五代目春風亭柳朝師匠
今日2月7日は、春風亭一朝師匠や小朝さんの師匠だった、「五代目春風亭柳朝」師匠のご命日だそうです。
かつて「落語四天王」の一人といわれた人気の師匠。
私は、本物は拝見していませんが、テレビ・ラジオではよく視聴していました。
本などで読むと、生粋の江戸っ子だったそうで、残念ながら若くして亡くなってしまいました。
亭号が「春風亭」になったのは、師匠の彦六師匠が、八代目林家正蔵の名跡を一代限りの条件で七代目の遺族である林家三平師匠から借り受けていた為、これに配慮して、自分の弟子が真打に昇進した時は他の亭号に変えさせることとしたものだそうです。
また、春風亭の名跡は落語協会にもありましたが、八代目春風亭柳枝師匠没後封印されていたため、彦六師匠がは「日本芸術協会(現:落語芸術協会)」の会長だった六代目春風亭柳橋師匠に面会し、柳朝を名乗る了承を得たということです。
私が最初に柳朝師匠を聴いたのは、「もぐら泥」と「付き馬」だった気がします。
学生時代に「花色木綿」を演った時、マクラの泥棒の小噺(仁王かぁ・鯉が高い等々)を参考にさせていただきました。
あっさりしていて、言葉も名前と同様に流暢(柳朝)な師匠でした。
評論家の吉川潮さんが、「江戸前の男 春風亭柳朝一代記」という本を刊行されています。
かなり分厚いですが、なかなか面白かったです。
1950年3月、五代目蝶花楼馬楽(後の林家彦六)に入門し小照。
1951年一旦転職、翌年再入門し、林家正太に改名。
1953年5月、二つ目昇進し照蔵に改名。
1962年5月、真打昇進し、5代目春風亭柳朝襲名。
1960年代はテレビ・ラジオでも顔を売り、立川談志、古今亭志ん朝、三遊亭圓楽と「落語四天王」と呼ばれた。
1972年、五代目柳家小さんが落語協会会長に就任すると同時に同協会専務理事に就任。後に常任理事に就任。
1980年、二番弟子の春風亭小朝が36人抜きで真打昇進。
1982年12月、脳梗塞に倒れる。
1991年2月7日、高座復帰出来ぬまま、死去。61歳没。
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