大台の誕生日
母が、今日で満80歳になりました。
両親は田舎で二人暮らしですが、おかげさまで健在です。
昔教職にあり、田舎のことですから、私と妹以外の学年はほとんど担任していたので、未だに「先生」と呼ばれています。
そんな母も八十路。
とりあえず、携帯メールでお祝いを言いました。
いつまでも元気でいて欲しいと思います。
直接渡すのは照れ臭いので、誕生日のプレゼントを贈りました。
今日は、ずっと習っている「詩吟」の発表会だということで、本人は張り切っているようです。
私は、詩吟のことは全く知りませんが、「小谷城懐古」というのを唸るそうです。
調べると、浅井長政もののようです。
将星更不顧輸贏(将星更に輸贏を顧みず)
強別妻孥貫款誠(強いて妻孥に別れて款誠を貫く)
今日丘墟荒草裏(今日丘墟荒草の裏)
・・・・・・・
浅井長政は敢然として勝敗を無視したのである。
強いて妻子を城から脱出させた後、朝倉氏との信義を重んじ城を枕に討ち死にした。
今日雑草の生い茂る城址の中に立ってみると嘗てその節を曲げなかった浅井長政にも似た竹が、今でも清らかな風声を挙げている。
小谷城は、日本五大山城の一つに数えられる。
標高約495m小谷山(伊部山)から南の尾根筋に築かれ、浅井長政とお市の方との悲劇の舞台として語られることが多い城である。
戦国大名浅井氏の居城であり、堅固な山城として知られたが、元亀・天正の騒乱の中で4年間織田信長に攻められ落城した。
浅井長政は永禄三年(1560)浅井家の当主となり織田信長の妹お市を娶り、織田家と同盟を結んだ。その後湖北から湖西にわたり威をはり、信長の覇業達成に協力した。しかし元亀元年(1570)信長の越前責めに際しては、父祖以来朝倉氏より受けた重恩に報いるために、小谷城で反信長の兵を挙げた。信長は一旦兵を引いて、京に逃れたが、天正元年(1573)七月の再攻撃で足利義明が信長に降伏し、室町幕府は滅亡した。朝倉義景が自刃するに及び、小谷城は全く孤立した。8月27日からの織田勢の総攻撃で、命運の尽きたことを悟った長政は、お市と子供3人を信長の陣に送った後、父久政と共に城を枕に討ち死した。