雫石航空事故
宮城県沖地震とともに、学生時代にテレビ局のアルバイトで出会った社会的な出来事の思い出・・。
1971年7月30日に発生した航空機魔同士の空中衝突事故。
全日空の旅客機と航空自衛隊戦闘機が飛行中に接触し、双方とも墜落した。
自衛隊機の乗員は脱出に成功したが、機体に損傷を受けた旅客機は空中分解し、乗客155名と乗員7名の計162名全員が犠牲となった。
一般には全面的に自衛隊側に事故責任があるとされており、刑事裁判および民事裁判では、自衛隊機側の責任がより重かったと判断された。
乗客の中に、静岡県富士市の「吉原遺族会」北海道旅行団一行が多く搭乗していた。
第二審の仙台高等裁判所(1978年5月9日)は、教官の控訴に対しては「見張り義務違反」があったとして棄却したが、訓練生に対しては無罪を言い渡し、そのまま確定した。
・・・そうか、あの日5月9日。
私は、この仙台高裁の判決が出た時の、被害者側の記者会見場で、会見しているテーブルの下の床に伏せながら、必死にマイクを向けていました。
富士市の遺族会の方(=富士市民)が多数犠牲になった事故で、郷里に近い人々の惨事に、中学生だった私も、とても胸を痛めていた事故でした。
まさか、その事故の区切りの裁判に、間接的ではあるものの接近遭遇したことに、驚きを感じながら、一生懸命マイクを握っていました。
« 明烏 | トップページ | 先輩からのメール »
「らんしのしんら」カテゴリの記事
- ブログ紹介(2020.11.01)
- 続きはhttps://ameblo.jp/motch-10413へ(2020.10.09)
- 稽古をした演目(2020.09.09)
- 新しいサイトへ(2020.08.11)
- 本日より新しいサイトへ(2020.07.01)