宮城県沖地震の頃
学生時代のテレビ局でのアルバイト。
昭和53年の宮城県沖地震で、仙台市周辺を放送局のカメラマンと一緒に駆け回りました。
先日お話した女川原発ほどの恐怖はありませんでしたが、やはり私の人生観に影響を受けた出来事に遭遇しました。
ある意味で、この出来事で進路が変わったと言ってもいいかもしれません。
昭和53年6月のことでした。
東京で行われた「第1回全日本学生落語名人位決定戦」に出場した翌日が「宮城県沖地震」でした。
その日から、放送局に入り浸り、ひたすら地震の被害状況の取材に走りました。
あの頃はまだVTRがない時代で、撮影は35ミリフィルムのカメラでしたから、フィルムとバッテリーを持つカメラマンの助手が必要だったんですね。
仙台港の石油タンクから漏れ出し、周辺を真っ黒にした重油。
コンクリートブロックで犠牲者が出た現場。
倒壊した建物やインフラが破壊されたマンション・・。
大きな余震が来たら、背後の斜面から崩落した土砂に埋まってしまうかもしれないという小学校の取材で、グラウンドの中に車を停めて夜を明かしたこともありました。
あの光景に出会ったのは、地震から数日が経った時でした。
いつものように?カメラマンにくっついて市内に出ていた私は、仙台市の旧市街から後背地の新興住宅地に入りました。
山を削り谷を埋めて造成された住宅地でした。
こういう場所での幸不幸の分かれ目が、家の建っている場所が、山を削った部分か、谷をうめた部分かということでした。
後者の場合、家の躯体に問題がなくても、土地や土台が脆弱なために、住むことが出来なくなってしまった家が多くありました。
ある家の前で、その家の奥さんらしい人が、瓦礫やゴミの片付けをしていました。
どうやら、市から立ち入りを禁止された家の人のようでした。
放送局の人が「奥さん、今のご感想は・・?」と、この人にマイクを向けました。
「・・・!」、その奥さんは一瞬顔を強張らせ、怒りの表情になった後、我々に頑なに顔を背けました。
さらに、「家が住めなくなって大変ですね」・・・。
奥さんの肩が細かく震えていました。
あの時の、悲しげな、怒りのこもった顔が忘れられません。
「そんなこと聞いてどうするんですか・・・」と、素朴に思いました。
「見ればわかるんだから、そっとしてあけるのが人の道では・・」。
それが真実の報道なのかな。ただの野次馬じゃないか・・・
マスコミ就職への夢がスーッと引いて行った瞬間でした。
(マスコミの人からすれば、バカみたいな次元でしょうが。)
私は、「茄子屋政談」の因業な大家にはなりたくなかったし、結局なれませんでした。
【宮城県沖地震】1978年6月12日の17時14分44秒に発生したマグニチュード7.4の地震。
都市ガスが13万戸で供給停止となり、老朽化または手抜き工事だったブロック塀の倒壊、1960年代に造成された新興住宅地の地盤崩壊、水田地帯を開発した地区での液状化現象が発生しビルの倒壊や傾斜が見られるなど、仙台市を中心に大きな被害が生じた。
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