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2011年4月10日 (日)

女川原発

地震で福島原発が大問題になっています。2
政府も電力会社も、何とも情けない対応に終始していて、不安も頂点に達しています。
原発といえば、私には忘れられない思い出があります。
学生時代、落研の先輩が地元のテレビ局にいらっしゃった関係で、アルバイトで頻繁にお手伝いをさせていただいていました。
イベントや番組作りや報道、あるい新聞のスクラップづくりなど、アパートの部屋と落研の部室にいない時は、その放送局にいたと言っても過言ではないほどでした。
当時、仙台をフランチャイズにしていたプロ野球ロッテ・オリオンズも強かったし、選挙や、春秋の番組宣伝など、とにかく楽しいアルバイトでした。

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「東北電力女川原子力発電所」建設に関して、その是非をめぐって世間の意見が二分されていたのも、ちょうどこの頃でした。
ある時、「女川漁業協同組合」がその「漁業権」を放棄するか否かの決断をする総会が開かれることになりました。
「漁業権を放棄する」ということは、即ち「原発の建設を地元漁民が認める」ということにほかなりません。
呑気なアルバイト学生は、放送局の報道部の担当者の人たちと、この総会の取材をするために勇躍現地に赴きました・・・・。
・・・そこで私を待っていたものは・・・。
総会が開かれる会場の前、賛成派・反対派がスピーカーを使って、がなり合う騒然たる雰囲気でした。
そんな時に、カメラマンの脇で、報道の腕章をしてボーっとしていた私の前に立ったのが、地元の漁業者と思しき一人の老婆でした。
そして、手拭を被った老婆の右手には、何とこぶし大の石が握られていました。
「おめぇら何しに来た!帰れ!」と叫んで、石を握った手を振り上げ、物凄い形相で私たち"報道陣"を追いかけて来ました。
「・・・・・に、逃げろ!」・・・・。
あの時の緊迫した表情と、絞り出すような叫び声は、30年以上経った今でも忘れることができません。
先祖代々受け継いで来た良好な漁場を、安全かどうかも分からない物に明け渡さざるを得ない無念・・・。
マスコミに就職したいと思っていた私には、鉄槌を撃ち込まれた気持ちがしました。

・・「東北電力女川原子力発電所」は、その後計画通り建設され、東北地方に電気を送り続けていましたが、"あの日"に停まってしまいました・・・。
あの時の老婆の顔が浮かびます。
あの人たちの気持ちを思うと、一旦作ったからは、しっかり復興させ、再び安全に電気を送って欲しい・・・。
今回の東日本大震災で、あの頃のことが走馬灯のように思い出されて来ます。
第2の故郷の大地が揺れている。
そして懐かしい人々が泣いている・・・。つらく、やるせない。

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