左甚五郎
「特撰落語会」で聴いた浪曲「左甚五郎旅日記 掛川宿」。
生没年不詳。江戸時代に彫刻の名人とたたえられた人物。
「日光東照宮の眠り猫」、「上野寛永寺の竜」などが代表作とされますが、全国各地に甚五郎作という彫刻が残されています。
講談や落語などでも数多く語られていますが、実在の人物であったかどうかもはっきりしないそうです。
実在説では、『日本歴史大辞典』に以下のようあるそうです。
足利家臣伊丹左近尉正利を父とし、文禄3年(1594年)播州明石に生まれる。
父親亡き後、叔父の飛騨高山金森家家臣河合忠左衛門宅に寄寓。
13歳で京都伏見禁裏大工棟梁遊左法橋与平次の弟子となる。
元和5年(1619年)に江戸へ下り、徳川家大工棟甲良(こうら)豊後宗広の女婿となり、堂宮大工棟梁として名を上げる。
江戸城改築に参画し、西の丸地下道の秘密計画保持のために襲われたが、刺客を倒し、寛永11年(1634年)から庇護者老中土井大炒頭利勝の女婿讃岐高松藩主生駒高俊のもとに亡命。
その後、寛永17年(1640年)に京都に戻り、師の名を継いで禁裏大工棟梁を拝命、法橋の官位を得た後、寛永19年(1642年)高松藩の客文頭領となったが、慶安4年頃(1651年)に逝去。享年58。
私の持ちネタの「ねずみ」をはじめ、「竹の水仙」・「三井の大黒」の甚五郎が有名ですが、上方落語には、数多く甚五郎を取り扱ったものがあるそうです。
三代目桂三木助師匠は「ねずみ」のマクラで、甚五郎の経歴?に触れていますが・・・。
でも、甚五郎は落語国のスーパーマンですから、実在してもしなくても構いません。
「水戸黄門」や「大岡越前」は実在の人物でも、諸国漫遊や裁きはフィクションだというのと同じようなものです。
群馬県には「木枯し紋次郎の墓」があるそうですね。
実在しないというトーンでは、下のようなコメントも見つけました。
江戸初期に改易された讃岐(さぬき)国高松藩主、生駒家の分限(ぶげん)帳に大工頭(だいくがしら:→ 大工)甚五郎という名がみえ、墓も現存するが、左甚五郎とむすびつけるには確証に欠ける。
早くは、1675(延宝 3)年に、医師で儒者の黒川道佑が書いた「遠碧軒記」が「左の甚五郎」という人物についてふれている。
その作品は、京都北野天満宮の透彫(すかしぼり)、豊国神社の竜の彫り物で、左の手で上手に細工したとある。
江戸前期には、すでに甚五郎伝承が生まれていたことがわかる。
おそらくは、織豊期~江戸前期に、権力者の廟(びょう)や高名な社寺にすぐれた彫刻がみられるようになったため、その技法をたたえる名工の逸話が生まれた。
のち各地の社寺に彫刻が多くもちいられるようになると、そうした名工の話がさまざまな人物のエピソードをとりこみながら、左甚五郎伝承として各地につたわっていったと考えられている。
また、日光東照宮の眠り猫についての逸話があるそうです。
徳川家康公の墓をつくるときに、ネズミが大量に発生して困ったので、左甚五郎さんに、彫刻を彫ってもらうことにしました。
左甚五郎さんは、その仕事を引き受けました。
役人に、もらったお金で朝から晩まで、宴会ずくしです。
しかし、最後の一日だけはみんなを戻し、一人で部屋にこもり、猫の彫刻を彫り始めました。あくる朝、役人は「さぞ大きくて、怖そうな猫だろう。」と、想像しながら左甚五郎のもとへ向かいました。
しかし役人は、彫刻を見てびっくりしました。
左甚五郎の作った猫は、役人の想像とは全く違い小さくて、しかも寝ているのです。
しかし、家光は左甚五郎に何か考えがあるのではと、門のところにねこを飾ってみると、日に日にネズミが減っていきました。
各地にある甚五郎の作品といわれるものは・・・
日光東照宮(栃木県日光市) - 「眠り猫」
妻沼聖天 歓喜院(埼玉県熊谷市)
秩父神社(埼玉県秩父市) - 「つなぎの龍」
安楽寺(埼玉県比企郡吉見町)
国昌寺(埼玉県さいたま市緑区大字大崎)
上野東照宮(東京都台東区)
淨照寺(山梨県大月市)
誠照寺(福井県鯖江市) - 「駆け出しの竜」
園城寺(滋賀県大津市) - 「閼伽井屋の龍」
石清水八幡宮(京都府八幡市)
成相寺(京都府宮津市)
養源院(京都市東山区) - 「鶯張りの廊下」
知恩院(京都市東山区) - 「忘れ傘」 等々・・・・