます。

また師匠方の高座を聴かせて頂けるのも大きな経験。
寄席ならばトリの持ち時間ほど皆さんありますから、「ホールでの演じ方」というものを今後も見て聴いて研究させて頂きます。
うん、出番でない時もできる限り伺って、舞台袖から先輩方の高座を勉強させて頂こう。

・・・・・という。 (文は下線および一部加除してあります。)
やや優等生的なコメントではありますが、なかなかチャンスの少ない二つ目さんにとって、大事にすべき機会だと思うのです。
そういえば、才紫さんは、時々圓窓師匠に稽古をつけていただいているようで、師匠のブログにも登場しています。
ちょっとホッとしました。

2011年8月 5日 (金)

大手町落語会


「親子に友と、なぜか天丼」という、訳の分からない副題のついた「大手町落語会」。
要するに、柳家さん喬師匠一門に、客人格の入船亭扇辰さん、それからなぜかの三遊亭天どんさんの出演ということです。
  ◆  再編家族       三遊亭天どん
  ◆  酢豆腐        柳亭左龍
  ◆  団子坂奇談     入船亭扇辰
  ◆  路地裏の怪談    柳家喬太郎
  ◆  百年目                柳家さん喬
         
まあ、どうでもいいような噺もありました。
やはり私の中で、喬太郎さんは・・・「?」だという確認はできました。
左龍さんは、貫禄が出て来ましたが、聴く落語がみんな”きわもの”の芸のような気がします。
そんな中で、トリのさん喬師匠が「百年目」を語り始めた時、「えっ?これから百年目?」という頃でした。
案の定、落語会がはねたのは、夜10時になっていました。
金曜日で良かった・・・。
でも、前のネタを考えると、これぐらいはやってもらわないと、という気もしました。
この落語会は、平日の夜の開催ではなく、いつものように、土曜日の午後がいいと思います。

オフィス街の夏祭り

    
会社のある町内のお祭りが行われています。
あまり大きくはありませんが、神輿も繰り出しています。
オフィス街なのに、住んでいる人もいるんですね。
夕方,仕事を終えて帰る頃、外堀通りを入った路地では、和太鼓が勇壮な音をたてていました。

夏祭り真っ盛りです。
明日は、佃のお祭りに行ってみようかと思っています。   

広瀬さんのさん喬師匠評

広瀬和生さんが「柳家さん喬」師匠の評論をしています。
大ネタ長講で感動させ、滑稽噺で爆笑させる柳家さん喬。
彼は寄席の世界を代表する「正統派の雄」だ。
円熟した噺家の正攻法の古典落語を堪能したいという人には真っ先にお勧めしたい演者である。
1948年、東京下町の本所に生まれ、1967年、五代目柳家小さんに入門。
今や押しも押されもせぬ大看板だ。
さん喬は古典にきめ細かな演出を加えて深みを与え、メリハリの効いた演じ方で聴き手を魅了する。
古典の中に「現代的な解釈」を持ち込むのではなく、磨き上げた伝統的テクニックで思い切って感情を注入することで、独特の「さん喬の世界」を創り上げている。
そうしたさん喬の特徴が最もよく表われているのは大ネタ、中でも人情噺と呼ばれるものだ。
穏やかで丁寧な口調を基調としたさん喬の人情噺は、心地好い空気で聴き手を優しく包み込む。
だが、ここぞという場面では一転して、徹底的に押しまくる演技で感情を爆発させる。
そのドラマティックな演出による感情表現の見事さは、現代落語界でも突出している。
人情噺の中には、現代人の感覚からすると不合理なものが少なくない。娘が身を売って作った五十両を見ず知らずの若者にくれてやる『文七元結』、盗人の濡れ衣を着せられた父のために武家の娘が吉原に身を沈める『柳田格之進』などは、その最たるものだろう。
そうした噺の不合理さを克服するべく独自の演出を追究し、成功を収めている演者もいるが、さん喬は不合理を不合理のまま演じ、問答無用で感動させてしまう。
語り口の魅力と強烈な感情移入が、不合理な噺に説得力を与える。
それはまさしく「芸の力」だ。
※週刊ポスト2011年8月12日号
仰るとおり

圓朝まつり・奉納落語会

Encho2_s夏風邪を引かれた圓窓師匠師匠も、今週は養生して、今度の日曜日の圓朝まつり・奉納落語会で、ご自身の創作噺「ゆれるとき」をご披露いただけそうです。
詳しいことは分かりませんが、「三遊亭圓朝」と「山岡鉄舟」と「安政の大地震」が題材になっているようです。
ともに谷中の「全生庵」に眠る圓朝と鉄舟の師弟関係と安政の大地震・・で、「ゆれるとき」です。
111年忌の今年には相応しいテーマかもしれません。
それにしても、師匠はいつ噺を作っているんだろう・・?
いずれにしても楽しみです。

湯屋番 (`ε´)

本当に悲しいやら、腹が立つやらでした。
先日の「紀伊國屋寄席」での某二つ目さんの「湯屋番」です。
http://www.kinokuniya.co.jp/label/20110611120000.html
少なくともこの落語会では、事前にネタ出しているのですから、ベテランならば完成された芸、若手ならば現状でのベストの芸を聴かせてもらいたいと思います。
ネタ出ししていなくても、ホール落語会には、かなり高いレベルを求めたいと思います。
勿論、寄席ならレベルが高くなくても良いと言う訳ではありません。
ただ、寄席は、一面で芸の鍛錬・噺の練り上げの場でもありましょうし、その場でないと噺を決められない事情もあるので、未完成の噺にチャレンジすることもあれば、得意でない噺をやらざるをえないこともあるでしょう。
でも、ホール落語は違います。
ましてや老舗中の老舗の落語会「紀伊國屋寄席」です。
準備に準備を重ねても、罰はあたりません。
晴れ舞台の準備が出来ないほど、忙しい噺家さんとは思えません。
とにかく「湯屋番」ではなく「湯屋」でした。
確かに噺の途中で、心ないおバカ客の携帯電話が3回ぐらい鳴ったのは気の毒でした。
しかし、それを斟酌しても、それ以前でした。
まず声に張りがなくて、やる気が感じられない。
そういうキャラクターかもしれませんが、言葉が聞き取りづらいのは何をか言わんでしょう。
台詞は噛んだり言い間違えたり、言葉が出て来なかったり・・・。
これは完全に稽古不足。
最後は仕草です。
私が圓窓師匠にご指導いただいている仕草や動作の基礎を考えると、登場人物の位置設定が曖昧で、非常にわかりづらい。
特に「湯屋番」は、番台という特殊な場所が出て来ますから、位置設定をしっかりしてやらないと、噺もチグハグになり、聴く方もチンプンカンプンになります。
等々・・・・、とても残念でした。

2011年8月 4日 (木)

佃祭

先日の「紀伊國屋寄席」での、三遊亭金馬師匠の「佃祭」を聴いて、この噺のストーリー構成を分析してみました。

家に帰ってから、自分の演ったDVDも視聴してしまいました。
この噺は大きく以下のような場面に分けられるでしょう。
  ①次郎兵衛さん宅
   ~「佃祭」に出かける次郎兵衛さんが焼餅焼きのおかみさん
     から皮肉を言われる
  ②お祭り見物の帰りの船着場
   ~終い船に乗ろうとして5年前に助けた女の人に袂を引かれ
     止められる
  ③船頭の金太郎宅
   ~船頭のおかみさんに助けてもらったお礼を言われご馳走に
   ~終い船が沈ったことを知る
   ~船頭の金太郎からお礼・泊まるよう勧められる2
  ④次郎兵衛さんの留守宅
   ~長屋の連中が悔やみに来る
   ~次郎兵衛さんが戻って来て顛末を話す
  ⑤与太郎が身投げを探し歩く
   ~戸隠様へ納める梨を袂に入れた歯痛の女性 

この噺のテーマを何にするのかによって、割愛したり・軽くしたり、丁寧に語ったりすることになります。
  ⑴滑稽噺仕立てで
    ・焼餅焼きのおかみさんとの絡み
         ・長屋の人たちのお悔やみ
         ・与太郎が身投げを探し歩く(戸隠様へ納める梨)
    ⑵人情噺(情けは人のためならず)仕立てにして
    ・金太郎夫婦とのやり取り
    ・与太郎の真剣なお悔やみPhoto_4
私は、柳家権太楼師匠のCDを参考にさせていただき、「情けは人のためならず」をテーマにし、焼餅焼き
のおかみさんや戸隠様は割愛して、金太郎夫婦との会話と与太郎のお悔やみの2場面をクライマックスに持って行きました。
テーマにより、構成も大きく変わりますので、かなり雰囲気の異なる噺になります。
先日の「紀伊國屋寄席」で聴かせていただいた三遊亭金馬師匠の「佃祭」は、おかみさんの焼餅ちや長屋の人のお悔やみ、身投げを探す与太郎などを入れた演出でしたから、特に後半の展開は随分違いました。

本寸法の落語

日本語の意味は難しい。
よく「本寸法の落語」・「本寸法の噺家」なんていう表現がされていますが、この「本寸法」っていうのは、どんな意味なんでしょうか。
20100402225455839jpg「落語の本道を行く、落語らしい本格派の落語」というようなニュアンスでしょうか?
それでは、「本格派の落語」というのは?
ある書物では以下のように書かれていました。
落語の伝統を大切にしていることと表現力。
多くの人によって演じられている噺、何人もの名人の名演が知られている演目に果敢に挑戦し、高度な技量で時代背景やその場の情景をくっきりと描き出し、登場人物の高揚感やしみじみとして情感を味わい深く演じて、リアリティーに溢れた独得の世界を観客の眼前に出現させるような落語。
凄いですねぇぇ。
要するに、観客の多くに「いいなぁ。面白いなぁ。」と感じてもらえる落語と噺家さんということですな。
きっと、小噺ではなく、新作落語ではないかもしれません。
新作でも、時代背景が古ければ大丈夫かもしれません。
噺家さんの見栄えや品性みたいなものも求められるでしょう。

「桂文枝」襲名秘話?

「桂三枝」師匠の「桂文枝」襲名に関わる話が、ちょっと前のスポーツ新聞に載っていました。
Photo_3 来年7月に上方落語の大名跡「六代 桂文枝」を襲名する落語家、桂三枝(68)が、「新しい平成の文枝を作ります」と抱負を語った。
一方、入門から45年使い続けた三枝について「誰かに継がせる考えはない。落語の時は文枝、バラエティーでコケる時は三枝で」と襲名後も使用すると明言。
落語界史上初の“Wネーム”で新たな一歩を踏み出す。
69歳の誕生日を迎える来年7月16日に大名跡を継ぐ三枝は、晴れやかな顔の一方、襲名を決意するまでの悩んだ日々を振り返った。
「文枝という名前があまりに大きく、三枝への愛着もあり、継ごうか継ぐまいか、行ったり来たりした」。
唯一、相談したのが尊敬する江戸落語の重鎮、立川談志(75)。
昨年、体調不良で入院していた談志を訪ねると「せっかく三枝の名を大きくしたんだからやめとけ」と言われた。
思いは三枝自身も同じ。
襲名発表後、大阪市内で行った記者懇談会で「三枝は誰にも渡さない」と口にしたほどだ。
だが、師匠の五代目桂文枝が他界して7年。
「文枝という名をいつまでもほっとけない。年齢的にも69歳がギリギリ」と考えていたのも事実。
決断を報告すると、声が出ない談志はファクスで「人生なりゆき 文枝のほうがよくなったのか ぢゃあ 仕方がない 勝手にしろ 三枝のバカヤローへ」と返事を寄こしたという。
談志らしい愛情のこもった毒舌のエールを紹介し、思わず涙ぐんだ。
今後の「三枝」について、会見に同席した弟弟子の桂文珍(62)が冗談で「私が襲名します」と立候補したが、三枝は即、却下。
三枝の名で約220本の創作落語を作ってきた自負を語り「今後は三枝作、文枝で演じたい」とWネームでの活動を宣言した。
寄席の舞台である高座に上がる時は文枝、落語の作家名や40年司会を務めるテレビ朝日系「新婚さんいらっしゃい!」では三枝を使うといい、「文枝では椅子からコケにくい。三枝でひっくり返りたい」と笑わせた。
大名跡の責任と「三枝」へのあふれる愛で揺れた上方落語の雄は、「今は堂々と胸を張り、何の迷いもない。自分の歩むべき道はこれしかない」ときっぱり。
地元大阪の京橋花月の独演会で襲名を伝えると、客席から「六代目!」のかけ声が飛んだ。

上方落語のことですから。
名跡というのは難しいですね。
私なら迷わず大名跡を継ぎたいと思いますが、古今東西襲名を外から見て、実はそんなに簡単なことではないのかもしれません。
でも、やはり名前は一本でやって欲しいですね。
プライベートとの使い分けではありませんから。
それにしても、立川談志師匠の影響力は、物凄いんですねぇ。
そんなに立派な人なのかなぁ。

ベタなOB落語会の企画

ベタならベタでということで、「お江戸OB落語会」のベタ企画を考えつきました。
ベタなというより馬鹿なアイディアだと言われるかもしれませんが、まぁ洒落で検討してみたいと思います。
名付けて、リレー落語「花色木綿」。2
次回の「お江戸OB落語会」の番組に入れてみようという。
要するに、共通の持ちネタを、3人がリレーで演るというもの。
普通、真景累ヶ淵だとか、おせつ徳三郎だとか、子別れだとか、長講をリレーで演るという趣向はありますが、前座噺を分けてやろうという趣向はいかがでしょうか。
  □ リレー「花色木綿」 《案》   
     ①金願亭乱志     泥棒のマクラ
     ②賀千家ぴん吉   泥棒親分宅から空き巣回り
     ③喰亭寝蔵       裏長屋
20~25分程度で出来るのではと思います。
それぞれの本チャンのネタと別に、お座興で・・。
???駄目か・・・駄目だよなぁ・・

2011年8月 3日 (水)

左甚五郎もの

私の持ちネタ「ねずみ」も、「左甚五郎」が出て来て、痛快なストーリー展開になるのですが、落語には「甚五郎もの」が多くあります。
ねずみ十態
この左甚五郎、実在したか否かもはっきりしないようで、作り話や別人の逸話も甚五郎の手柄になっているものがほとんどのようです。
飛騨高山出身、京都に出て大工として技量を究め、江戸へ下る。
江戸落語には、この東下りの途上から登場して来ます。
京都から江戸に下る途中の駿河で金が無くなり無銭宿泊をしていたが、宿代を催促された替わりに竹の水仙を彫った。
主人が昼夜水を換えていると花が咲いた。
「町人には50両、大名には100両、びた一文負けてはいけない」との言いつけを守り、長州の殿様に買い上げられた。(竹の水仙)
同じく東海道は掛川宿。
東海道掛川の宿、道を挟んで左右に二軒の餅屋。
ともに猫餅を名物としている。
宿に入ってきた旅人が左の月之屋のほうが面白そうだと、店にやってきて、そこのばあさんから猫餅の由来を聞き出した。(いただき猫)
江戸に出て、日本橋のたもとにあった餅屋で餅を盗もうとした男の子を救い、文無しなので叩き蟹を彫り、その蟹が動くので、それを見たさに千客万来。(叩き蟹)
今川橋の大工現場で殴られ、その縁で大工政五郎棟梁宅に草鞋を脱ぎ、三井家に大黒様を彫って納める。(三井の大黒)
やや、艶笑噺に属するような噺もあります。(四つ目屋)
上野寛永寺の鐘楼に龍を彫り、この龍が夜な夜な前の不忍池に魚を漁りに出掛けた。という有名な話もあります。
残念ながら明治の初め上野戦争で焼失してしまいました。
Photoその後江戸を離れ、日光で眠り猫を彫ります。
これらは落語にはなっていないようですが。
そして、奥州松島見物で泊まった仙台の宿では、ねずみを彫りました。(ねずみ)
・・・という訳で、落語の世界では有名人です。
医者黒川道祐が著した『遠碧軒記』には、「左の甚五郎は、狩野永徳の弟子で、北野神社や豊国神社の彫物を制作し、左利きであった」と記されているので、彼が活躍した年代は、1600年をはさんだ前後20~30年間と言うことになります。
一方、江戸時代後期の戯作者山東京伝の『近世奇跡考』には、「左甚五郎、伏見の人、寛永十一甲戌年四月廿八日卒 四一才」とあり、寛永11年(1634)に41才で亡くなったとすれば、『遠碧軒記』より少し後の年代の人となります。
いずれにしても、実在したとすれば、江戸時代初めの頃に活躍した人ということですね。

さて林家三平さん

よく分かりません。
いくら、父親で先代の名跡を襲名したからと言って、何故先代の芸風まで真似をしようとするのでしょうか?
彼にだって、入門から真打昇進や襲名に至るまで、噺家としての立派な歴史(芸歴)があり、芸風がありましたよ。
私は、表情も仕草もきびきびしていて、ある面では兄の正蔵さんよりも評価していた部分がありました。
ところが、三平襲名と同時に、髪型も喋り方もみんな、先代を真似しよう、真似しようという感じがもろに見えてしまいました。
先代は「昭和の爆笑王」と言われた人。
今は平成になってもう20年以上も経過している時代。
今時、あのレトロなヘアスタイルが受け入れられますか?
今時、お客さまに向かって「旦那」なんて言って受け止めてもらえますか?私は「旦那」なんて言われたくありません。
名跡を継ぐというのは、大きな意味で芸風や型や伝統の継承という局面もあるでしょうが、決して芸のコピーではないと思うのです。
さて、三平さんの「芝居の喧嘩」。
芸が粗いのと、喋りが早口ではっきりしないのとで、何を言っているのかさっぱり分からない。
お客さんは、「(先代の)三平さんの息子だから」ということで、優しく見てくださっていますが、そうでなければ、その前に、これまた酷い「湯野番」を演った某二つ目さんと同様に、酷評されたでしょう。
昔、いっ平時代に聴いた「池田大助」や「浜野矩随」は、上手くはありませんでしたが、一生懸命さがあった気がします。
とても残念です。
そうそう、その「浜野矩随」で、若狭屋は矩随に向かって言います。
「矩随さん。お前さんはね、『お父っつぁんは"名人"でございます』って言われるたんびに、親父の真似をしよう、真似をしようと、真似ばっかりして来た。物真似はいけねぇ。物真似なんざぁ猿だってやるんだ。これこそが自分のものだと言うのを作ってこそ、初めて"名人"と言われるんだ。」と・・・。
「名人に二代なし」ですか?
三平さん頑張って。

芝居の喧嘩

落語の演目は、ポピュラーなものはかなり知っているつもりですが、鈴本演芸場で聴いた春風亭一朝師匠がなんて言う噺か分かりませんでした。
後で、「芝居の喧嘩」だということが分かりました。
「極付幡随長兵衛(きわめつき ばんずいちょうべえ)」という芝居の中の「舞台喧嘩の場」。
芝居の筋は、狂言も佳境に入ったときに酒に酔った白柄組らが狼藉を働いて舞台を台無しにする。
そこへ町奴の親分、幡随院長兵衛が止めに入り白柄組を叩きだす。
折しも桟敷で舞台を見ていた白柄組の頭領水野十郎左衛門は、長兵衛に遺恨を持つようになる、というものです。
落語のほうのストーリーとしては他愛ないもので、専ら話芸の力だけで聴かせるネタだと言われているようです。
さて、三平さんは・・・。

2011年8月 2日 (火)

圓朝語り

時は幕末。
Photo 大川のほとりで、一人の女が絞殺された。
芸に苦悩する若き噺家・圓朝もよく知る蕎麦屋の娘だった。
圓朝は、事件の謎を解き、娘の供養をすると同時に芸に役立てたいと考える。
だが、事件はいっかな解決せず、しかも幽霊譚まで飛び出して……。
落語中興の祖で、その語りが近代日本文学の出発点ともなった稀代の天才、圓朝の『怪談 牡丹灯籠』創作秘話にもつながる、江戸時代ミステリーの快作登場!
これはまたマニアックなミステリーですよ。
主人公は、かの三遊亭圓朝ということですから。
作者の名前を見て驚きました。
「稲葉稔」・・・。
えっ?それじゃあ、私の大好きな「柳家○ん○」師匠が書いた小説?
確か、師匠の本名はこんな名前だったような・・・。
調べてみると、同姓同名の作家の名前でした。
徳間書房。1,575円。
また買っちゃった・・・。

ベタな・・・

先日、最近は"オヤジギャグ"とも蔑称される"洒落"を言うと、「ベタな駄洒落・・・」なんて。
「へた」ではなくて「ベタ」です。「へ」に濁音が付きます。
いずれにしても、どちらも褒め言葉ではありません。
上方で言われるようですね。「ベタやなぁぁ」って。
要するに、「いかにもやりそうなことをやった。」・「言うだろうと思っていたことを言った。」というような意味でしょう。
ですから、ベタな洒落・ベタなギャグというのは、ありふれた・新鮮味のないということから、つまらないということでしょう。
漫画の世界のベタは黒く塗ること。
印刷会社ではモノクロ(黒)のこと。
新聞では、小さな記事のこと。
さて、今日もベタな一日が始まります。
大家さん、この裏も花色木綿・・!(関係ないか・・)

叩き蟹

圓窓師匠が「紀伊國屋寄席」でお演りになる予定だった「叩き蟹」という噺は、左甚五郎が出て来る、落語の定番のようなストーリーです。「甚五郎」・「情は人のためならず」がキーワード。
http://www.ensou-dakudaku.net/furrok/ta.html#52
江戸の日本橋のたもとに黄金餅という名物を売っている餅屋がある。
どこかの子供が餅を盗もうとして主に捕まり、これから折檻を受けるはめになって、それを見ようと、たいそうな人だかりになった。
後ろから割って出た旅人が、可哀想だからと口を利いてきた。
聞けば、大工の父親は怪我、母親は体調を崩して寝たきりだという。
旅人は「この子に情けはかけられないかい…?」
主は「こんなガキに情けをかけたって無駄だよ。言葉通り、ガキのためにならないから。
情けは人のためならず、と言ってね」
旅人「それは違う。その言葉はね」と言いかけてやめて、「勘定をあたしが払うから、この子に餅を食べさせな」
主「よし。そうしよう」
子供に三皿食べさせ、七皿分の土産まで持たせて帰してやる。
しかし、勘定を払おうとして気が付いた。財布がないのだ。
仕方なく、餅代百文の担保(かた)として、木で蟹を彫って名も告げず立ち去る。
主が腹立ち紛れに蟹の甲羅を煙管で叩くと、横に這い出した。
何度やっても、横に這う。これが評判となって、店はえらい繁盛。
二年後、蟹を彫った旅人が店にやってきた。
百文返して、あのときの坊やの消息を訊いた。
主は「あのあとすぐにあの子の両親を見舞い、医者を呼んで診せました。
母親は元気になったが、父親は助からず……。
それが、縁で子供がこの餅屋で働くことなり、今ではどうにか一人前、おかげさまであたしも楽になりました」
旅人「餅屋、悟ったな。あのとき、『情けは人のためならず。この餓鬼のためにならねぇ、無駄になるから情けはかけたくねぇ』って言ったな。あれは違う。
『情けは人のためならず』というのは、人に情けをかけると、それがいつか回りまわって自分に戻ってくるということ。
お前さんは子供の両親を見舞って、情けをかけた。それが縁で子供がここで働くようになり、今では楽ができて嬉しい。
ほぅら、情けが戻ってきた。
これをいうんだ。『情けは人の為ならず』というのは」
主「お名前を聞かせていただきとう存じます」
旅人「あの蟹を彫るとき、あたしは魂を打ち込んで仕上げたつもりだ。
お前さんもその魂を掴んでくれた。
だからこそ、いまだに元気よく這っているんだ。
つまり、名前はなくても魂があればいいんだ。
『無名有魂』とでも言うかな……。おわかりかな……」
子供「おじさん。左甚五郎って人でしょう。
死んだお父っつぁんの言っていたことを思い出したの…。
飛騨の高山に甚五郎って名人がいて、その名人はなにか気に入るといい仕事をして、黙ってどっかへ行っちゃう人なんだって……」
甚五郎「うーん、ばれたか…。
いかにもあたしは飛騨高山の匠(たくみ)、左甚五郎利勝」
主はびっくり。
子供も大喜びで、食べてもらおうと、餅を運んできた。
「黄金餅は情け餅と名前を変えたの。
また、切り餅も名物だよ。食べておくれ」
甚五郎が一切れとろうとすると、切り餅はいくつも繋がっているではないか。
「おやおや。坊や、まだ修業が足りないねぇ」
「すいません。庖丁を持って来ますから」
これを聞いていた蟹が、つ、つ、つ、つっと這ってきて、
「{両手の指を鋏の形にして}使ってくださいな」

仲がいい・裏を返す

日本語はとても難しい・・。
圓窓師匠の「救いの腕」を聴いていて・・・。
「姉さんは、善吉さんととっても仲がいいから、きっと夫婦になるんだと思ってた・・」
「仲はよかったかもしれないけど、そんな仲じゃないの。
お香ちゃん、"仲がいい"と"いい仲"っていうのは違うのよ・・・・」
Photo
「仲がいい」と「いい仲」は、違いますねぇ。
同じように、「裏返す」と「裏を返す」といのも、違うんです。
「裏返す」というのは、そうですよ、裏返すということですよ。
ところが、「裏を返す」というのは、遊郭で同じ遊女のところに二度目に訪れることを言います(言ったそうです)。
三度目になって初めて「馴染みになる」と、認知される訳です。
最近は、「裏を返す」というのは、最近は「逆の見方をする」という意味にも使われているようです。
「裏を返して言えば・・・」なんていう具合です。
ということは、裏を返して言えば、裏を返しただけでは、まだ花魁にはお客として取り扱ってもらえないということですな・・・。
日本語は難しい・・。
はけ(刷毛)には毛がありますが、はげ(禿げ)には毛がありません。
澄むと澄まぬで大違い・・。
おあとがよろしいようで・・。

2011年8月 1日 (月)

紀伊國屋寄席

心配が的中。
圓窓師匠体調不良のため休演、代演が金馬師匠・・。
http://www.kinokuniya.co.jp/label/20110611120000.html

  ◆  権助魚       春風亭朝呂久
  ◆  湯屋番       柳家初花
  ◆  芝居の喧嘩    林家三平
  ◆  天災        桂文楽
    ◆    鈴が森             桂平治
    ◆    佃祭                 三遊亭金馬
師匠休演が非常に残念でしたが、それだけでなく、今夜はとんでもない酷いモノを聴かされてしまいました。
前座の春風亭朝呂久さんの方がずっと上手いと思わせる、後から出た二人の体たらくと言ったら・・。
まあ、温厚な?私も呆れ果てる、無惨な代物でした。
「あれで木戸銭を取るんですか?」と、紀伊國屋さんに掛け合いたくなりましたよ。本当に・・・。
文楽師匠が出て来られて、やっと人心地ついた感じがしました。
平治さんは、相変わらずの爆笑もので楽しませてくれました。
そして、代演の金馬師匠は何と「佃祭」でした。
図らずも「佃祭」でしたから、真面目ににじっくり聴かせていただきました。
結論は、「乱志のもまんざらでもないぞ・・。」と。
同じ噺でも、どこに力点を置くか。
どんなテーマで作り上げるかによって、随分と噺の雰囲気や興趣が変わるものです。
そういう意味で、私の「佃祭」の構成は大正解だったと、改めて思いました。
大看板の高座と比べては、まことに僭越ですが・・・。

桂米朝展

桂米朝展 桂米朝展
紀伊國屋画廊で開催されている人間国宝「桂米朝展」。
「紀伊國屋寄席」が始まる前に、鑑賞・見物?しました。
輝かしい桂米朝師匠の足跡は、戦後の上方落語復興の姿そのものだと言えるでしょう。
師匠の落語界での功績は本当に偉大なものだと思います。
もともとは文学青年だったんですねぇ。
入場無料で拝見するには勿体ない、貴重な品物ばかりでした。
やや不謹慎ですが、何となく業績を偲ぶような雰囲気を感じたのは、私だけでしょうか?
明日が最終日です。

「落語中毒」シンドローム

「落語中毒」シンドローム・・・。
これは、私が勝手に名付けた言葉です。
      
素人が、自分で志したり、人から勧められたり、落語を聴きに行ったらやらされたりと、色々なきっかけはありますが、自己流で、あるいはプロの噺家さんに稽古してもらい、落語を演る羽目になります。
聴くのと演るのとでは随分違うもので、それぞれ苦労しながら稽古を重ねて初高座(発表会)に臨みます。
初高座での出来・不出来はそれぞれでしょうが、この後に多くの人が罹るのが、この「落語中毒」という、厄介で滑稽な「難病」です。
初めて落語に挑戦する時は、ほとんどの人がネタ帳を暗記しようとしますから、一通り覚えるのには、物凄い体力が必要になります。
ここで挫折しそうになりますが、「中毒患者予備軍」の方々は、悶えながらも何とか乗り越えます。
やっと台詞が覚えられると、今度は仕草・・・。
落語にはそれほど難しい決まり事はありませんが、特に上下(かみしも)を理解するのに苦労する人が多いようです。

台詞と仕草を並行して練り上げて行く過程も大変です。
「何で、こんな苦労をしなくちゃいけないの?」なんて思いながら・・、発表会が近づいて来て、仕上がり具合と迫りくる時間との狭間で悶々とします。
そして迎えた初高座。
言葉や不安とは裏腹に、多くの人が、稽古とは見違えるようなパフォーマンスを発揮します。
このあたりに、その人の"本性"が出て来.るのです。
高座に上がる前の舞台の袖では、心臓が口から飛び出すほどに緊張していた人でも、本番では、本人も驚くような、とんでもない「火事場の馬○力」が出る。
そして、高座を下りた時の、解放感と充実感と脱力感で、打上げのビールの美味さに、文字通り酔いしれるのです。
この脱力感が「落語中毒」の最初の症状・・・。
そして、帰宅して一人になって、初めての経験で疲れた身体を癒そうと床に入っても、ハイな気分が続いていて、なかなか寝付けません。
このハイテンションが、本格的中毒の一歩手前です。
打上げの後ぐらいから布団に入る頃に、「次は何を演ろうかな・・」なんて考えている自分を見つけて驚く人は、もう完全な中毒患者です。
一夜明けても、何となく高座の余韻が残っている。
拍手や笑いや、カラカラになった口や、汗だくの身体やらが、強弱の波になって、押し寄せて来て、ボーっとしている。
さらに、通勤途上や、仕事や家事の最中に、ぶつぶつとネタを呟くようになると・・、もはや完全な中毒ということになります。
                 
この病気は、原因は明らかですが、残念ながら現状では有効な治療方法や薬剤はありません。
・・・こうして、昨日も今日も、そして明日も、厄介な(滑稽な)患者が増えて行くのです。
高座の(落語を演る)「魔力」にとりつかれた人たちが・・・。
もう、落語を演らずにはいられない身体になってしまっているのです。
この病気は、完治させるのは絶対に不可能ですから、これから一生、この病気と上手く付き合って行く覚悟が重要です。
発熱や痛み、内臓や手足の不具合などの症状もありません。
また、食事や運動などの制限も必要ありませんから、普段の生活には全く影響はありません。
が、高座(発表会)が近づくと、罹患して時間が経っても、その度に、後悔と緊張との切迫感から、仕事や家事が手に着かなくなったり、中には、外出中に歩きながらぶつぶつと奇声を発して、周囲を驚かせたり、気味悪がらせたりする症状が出る人もいます。
ちなみに私も"重度の"中毒患者で、今から35年前頃に罹り、一時(4年間)はかなり重症になりました。
その後、環境が変わった(就職した)ことにより、暫く症状が緩和していた時期もありました。
しかし、これは決して完治や改善した訳ではなく、落語から離れていたので、単に症状が潜伏状態だっただけで、5年ほど前に落語に戻った瞬間に再発。
今は以前より重い症状になっています。
その酷さは、このプログをご覧の皆さまもよくご存知なところです。

大朗報!

大朗報!
「大朗報」なんて言っても、宝くじに当たったとか、総理大臣が辞めたなんていう話ではない、ごくごく細やかなものです。Pdrm
「圓朝まつり・奉納落語会」のチケットが当たりました
第二部の圓窓師匠がご出演の部です。
当選はがきが来ないので、すっかり諦めていましたので、驚きと喜びはひとしおです。
ただし、当たりは大変嬉しいものの、例年のあの炎天下に足を運ばなければいけません。
  【第一部】 
   「昔の名前で出ています~志ん生がつけていた芸名」
     ◇ 安兵衛狐      隅田川馬石
     ◇ 狸賽         柳家甚語楼
     ◇ たがや        古今亭志ん馬
           ◇ 死神         金原亭馬生
  【第二部】
   「全生庵物語 圓朝と鉄舟」
     ◇ 次郎長と鉄舟   宝井琴調
     ◇ ゆれるとき     三遊亭圓窓
                     (三遊亭圓窓作)

「やぶい亭竹林」師匠

「復興出前寄席」の報告を落研OBのMLで行ったところ、「恋し家古狂」師匠から、やはり落研OBの「やぶい竹林」師匠のことでコメントがありました。
石巻市海岸近くに、竹林師匠が院長をされていた「医療法人Ⅰ病院」があったが、その病院とご本人のことがちょいと気がかりだという・・・。
私は直接存じ上げませんが、医学部のご出身の方だそうです。
ご本人は数年前リタイヤしたとのことでしたがと。
インターネットで調べてみたところ、この病院の状況だけは分かりました。
石巻の海岸からすぐ近くの場所にあった病院のようで、津波の被害をもろに受けてしまったようです。Photo_2
被災直後は、「津波の被害甚大。孤立状態。 患者・職員に死亡者あり。83名の患者の緊急輸送が必要。」だったそうです。
当然のことながら、診療はできず。
最近では・・・、まだ診療は再開できず、ボランティアの宿泊所になっているようです。
病院の周りの住宅は被災して、無くなった住宅、人が住めない住宅がほとんどのようです。
あるプログで知った情報で、その写真も拝借させていただきました。
まだまだ復興には時間が必要です。
・・竹林師匠は、恐らくご無事だと思います・・。

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