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2011年2月 1日 (火)

柳原(やなぎはら)

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「三方一両損」で、「神田白壁町」に住む左官の金太郎は、「柳原」を通りかかり、「神田竪大工町」の吉五郎が落とした財布を拾います。
さて、この「柳原」というのはどのあたりなのでしょうか?
やはり、落語をやる上で、この土地勘や位置関係を知ることはとても重要なことだと思います。
「柳原」は、今の秋葉原駅南の万世橋から神田川の南岸を東に行ったあたりになるそうです。
現在の住居表示で言えば、「神田岩本町」「東神田」あたりになると思います。
このあたり、昔は随分賑やかだったそうですから、金太郎も吉五郎も、柳橋や両国方面に行く時などは、柳原を通って行ったのでしょう。

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「靖国通り」という大きな通りが、九段や神田神保町から神田須田町を通り、東方に向かいますが、神田須田町あたりから両国橋方面に至る間は、この「柳原通り」が今の「靖国通り」にあたっていたようです。
この「柳原通り」は、現在は一方通行で、中央通り、昭和通りや江戸通りなどの大通りでは横断禁止という、すっかり路地の一つになっていますが、昔は、すぐ近くを流れる神田川の水運と相俟って、重要な交通路でした。
江戸時代の古地図には、他の街路に比べてはるかに太く描かれており、これが主要道路であったことが伺えます。
また明治以降は、中央通りの万世橋交差点と、隅田川に架かる両国橋とを結ぶ主要街路として機能しており、今の道路の姿からは想像が困難ですが、人車の通行のみならず路面電車も営業していたほどです。
ところが、関東大震災が起きて、東京の市街地は焼け野原となり、その復興を契機として、この付近の区画整理が行われました。
道路混雑の緩和のためにこの区間に新しく「靖国通り」を建設して、従来「柳原通り」を通っていた幹線道路交通を路面電車も含めて移しましたので、「柳原通り」はかつての賑わいが想像できないような姿になってしまっているという訳です。

さて、大工の吉五郎が住んでいた「神田竪大工町」は今の「内神田三丁目(JR神田駅西側)」です。
大工町と言われるように、落語に出て来る大工さんたちも多くここに住んでいました。
「子別れ」の熊さんも、吉原で「俺は神田竪大工町にいる大工の熊五郎てぇ堅気の職人だぁ・・・」と言っていたし、「大工調べ」の棟梁の政五郎もここに住んでいました。横大工町と言う地名もこの北側にあったようです。
一方、左官の金太郎が住んでいた「神田白壁町」は、今の「神田鍛冶町二丁目」です。
幕府壁方の棟梁安間源太夫の拝領地で、左官職が多く住んでいた典型的な職人町でした。
すぐ南に下白壁町があり、北側には少し離れて上白壁町がありました。「居残り佐平次」の佐平次もここの生まれです。
佐平次が後半遊郭の主人に「おやじぁ神田の白壁町で、かなりの暮らしをいたして居りましたが、生まれついたる悪性で・・・」と啖呵を切っていました。
・・・ということは、吉五郎と金太郎はJR神田駅を挟んで(?)すぐ近くの町に住んでいたんですね。

江戸には、南北2つの奉行所がありました。
北町奉行所は、今の東京駅の八重洲口あたり。
南町奉行所は、今の有楽町マリオンのあたり。
えっ? それならば、神田で起こったこの事件は、大岡越前の南町奉行所でなく、北町奉行所で取り調べになるのでは・・・?
この解答は、以下で明白になると思います。
南と北の二つの町奉行は交代で月番制をとり、非番の町奉行所は正門(大門)を閉ざして、その月は新たな訴訟や請願を受け付けないことになっていたのです。(仕事そのものは継続して行っていた。)

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